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2016/01/01

火曜4限概論発表

3回生のちーちゃんです
今回は「明治後期の京都市の動き
~内貴甚三郎・西郷菊次郎の活躍を通して~」
というテーマで発表しました

はじめに
 明治期の京都では「京都策」と呼ばれる勧業政策が実施され、その中でも重要な政策が「京都市三大事業」(以下は三大事業)と呼ばれるものです。この事業の完成により現在まで続く都市としての骨格ができあがりました。この事業に大きな役割を果たしたのが内貴甚三郎(1846-1926、以下は内貴)と 西郷隆盛(1828-1877)の息子である西郷菊次郎(1861-1928、以下は西郷)です。内貴は初代市長(1898~1904年)に、西郷は第2代京都市長(1904~1911年)に就任し、京都の都市経営に手腕を発揮しました。
西郷の京都での活躍は伊藤之雄「都市経営と京都市の改造事業の形成―1895~1907」(伊藤之雄編著『近代京都の改造―都市経営の起源1850~1918』、ミネルヴァ書房、2006年、31~82頁)と並松信久「明治末期京都の都市経営―西郷菊次郎の事績を通して―」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第17号、2012年、126~175頁)で既に明らかにされています。 
また、西郷は京都市長に就任する前に台湾宜蘭庁の長官として堤防などのインフラ整備を行っています。しかし台湾での西郷に関する史料は日本国内ではほとんどなく、佐野幸夫『西郷菊次郎と台湾』(南新聞開発センター、2002年)しかなのです。しかもこの著書は歴史小説という体裁をとっており史料による裏付けが適切に行われているかは疑問であります。
次いで内貴についてですが、伊藤や並松の研究では内貴の市長時代は既に明らかにしていますが、それ以外の彼の活動はほとんど記していないので、私が調べた文献で補うことにします。
今回は伊藤・並松の文献を基にして内貴と西郷による三大事業の取り組みの一部について考察し、伊藤・並松の主張に対する疑問も挙げながら考察します。また、内貴を調べていくうちに彼の息子である内貴清兵衛(1878-1955、以下は清兵衛)についても興味を持ったので併せて調べました。

Ⅰ.内貴と西郷の三大事業に対する取り組みの一部
ここでは、三大事業の内容と内貴・西郷の三大事業に対する取り組みを紹介します。
三大事業は大きく3つに分けられます。
1 第二琵琶湖疎水を建設して多くの水や電力を得る
2 上下水道を整備して衛生をよくする
3 烏丸通・四条通などの道路を拡幅し、市営電気鉄道を敷設する
三大事業の必要性を1905年11月9日付の『京都日出新聞』が社説で訴えています。第一に都市経営において東京市・大阪市に「すべての改良」が追いついていない状況であり、名古屋市・神戸市・横浜市等に優っているわけではないのは嘆かわしいと記載しています。第二に適当な水源を見つけて、上下水道を整備し交通機関を整備することであると主張しました。
ここからは、内貴の取り組みをみていきます。1902年、内貴は京都府知事と内務省に第二琵琶湖疎水建設の請願、上水道の調査を行い、1903年には下水道・市営電気鉄道敷設の予算計画をまとめました。しかし、日露戦争が勃発し国からの補助金が下りない状況となりました。次に西郷の取り組みです。西郷は市長就任直後、西郷は米国・欧州での留学経験がある者や土木事業に詳しい者を幹部職員として採用しました。1906年4月に内務省から第二琵琶湖疎水建設の許可が下り、西郷は1906年3月の市会で三大事業の予算案を示し、1907年3月6日の市会で1726万円(現在の2000億円以上)の三大事業予算が成立しました。三大事業の費用の一部は国庫補助を受けたが、ほとんどがフランスで外債(フラン債)を発行し確保しました。
  
