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2015/12/23

木曜1限概論発表

1回生の東田です。 関西大学野球部の歴史について発表を行いました。

関西大学野球部の歴史         


はじめに
 現在、関西大学では野球部創部100年を記念して、その長い歴史を振り返る企画展が行われている。私も足を運び、野球部がこれまでに刻んできた数々の歴史に触れることができた。今回は関大野球部の黎明期を中心とした歴史と、野球部に関わった人物についてみていきたい。

1、野球部誕生
 今から丁度100年前の1915年に創部された関大野球部であるが、その誕生には「母校の改革運動」と呼ばれた関大の威厳を保持するため行われた学園紛争が大きく関係している。1914年10月30日、改革を起こした学生会は4か条の決議案を出し、大学総務幹事垂水善太郎に対し辞職を要求した。垂水はこれを拒絶するが、法学博士で講師の岡村司の調停により退陣。その後、岡村が理事に就任し学友会の自治が確立。以前は角力(相撲)、庭球(テニス)のみであった倶楽部に野球、弁論、雑誌、武術が追加された。翌1915年1月15日、結成の準備会が開催された。創設当初の野球部は、他の部以上に運営費がかかり、部員集めにも苦労していたが、予算会議ではこれを考慮し他の部の2倍以上の予算配分が認められた。


2、黎明期
・初対外試合
 関大野球部の選手勧誘は順調に進み、各地中学の有望選手を数名入学させることに成功。3月下旬に野球用具を購入、4月1日には豊中に合宿寮を設け、5月15日に奈良の強豪、春日倶楽部と野球部初の対外試合を開催。試合結果は12対1で関大の大勝。その後、関大は海外遠征を行うなどし、実力を付けていく。
・関西六大学リーグ誕生
 1931年9月14日、関西六大学野球連盟が誕生し、リーグ戦が開催されることが決定した。それ以前は関大、同志社大、京大、立命館大が関西四大学リーグを結成しリーグ戦を開催していた。一方、関西屈指の強豪であった関学は関西学生野球連盟という別のリーグに所属していた。1930年、リーグの中心的存在の関大と関学が歩み寄ったところに、関学と同リーグ所属の神戸商大が六大学による新リーグの設立を提案し、四大学リーグ側はこれを承諾。これにより、関大、同志社大、京大、立命館大、関学、神戸商大による関西六大学リーグが誕生し、リーグ戦が開始。
・二つの野球部の合併
 1931年以前、関大には二つの野球部が存在していた。一つが、学部生・予科生で編成された「千里山野球部」である。もう一つが、専門部生で編成された「天六野球部」である。別々の活動を続けていた野球部であるが、関大野球部を強化し、いずれは日本を代表する人気・実力を持つ東京六大学リーグ勢に勝利するため、野球部長の岩崎卯一、幹事長の田中義一を中心とした野球部関係者が尽力し合併が決定。

3、野球部育ての親、岩崎卯一
 関大卒業生で関大野球部に大きく貢献し、野球部育ての親と言われている。他大学よりも創設が遅れた関大野球部が、1931年の六大学リーグ開始時に関学と並び称される強豪になっていたのは、数々の海外遠征により実力や自信がついたからである。野球部長の岩崎は相手国との交渉、費用の捻出を行った。千里山と天六の野球部を合併にも尽力。1947年、岩崎は関大卒業生としては初めて母校の学長に就任。8年余りの間学長を務め、関大の顔となった。

