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2015/12/22

月曜3限概論発表

はじめまして。二回生のMADOGATARIです。ロシアの歴史を全く知らない状態からエルミタージュ美術館の創設とエカテリーナ二世を調べました。

はじめに
 私がエルミタージュ美術館に興味を持ったのは「週刊一度は行きたい世界の博物館」という雑誌を購読していたことがあり、その中でもエルミタージュ美術館の外観の美しさは特に目を引き、また美術館の創設にあたり尽力したエカテリーナ二世の一生に興味を持ったために、このテーマを選んだ。

1.エルミタージュ美術館の概要 
 ・創設年 1764年      
 ・創設者 エカテリーナ二世
 ・立地場所 サンクトペテルブルク
 ・エカテリーナ二世がベルリンの豪商から買い上げた225点の絵画を皇帝
 の住まいである冬宮(冬に住む皇帝の正式な住居)に飾ったのが始まりと
 される。
 ・現在の所蔵品 300万点(文化遺産も含む) 
   
※ヨーロッパでの「エルミタージュ」
 エルミタージュはフランス語で「隠者の庵」を意味する。ヨーロッパ各国の歴代皇帝・国王が私的に構えた「離宮」であり、十七世紀には各地の君主達が家族や仲間とくつろぐ場であった。その始まりはルネサンス期のイタリアであった。神への祈りを捧げる場であり、心を休める憩いの場であった。ロシアには十七世紀後半に入ってきた外来語。イタリアの離宮のあり方はスペインに引き継がれ、十七世紀後半にフランスに移ると、公的儀式の場から逃れる場へと変わった。

2.エルミタージュ美術館の発端
  
 ピョートル一世
  ・ロシアを強国に育てるため、西欧歴訪の旅に出る。
   西欧の技術吸収→軍事面を強化するため常設の海軍基地をサンクトペテルブルクに建設した。
   フランスでヴェルサイユ宮殿を訪問し、文化の遅れを取り戻すことを決意
  →野蛮な風習を変えるために、ロシア貴族の服装を西欧宮廷人の服装へ変え、また顎鬚を切り落とさせた

  ・美術、工芸品の収集
   クンストカーメラ(美術館)に宝石や貝殻、動植物の標本、約400点の絵画を集める。後に絵画はエルミタージュ美術館に運ばれる。レンブラント作『ダヴィデとヨナタン』だけが有名な作品。
   
  アンナ・イワノヴナ 
   ・エルネスト・ビロンのために金銀の装飾品、家具、宮殿を贈る。後にクーデターにより捕らえられ追放されると、彼の宮殿と工芸美術品は差押えられ、皇帝のコレクションに加わった。
   ・自分の身の回りにも金をかけ、化粧道具や浴室全体まで金銀の細工品で飾らせた。結果的に宮廷文化の活性化につながった。
  
  エリザヴェータ
   ・華麗な宮中舞踏会の催しのために宮廷建築を手掛けた。→現在のエルミタージュ美術館の一部である冬宮の建築。
   ・衣装収集に対する情熱
   ・「エルミタージュ」設立の思想→バロック様式のパビリオンにも「エルミタージュ」と名付けた。そこは家族や親しい仲間と過ごす食堂があった。

3.エルミタージュ美術館の創設
  もともとはロマノフ王朝の宮殿。1754年に冬宮として建築が始まる。完成は1762年。
  (その後、1775年に小エルミタージュ。1787年に旧エルミタージュ。1852年に新エルミタージュが完成した。)
  

 ・冬宮
    皇帝の住居であり、国威を見せつける政治の場であった。
エカテリーナ二世が集めた美術品は、全ての種類にわたると言われ、冬宮の内部装飾にも使われた。それは西欧諸国に肩を並べるためのロマノフ王家の宮殿の圧倒的な仕掛けと飾りにあり、ロシアの体面の維持であった。

