--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2015/12/23

木曜1限概論発表

2回生のboscoです。今回は戦前のプロ野球について発表しました。

黎明期のプロ野球

1.はじめに
 現在、プロ野球は日本で人気のあるプロスポーツの1つである。しかし、日本の野球人気は元々中等野球や大学野球といったアマチュア野球が中心で、そもそも野球を職業とする考え自体が浸透していなかった。今回はそのような時代に起こった職業野球設立の試みについて概観する。

2.アマチュア野球の隆盛
1915年8月18日 全国中等野球学校優勝大会(夏の甲子園)開会
  1924年4月1日 全国選抜中等学校野球大会開会
  1925年10月19日 東京六大学野球(早大・慶大・明大・法大・立大・東大の間で戦われるリーグ戦)スタート
  1927年7月3日 選抜優勝の和歌山中、中学初の米国遠征出発、帰国は9月1日
  1927年8月3日 東京日日新聞主催の都市対抗野球が神宮球場で行われる
           ⇒大学卒業後の全国的な受け皿が完成
1929年3月15日 明大野球部が前年秋のリーグ戦で優勝し、祝賀旅行
         ⇒アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、エジプト、香港、中国を周遊し7月25日に帰国         
      30日 就職難の大学生を風刺した映画「大学は出たけれど」上映
           ⇒金融恐慌以来の激しい不況のため、大学卒の就職率が1割以下の時代
      10月13日 早慶全勝で激突、5万5000人収容の神宮球場が超満員、日比谷公園の野球速報に2万人集結
 ・六大学野球では早慶戦が近づくと新聞は選手の動向や試合予想を紹介し、ファンからは手紙や電報が殺到、リーグ優勝すれば時事新報社から殊勲選手にブロンズ像が贈られた。
 ・日本の球界には中学-大学-実業団の一貫した流れが確立される。

3.初の職業野球チーム「日本運動協会」誕生
 ・1921年(大正10年)、野球を専業とするチームとして誕生。
 ・チーム創設の中心であった河野安通志は元早稲田大学のエースで、野球理論、米球界の事情にも詳しく、37年にイーグルスを創設した事でも知られる。
 ・東京六大学では選手獲得のための引き抜きや授業料の免除、小遣いの支給を行う。
  ⇒早稲田大学野球部部長安部磯雄らの危惧
・日本運動協会の主目的は、「協会専属のチーム結成と野球興行で収入の道を開く」こと。
 ・それ以外にもグラウンドの設計・工事、スポーツ用品の製造販売、テニスコート、トラック、フィールドを会員に開放するなど、幅広い活動を視野に入れてスタート。
 ・当時の本拠地は2万人収容の「芝浦球場」。
 ・1921年7月には新聞で一般から選手を募集し、200人ほどの書類応募者があったが、試験に来たのは70人あまりで、14人が合格
 ・選手は合宿生活で、午前中は授業。野球理論、英語、簿記、漢文、数学などを学び午後から練習。
 ・ほぼ同時期に松旭斎天勝一座という奇術団が興行先での一座の宣伝の目的で「天勝野球団」を結成。
 ・両チームとも社会人、大学、中等学校のチームと対戦、朝鮮半島や中国北東部への大陸遠征を行う。
 ・1923年9月1日の関東大震災の影響で芝浦球場が接収、協会は解散。

4.日本運動協会を引き継いだ「宝塚協会」
  ・職業野球に興味を持っていた小林一三が兵庫県・宝塚を本拠地に協会全員で来ないかと声をかける。
  ⇒河野は1916年に小林からプロ球団設立を持ち掛けられたことがあったが、時期尚早と断った経緯。
  ・24年2月25日、「日本運動協会」は名前を変えて「宝塚運動協会」で再スタート。
・午前は野球のルール、簿記、英語の勉強、午後は野球の練習を行い、試合はこれまで同様に国内の試合と大陸遠征を中心に転戦。
・28年には大阪毎日新聞の社員親睦会から生まれた強豪チーム「大毎野球団」ら、アマチュアとの混成4チームで関西リーグも結成。
・29年3月にまずライバルの大毎が解散、続いて29年7月31日、宝塚野球協会も解散となった。
・「日本運動協会」、「宝塚協会」ともに、1チームだけでは興行が成り立たないことを示す結果となる。