4、伝説の投手、西村幸生
 関西六大学リーグが結成されたばかりの1930年代、関大はいきなり黄金時代を迎える。その強さを支えたのが、後に大阪タイガース(現 阪神タイガース)で活躍する西村幸生投手である。
奇しくも六大学リーグが始まった1931年に西村は関大に入学する。西村は二年目から頭角を表し、上級生の本田竹蔵投手と共にチームを何度も勝利に導き、関大は翌年秋まで四連覇を達成した。
・東京六大学との対戦
 当時、早稲田・慶應義塾・法政・明治・東京・立教が構成する東京六大学野球の人気・実力は日本最高峰だと言われていた。数年後にプロ野球が誕生するが、当時の人気は東京六大学に遠く及ばなかったと言われている。また、結成したばかりの関西六大学リーグは、対等に戦えるはずがないと考えられていた。1932年秋から33年年頭にかけて関大は関西遠征を行っていた東大を除く東京六大学5校と対戦した。関大は西村の活躍で全チームに勝利を収めた。この大勝利により、世間では関大野球部を称賛する多くの声が上がり、西村は一躍有名選手になった。また、関大は東京六大学を打倒するという最大の目標を達成した。
・プロでの活躍と悲劇
 主将兼エースとして、関大野球部を黄金時代へ導いた西村は1937年に関大を卒業後、大阪タイガースに入団する。西村の投球はプロにも通用し、1年目から最多勝を獲得した。特にタイガースのライバルチームである東京巨人軍(現 読売ジャイアンツ)には相性が良く、初代巨人キラーと呼ばれた。当時の巨人軍エース沢村栄治とは同じ伊勢市出身で良きライバル関係であった。二年目も活躍し、順調にプロ野球人生を歩んでいた西村だが、三年目に肩を故障し、それが原因で同年に惜しまれながらも退団。翌年はノンプロでプレーをするも、かつての力は無く同年限りで現役を引退。太平洋戦争に応召され、1945年4月3日フィリピンで戦死。(享年34歳)1977年、野球界に対する貢献が認められ、特別表彰で野球殿堂入りが決定した。

5、関大野球部のその後
 西村卒業後も関大野球部は躍進を続けた。戦争で一時はリーグ戦が中止。再開後野球部はかつての勢いを失ってしまうが徐々に復調する。1956年、戦後新たに創設された全日本大学野球選手権大会で初優勝。1972年には春・秋リーグ戦の連覇に加え、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会で全国制覇を果たし、大学野球史上初のグランドスラムを達成。新たな黄金期を迎える。その後長らく低迷するが、1991年19年ぶりにリーグ優勝。昨年秋、19年ぶり34回目のリーグ優勝、42年ぶりの明治神宮野球大会出場を達成し新たな歴史を刻んだ。

6、プロへと巣立った関大生
・村山実 (投手)
在学時の1956年に関大初の日本一に貢献。阪神タイガースに入団しエースとして200勝以上を挙げ、大活躍。後に阪神の監督を務める。背番号11は阪神の永久欠番となっている。
・上田利治 (捕手)
 在学時には村山とバッテリーを組み日本一に貢献。プロ野球選手としては余り活躍できなかったものの、監督として阪急ブレーブス(現 オリックスバファローズ)の黄金期を築き上げる。
・山口高志 (投手)
 在学時、7度の優勝を経験し、ノーヒットノーランを達成。剛速球を武器に阪急で活躍。日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手と言われる。
・岩田稔 (投手)
現在唯一の関大出身のプロ野球選手であり、阪神で活躍中である。糖尿病を患っており、同じ糖尿病患者のために慈善活動を行っている。

まとめ
 関大の将来を強く思う学生の行動により、野球部は誕生した。当初は他大学に
遅れをとっていたが、岩崎卯一野球部長などの貢献により関西屈指の強豪になった。西村幸生投手の活躍により東京六大学を破り、全国に実力を認められる。その後も多くの偉業を成し遂げ、名門への道を歩んでいった。

おわりに
 今回の概論では、関大野球部の発展に尽力した先人方の偉大さを知ることができた。今後は野球部以外の関大の歴史も調べてみたい。
 野球部100周年記念展は、来年3月末まで関大千里山キャンパス簡文館で開催されているので、興味のある方は足を運んでみてはいかがだろうか。 

参考文献
・西田二郎 『関西大学野球史』(関西大学野球倶楽部、2005年)
・中村博男 『初代巨人キラー 阪神の名投手西村幸生の生涯』(かのう書房、1995年)
・関西大学野球部創部100周年記念展「100年の軌跡 新時代の幕開け」パンフレット (関西大学年史編纂室、2015)

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