Ⅱ.内貴・西郷の研究と疑問点について
 ここでは伊藤氏と並松氏の研究に対する疑問点をいくつか紹介します。まず伊藤氏は西郷をカリスマ市長と評価する一方、内貴については消極的性格で国庫補助が受けられないからとの理由で1903年9月の時点に三大事業をあきらめる姿勢をみせたと評しています。また、内貴の消極的性格が三大事業遅れの一因であると述べています。しかし、1903年9月は1904年2月の日露戦争が開始する直前であり、国庫補助が受けられないのは当然であります。また、大阪朝日新聞が1923年7月1日付から15日まで、「財閥から見た京都」(全13回)と題する連載記事を掲載している。その第2回で内貴を「奔走好き」と評し、京都財界三元老の一人と位置付けています。それを裏付けるかのように内貴は市長になる前は京都市東洞院通御池上ルで呉服商「銭清」の店主であり、京都商工会議所、京都織物株式会社などの設立メンバーでもあった。市長退任後も、積極的に京都の産業に取り組んでいます。以上のことから三大事業遅れの原因が内貴の消極的性格によるものとはいえない。また、彼の性格が消極的であるとの指摘も疑問であります。
次に並松氏は西郷の台湾での行政経験が都市構想の形成に役に立ったと主張しています。
しかし、台湾での行政を具体的に明示しておらず、何がどう役に立ったのか疑問であります。

Ⅲ.内貴清兵衛と北大路魯山人
ここでは内貴甚三郎の息子清兵衛と北大路魯山人の関係性について触れます。清兵衛は父・甚三郎とは違い、政界には足を踏み入れず商人・文化人として活躍しました。清兵衛は日本新薬の創設者、京都織物、島津製作所などの役員を歴任します。北大路魯山人(1883-1959、以下は魯山人)とも親交が深く、魯山人が編纂する雑誌『星岡』に投稿しています。白崎秀雄の小説『北大路魯山人 上・下』(筑摩書房、2013年)では清兵衛が魯山人に大きな影響を与えた人物として評しています。

おわりに
三大事業は1913年8月に完成しました。内貴は事業の計画・調査といった下地をつくり、西郷は適材適所に人員を配置し、予算確保など事業推進に努めました。内貴・西郷の活躍があったからこそ、三大事業が完成したといえます。
また、今回調べて内貴が京都市政だけでなく、京都の産業にも大きな影響を与えていたことがわかりました。そして、内貴は田中源太郎(1853-1922)という人物とのかかわりが深いことがわかりました。NHK京都放送局が1936年9月1日午前7時15分から30分に放送した『京都の100年』第43回では内貴の末っ子である平三郎が内貴の様々な事業参加の経緯について証言しており、田中源太郎などの政治家たちの要請があって参加したと述べています。息子の清兵衛も京都財界の重鎮として京都の産業・文化に積極的に関わっていました。
今回は公文書をほとんど読むことが出来ず、またその他の史料の読み込みもまだまだ浅いと考えます。これからは内貴親子に焦点を当て、彼らが京都産業界・文化界に具体的にどのように関わっていったのか、関係する史料・人物を通して丁寧に調べ、明らかにしていきたいです。

参考文献
白崎秀雄 『北大路魯山人 上・下』 筑摩書房 2013年(復刻版)

並松信久「明治末期京都の都市経営―西郷菊次郎の事績を通して―」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第17号、2012年、126~175頁)

伊藤之雄編著『近代京都の改造―都市経営の起源1850~1918』、ミネルヴァ書房、2006年

京都経済の百年刊行会 『京都経済の百年』 京都商工会議所 1982年

千代間寛 『京都織物株式会社全史』 京都織物株式会社全史刊行会 1967年

NHK京都放送局編 『京都の百年2』 NHK京都放送局 1957年

星岡窯研究所 『星岡』 星岡窯研究所 1936年

東京信用交換所京都支局編 『京都織物問屋総覧』 京都支局 1933年

『大阪朝日新聞』 1923年7月1日

『京都日出新聞』 1905年11月9日

『京都日出新聞』 1904年11月21日

『京都日出新聞』 1904年10月4日

史料
1 『京都日出新聞』 1905年11月9日
2 千代間寛 『京都織物株式会社全史』 京都織物株式会社全史刊行会 1967年
3 東京信用交換所京都支局編 『京都織物問屋総覧』 京都支局 1933年
4 内貴甚三郎「古美術を語る」(『星岡』1936年7月号、36~37頁)

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