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2015/12/30

金曜5限概論発表

3回生のはやっしーです。今回は「大阪冬の陣」について発表しました。

大坂冬の陣
           

1.はじめに
今年2015年は大坂の陣終焉からちょうど400周年である。ただ、大坂の陣は戦国最後の戦いであるが、徳川幕府の最初の戦いという性格を持つ。そのため、徳川、豊臣、そして諸大名や大阪の浪人集の思惑が絡み合い、複雑になっている。そこで、今回は冬の陣に焦点を当てて、華々しい合戦ぶりとその裏での謀略戦について考察をしたいと思う。

2.関ヶ原の戦いからの背景
・関ヶ原は豊臣秀頼の家臣、徳川家康と石田三成による権力争い
 しかし、戦後の領土決めなどは家康が主導権を握り、江戸幕府を開く

・西軍についた諸大名の減封・改易
   毛利輝元    百二十万石→三十七万石
   上杉景勝    百二十万石→三十万石
   長宗我部盛親  改易
真田昌幸    改易
結果、主に西軍側大名の家臣団縮小による浪人の増加

3.加藤清正による二条城会見
・加藤清正ら豊臣恩顧の大名の助力によって、豊臣秀頼と徳川家康が二条城内で会見(1611年)
   秀頼が大阪城を出るのは十二年ぶりで、秀頼が家康に会いに行くため、秀頼と家康の立場がはっきりと分かれた瞬間である

・豊臣恩顧大名の相次ぐ死
加藤清正 1611年没     豊臣秀吉の子飼い武将
浅野長政 1611年没     秀吉の姻戚
池田輝政 1613年没     秀吉の重臣
浅野幸長 1613年没     長政の息子
前田利長 1614年没     父、前田利家は秀吉の親友
  特に清正、輝政、幸長は二条城会見に同行していて、家康による毒殺説があるが、はっきりと原因はわかっていない
いずれにせよ、家康にとっては豊臣征討に傾く結果となる

4.方広寺鐘銘事件と片桐且元の苦悩
・方広寺鐘銘事件
秀吉存命時に慶長大地震による方広寺が崩壊したが、秀頼が再建(1614年)
しかし、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」、「国家安康」の言葉が問題に
  豊臣方の言い分
   君臣豊楽・・・領主から民に至るまで豊かで楽しい生活を送るという意味
   国家安康・・・国の政治が安定しているという意味
  徳川方の言い分
   君臣豊楽・・・豊臣を主君として楽しむという意味
   国家安康・・・家康という文字を分断しており不吉だ
   結果、家康が激怒し、二条城会見での融和ムードから緊張状態になる
  
  ・片桐且元の追放、開戦へ
   且元は家康の本拠地の駿府へ行き、豊臣と和睦を図ろうとするが、家康から和睦条件 
   を示されず且元から和睦の条件が出される
    ・秀頼は江戸に参勤すること
    ・秀頼の母、淀殿を人質として江戸に差し出すこと
    ・この2つの条件ができない場合は大坂から国替えすること
   一方で、家康は別ルートで淀殿に和睦はうまくいくだろうと話している
   つまり、豊臣方は味方の且元からこのような信じがたい条件が出されたと思ったのである
   その後、大坂に戻った且元は身の危険を感じ、大阪城を退去し摂津茨木城に籠城

5.豊臣方の開戦準備
・諸大名の取り込み
豊臣恩顧大名をはじめ、西軍で共に戦った毛利、島津などに味方に付くように訴える
 しかし、有力な大名が誰も来ることはなく、浪人を中心に戦力補強をする