 ・小エルミタージュ
     屋上庭園と居住区域。
     当初は宴会空間を作り仲間内で楽しむ場であったが、急増する絵画コレクションのために展示場所となる。

 ・大エルミタージュ
     大規模な展示室の必要を感じ増設。
     エルミタージュ劇場と運河の上を連結。

4.エカテリーナ二世
  ・ドイツの片田舎に生まれた、生粋のドイツ人
   幼名→ソフィア・フレデリカ・アウグスタ
  ・1745年8月21日、16歳の時にロシアの皇太子ピョートルに嫁ぐ。       その際ロシア正教に改宗し、ロシア語を学び始める。
  ・1762年1月に夫がピョートル三世として即位        
  ・エカテリーナ二世がと近衛士官で愛人と噂されたグリゴリー・オルロフとその兄弟によって宮廷クーデターが勃発し成功する。
  ・同年9月に33歳の女帝であるエカテリーナ二世が誕生
   美術品の収集にのめり込む。→ロシア皇帝の権威を外国の要人に示すため。
  ・西欧との友好政策と隣国との戦争によりロシアの領土を拡大する。
  ・啓蒙専制君主として法典編纂の準備をし、異教徒に寛容政策をとり、病院や孤児院を設けた
  ・文芸を保護し、フランスにならって美術アカデミーを創設
  ・農奴制の強化
  ・1773年にプガチョフの乱→鎮圧に愛人であるポチョムキン公爵が活躍
  ・オスマン帝国と戦い勝利し、クリミア半島を手に入れる
  ・啓蒙君主から専制君主へ→フランスでの1789年の革命、および文通相手だったマリー・アントワネットの処刑がショックだったため
  ・1796年、67歳で死去


5.エカテリーナ二世の「エルミタージュ」
  エカテリーナの「エルミタージュ」は親しい仲間のみのクラブであった。
  帝位についてからも十人前後の仲間と夕食会を楽しみ、食後は宮廷内の小劇場で観劇に興じ、皇帝の名で開く200名程の客人を招待する夕食と舞踏会を開催した。

【寵臣や内輪の者たちの集まりが開かれたサロンの扉の言葉】
  このドアから入る全ての者の守るべき規則
   ①身分肩書は刀剣並びに帽子とともにドアの外側に置いてくること
   ②野心もドアの外で放棄すること
③快活はよいが、いずれの器物も破壊、破損し、あるいはこれに齧りつかないこと
   ④良識により立ち居振る舞うべし
   ⑤他人が頭痛を起こすほどの声高でしゃべらないように
   ⑥腹立ちまぎれ、あるいは血気にはやった議論は避けること
   ⑦ためいきやあくびは御法度
   ⑧他人の提案する楽しみを妨害しないこと
   ⑨食べるのは好きなだけ、ただ、飲むのは適度に、助けを借りて退出するべからず
   ⑩公衆の中で洗濯はしないこと、私的な商売は戸外に出てからにすること
   上記に違反する者は男女の関わりなく、二名の証人の前で冷たい水をコップ一杯飲み、『テレマヒ―ダ』の1頁を声に出して読むべし。一晩に3つの規則に違反した者は『テレマヒ―ダ』の6行を暗唱すること。⑩に反した者は出入りを禁じる。
   ※『テレマヒ―ダ』……フェヌロン著『テレマックの冒険』。古典風の教訓小説

6.まとめ
  エカテリーナ二世のコレクションは西欧に追いつくための手段であり、決して収集狂というわけではなかった。しかし、ヴォルテールとの文通に「私は絶対的に忠実な女です。誰に対してか。美に対してです。美しいものだけが私を惹きつける。」とあり、【美】こそが彼女の人生のテーマであり、生きがいであり、目指すものであった様に思われる。

7.おわりに
  当初はエルミタージュ美術館全体の歴史をするつもりでいたが、その創設の部分だけでもかなりの分量があり、またロシアの歴史を全く知らない状態からであったため内容を縮小することとなってしまったのが反省点である。


参考文献 
 『週刊一度は行きたい世界の博物館』(朝日新聞出版、2011年)
 郡司良夫・藤野幸雄 共著『エルミタージュ波乱と動乱の歴史』(勉誠出版、2001年)
 『ロマノフ王朝 帝政ロシアの栄光と革命に消えた皇家』(新人物往来社、2011年)

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