5.過熱しすぎた野球熱に楔を打ち込む「野球統制令」
  ・1932(昭和7)年4月1日に文部省が発布。
・有力校の選手は練習に明け暮れ、遠征ばかりで学校にも行けず、勉学が疎かになっている現状を危惧。
・小学校、中等学校、大学別に規制を設ける。
・小学野球に対しては、平日の試合や宿泊を伴う試合、入場料の徴収、営利宣伝用の寄贈品受け取りなどを禁止。
・旭川の中央尋常高等小学校の例「選手は未明の四時から練習を始める。二時間練習やって、学校へ出てきてまたやる。」(北海道教育史 第三 全道編)
 ・中学選手に対しては、出場資格を厳しく制限。
  ⇒甲子園出場だけが目的に見える選手の転入学を防ぐ。
 ・大学に対してはプロチームとの対戦を禁止し、選手への金銭援助などの特別待遇も禁止、入場料を徴収する試合を許可制にし、無秩序な海外遠征も承認事項とする
・仏文学者で野球ファンの辰野隆(ゆたか)は『中央公論』(昭和八年五月号)で「若い学生が選手として熱中すれば勉学などどこかへ飛んでいくのは当然」、「いまの(六大学)リーグ戦を純粋なスポーツと見るのがそもそも錯覚で、あれは半職業から純職業への過渡期である」、「職業野球選手団を組織すれば、学生リーグの非学生的人気はおのずと衰えるだろう」と指摘。
⇒野球統制令はプロ野球設立の追い風に

6.日米野球と読売巨人軍結成
 ・1931年1月31日、読売新聞がメジャーチーム招聘を発表。基盤のない関西での興行は当初朝日新聞に援助を依頼するも断念。結局甲子園球場を持つ阪神電鉄が協力。
  ⇒従来の日米野球は東京六大学が中心であったが、読売新聞社社長の正力松太郎が日米野球を新聞社の拡販のために、日米親善 を名目としてとして開催にこぎつける。
 ・同年11月2日からゲーリックを中心とした大リーグ選抜が来日し、読売新聞が読者か
らの人気投票で選んだ大学野球、実業団の選手から成る全日本チームと対戦、全米が
17連勝し帰国。
  ⇒実力差を痛感。鈴木惣太郎を中心に、再度のメジャーチーム招聘とプロ野球新設の機運が高まる。
・1934年11月2日、ベーブ・ルースを中心としたア・リーグ選抜チームが来日、沢村栄治の歴史的快投もあったが、米国が16連勝して帰国。
 ⇒「職業選手(アメリカ)との試合を禁止する」という野球統制令に抵触するため、大学野球を卒業している選手でチームを編成。
 ・同年12月26日、この時のチームを中心に「大日本東京野球倶楽部」が発足。チームには後に巨人、西鉄の監督を務める三原脩(早大)、沢村栄治(京都商)、後に日本初の三冠王となる中島治康(早大)、白系ロシア人のスタルヒン(旭川中)らが入団。
 ・チームは1935年2月から7月にかけて米国に遠征。帰国後の株主総会で「東京巨人軍」の名称が正式に認可。
 ・遠征から帰国後、チームは日本各地の実業団チームと対戦。  
 ・1933年に小林一三は関西の電鉄会社それぞれが球場と球団を作って、対抗戦を開催する「関西鉄道リーグ」を着想。
  ⇒1935年に雑誌『改造』に発表されるも、他の鉄道会社が呼応せず失敗。