・集まった浪人の状況
 諸大名に相手をされず、浪人を募った結果、様々な思惑がある浪人たちが集まった
   
   ・真田幸村(幸村は後世に名づけられ、本名は真田信繁であるが、便宜上幸村で統一する)
    信濃上田の大名真田昌幸の子、関ヶ原では西軍として戦うが敗北し、紀伊九度山に蟄居 秀頼から五十万石の所領の約束をされる
   ・長宗我部盛親 
    土佐の大名 関ヶ原では西軍につくものの、敗北により改易される
    秀頼から土佐一国を条件に参戦する
   ・明石全登
 関ヶ原の戦いにより改易された宇喜多秀家の家臣
 キリシタン大名であり、キリスト教の布教を認めることにより参戦する
   ・後藤又兵衛 (本名は後藤基次)
 関ヶ原では主君の黒田長政とともに東軍を勝利に導くが、長政と関係が悪化し出奔 長政から他大名の士官を妨害され、大阪城に入る


6.出陣か籠城か
   ・真田幸村、後藤又兵衛らの積極論
     徳川軍は全国から大名を大坂に集めているため、徳川方が集まりきる前に各個撃破し山城宇治・近江瀬田に進出し徳川本体を迎え撃つ
 また、秀頼にも出陣させ、士気を高揚させる策が浪人集から進言された

・大野治長、織田長益らの籠城論
     豊臣方も全国からの寄せ集めであり統率力がない軍勢である。堅牢な大阪城に籠城し持久戦に持ち込めば状況を見守っている諸大名から援軍が来るという考えだ
     結果、篭城策がとられ十一月十九日に摂津木津川口で両軍が激突する



7.木村重成と今福・鴫野の戦い
    ・大坂城西の水路抑えた徳川、大坂城東の攻略へ
    木津川口の戦いは徳川軍の勝利→大坂城東の砦の攻略へ
    大坂城の東今福に佐竹義宣 鴫野に上杉景勝が攻略を始める
    今福と鴫野は旧大和側(現・寝屋川)を挟んでいる湿地帯であり、川の北側が今福、南側が鴫野である
    佐竹義宣、上杉景勝は関が原の戦い後に大幅に減封→名誉回復、加増に燃える
    上杉景勝の攻撃で開戦の火蓋がきられる
  
   ・木村重成の略歴
    母は豊臣秀頼の乳母であり、秀頼とともに大阪城内で育つ
    父は木村重玆(ただし諸説はある)だが、秀次事件に連座して処刑
    重成は幼年のため罪に問われず
    秀頼の重臣となり大野治長とともに片桐且元の追放に尽力する
  
  ・後藤又兵衛の援軍
    佐竹軍進撃と聞くと木村重成は大坂城から一人で進撃、佐竹軍を後退させるが、対岸の上杉軍の射撃により両軍は膠着状態に
    後藤又兵衛が秀頼に重成への援軍を要請→又兵衛が援軍に出陣する
    又兵衛が重成に交代するように勧めるが重成は拒否
    木村軍と佐竹軍と射撃しあっている隙をついて、又兵衛が佐竹軍を急襲
    佐竹の重臣、渋江政光が討死 当主義宣が自ら刀を振るうも佐竹軍総崩れ
  
  ・上杉景勝の救援
     鴫野を占領した上杉景勝に佐竹義宣から援軍の要請
     景勝、堀尾、榊原軍と共に寝屋川を渡り、後藤・木村軍の横槍をつく
     豊臣方、支えきれず撤退命令を出す
     結果、徳川軍は多大な被害を被るものの、今福・鴫野の占領に成功する
    しかし、豊臣方の見事な戦いぶりにより豊臣方の士気は大いに上がった



8.真田丸攻防戦
  ・大阪城の弱点
    その後の博労淵の戦い、野田・福島の戦いも徳川軍の勝利に終わり、残るは大坂城のみとなった
    大坂城は西の淀川、北の天満川、東の平野川に囲まれているが平野の南側が弱点
    真田幸村と後藤又兵衛は豊臣上層部に大坂城の南側に出城を築くことを提案
    しかし、どっちかがそこを守るかで対立する
    この頃、幸村に謀反の噂がたつ
    
   幸村は兄の信之(徳川方で家康の娘婿 信之は参戦せず、息子が参戦していた)の軍勢を南の出城へ引き入れるだろう
   
又兵衛はすぐさまこの噂を否定、幸村に出城の守りを譲る 

   ・幸村の挑発
    家康も出城攻めは慎重になり、前田利常に塹壕と土塁を築くように指示
    →出城から射撃を受け作業が思うように進まず
    家康の本陣変更により前田利常が出城前の篠山を攻撃
    真田軍と交戦することなく篠山を攻略→そのまま出城に攻撃
    しかし、出城の攻撃とともに、真田軍から一斉射撃を受け後退
   
・徳川軍総攻撃
前田軍が攻撃を開始したのに続き、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らが出城に総攻撃
 しかし、木村重成、長宗我部盛親らが城内から猛射撃をかける
 →徳川軍撤退命令をかけるも思うように撤退が進まず、被害が甚大に終わる

   結果、豊臣方が大勝利を収め徳川軍が苦戦していると全国に知らしめ、籠城策の効果が出始めた戦である    



9.仕組まれた和平へ
  ・織田長益の暗躍
   真田丸の敗戦により、江戸に豊臣有利と思われる
   →家康、大坂城内の織田長益に和平に持ちかけるように指示
     しかし、秀頼は講和を拒否
    十二月十六日、徳川方の大砲の一発が大坂城に直撃、侍女8人が死亡
    この頃から豊臣方も物資の不足から和平に傾く
    同十六日、塙直之が本町橋の徳川軍を夜襲し勝利する
    十二月十九日、講和内容が決まる
  
 
 ・講和内容

    ①本丸を残して、二の丸、三の丸の堀を埋め立てること
    ②大野治長、織田長益が江戸に人質を出す
    ③もし、秀頼が大阪城を退去するなら知行そそのままでどこの国にも国替えしても良い

   十二月二十一日講和が成立し、徳川軍は武装解除
  
  ・堀の埋め立て
   当初、徳川軍は外堀のみ、豊臣軍が二の丸、三の丸の堀を埋める予定だったが、徳川軍が二の丸まで堀を埋める 
   →豊臣方は堀の埋め立てで時間稼ぎをしようと思っていたから

  ・再戦へ
   徳川方にとって、大坂は西日本と東日本を結ぶ要所で、どうしても欲しいものであった。
   講和内容にも秀頼が大坂を退去すれば好きな国を与えると言っているのでかなり本気であろう。しかし、秀頼は大坂城から出る気がなく、大坂を取るためには秀頼を滅ぼすしかなく、再戦の準備をしていた。
   一方、豊臣方も浪人集は講和で領土を得るのを良しとは思わず、豊臣方の勝利による知行宛行を望んだ。実際に幸村と又兵衛は講和直後に江戸を攻撃するように進言している。結局、江戸への攻撃は行われなかったが、豊臣上層部も一番の戦力である浪人の希望を飲まないわけにも行かなったのだ。

こうして、双方が再戦を希望しているため、激突は時間の問題となる。

10.終わりに
   一般的にはこの戦いは徳川方が望んでいたと思われがちだが、豊臣方にも上層部には豊臣としてのプライド、浪人集には最後の戦い、褒賞など様々な思惑が絡み合っていたことがわかった。
  大坂の陣は合戦ではなく、複数の合戦から成り立つため、簡潔にわかりやすく書くことに苦慮した。今回の発表の反省点を生かし、次回に発表する大坂夏の陣にむけ活動をしていきたいと思う。


11.参考文献
大坂城の男たち-近世実録が描く英雄像- 高橋圭一 岩波書店 2011年2月23日発行
大坂御陣覚書             大阪市史編纂所   2012年9月発行
敗者の歴史 大坂の陣と豊臣秀頼    曽根優次 吉川弘文館2013年6月1日発行
大坂落城 戦国終焉の舞台       渡邊大門 角川学芸出版
                             2013年9月25日発行
浪人たちの大坂の陣          大阪城天守閣    2014年10月10日発行
豊臣と徳川              大阪城天守閣    2015年3月21日発行

大坂の陣絵巻~大坂の陣総合サイト~(http://tikugo.com/index.html)
                             2015年11月25日閲覧



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