7.職業野球連盟誕生
・アマチュア野球との対戦のみでは興行が成り立たないのでリーグ制にすることを画策した巨人軍は、大阪における対戦相手として阪神を勧誘。
 ⇒甲子園球場の確保と、春・夏の甲子園を主催し、発行部数でも劣る毎日新聞社、朝日新聞社への牽制のため。
・1935年12月10日、阪神電鉄が「株式会社大阪野球倶楽部」球団名「大阪タイガース」を結成。
・1936年1月15日、新愛知新聞社が「名古屋」を結成。
  ⇒主幹の田中斉が米国留学中に大リーグを観戦していたことも影響。
・同年1月17日、貴族院議員の有馬頼寧が西武鉄道と連携し、沿線に上井草球場を持つ「東京野球協会(セネタース)」を結成。
 ・1月23日には、阪急電鉄が社長小林一三の意向もあり、「大阪阪急野球協会」を結成
 ・同年2月18日、新愛知新聞主幹の田中斉が東京の「国民新聞」を買収し、その傘下に「大東京」を結成。
 ・同年2月28日、名古屋新聞社がライバルの新愛知新聞社に対抗して「名古屋金鯱」を結成。
 ・同年2月5日、全7球団の関係者が集まり「日本職業野球連盟創立総会」が行われ、9月18日からリーグ戦が開始。
 ・1937年1月18日、同年9月に開場する後楽園球場を本拠地とする「株式会社後楽園野球クラブ(イーグルス)が結成。
 ・1938年3月1日、南海鉄道を親会社に持つ「南海野球株式会社」が誕生。
  ⇒正力の構想が一都市二球団ずつであったため、連盟創設時に球場を持っていない南海には声をかけなかった。
 ・佐野眞一「巨怪伝」『火を噴くような競争をしているライバル同士をぶつけることによって、正力は今日のプロ野球の礎を築いていった。各界の敵と敵、味方と味方を順繰りに噛み合わせ、自分が思うままの方向に引きずりこむこの神算鬼謀こそ、正力の独壇場だった』
 
8.黎明期職業野球の評価と実力
・戦前のプロ野球チームは親会社が新聞と鉄道で、地域も東京、大阪、名古屋に集中し、ライバル会社への対抗から球団を持つケースが少なくなかった。
 ・飛田(とびた)穂州(すいしゅう)「学生野球と興行野球」(『朝日新聞』1936年3月)
   「プロ野球は浪人の集まりで、観客を呼ぶだけの魅力や実力がなく、『見世物として興行性に走り、結局は一派を形成する』」と断じる。
    ⇒これに対し巨人軍専務の市岡忠男は読売新聞上で学生野球が精神的な頽廃期に
差し掛かった今『学生野球の弊害を芟徐し真の野球道を建設する』と反論。
 ・「プロ学生戦わば」(『野球界』1937年8月号)
    「巨人と早稲田の戦力は、沢村、スタルヒンの投手力、水原、三原の揃う内野は巨人が優れ、『きわどいプレーで早大がマネできない本領を発揮する』が、打撃は早大が『ともすれば押し気味』で、一回の勝負ならば互角の勝負、連戦になると巨人有利」と予想。
    ⇒当時プロ野球は実力では大学野球と大差ないと考えられていた。
 
9.まとめ
 アマチュア志向が強かった日本球界に、「日本野球協会」と「宝塚協会」は職業野球チームとして参入したが、アマチュアとの実力差も少なく、人気面でも水をあけられた。一方「読売巨人軍」は、六大学出身の人気選手を引き抜くことで人気を獲得、また職業野球チーム同士でリーグを形成することにより興行性も確保し、一応の成功を見た。しかし、チームの地方による偏りや、企業の宣伝色が強いという弊害は戦後も残存した。

10.おわりに
 今回の概論では、戦前の職業野球について詳しく知れたのと同時に、アマチュア野球についても現在とは異なる事情を知ることができ収穫であった。
  

10.参考文献・資料
 荒井太郎 東京六大学野球史 ソニー・マガジンズ新書 2008年
山室寛之 野球と戦争 中公新書 2010年6月
 波多野勝 日米野球の架け橋 芙蓉書房出版 2013年11月
日本プロ野球80年史;1934∼2014 歴史編 ベースボール・マガジン社 
日本プロ野球追憶の球団史 1936-2004 ベースボール・マガジン社 2013年
タイガース歴史研究室 11月8日11時参照 
http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/rekisi/5.htm
  

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。