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2015/12/19

金曜4限概論発表

一回生のグーナーです。今回の概論は「ナチスの財宝」で発表しました。

はじめに
ナチス・ドイツが政権を握っていた1933年から1945年の間に、主に欧州各地で略奪された絵画、彫刻、タペストリー等の数はおよそ60万点に及ぶ。また今なお行方が分からず、元の持ち主に返還されてない作品数は10万点に上ると推測されている。今回はいまだに発見されていない財宝と、大戦中、前線において活動したモニュメンツ・メンと呼ばれた人たちについて述べたいと思う。

・モニュメンツ・メン 
*設立
1941年、北アフリカで英軍を破った伊軍が文化プロパガンダのパンフレットを発行した。キレナイカ美術館での略奪、破壊は英軍の仕業であるといった内容であったが、実際はそのような事実はなかった。しかしイギリスは1943年に再びそこを取り返すまで事の真相に気づけず、自己弁護するしかなかった。再びイタリア人に批難の材料を、今度は本当に与えてしまう可能性を恐れた英軍中佐ウィーラーの提言によって北アフリカの古代遺跡が修復された。これが世界初の前線でのモニュメンツ保護計画の始まりである。1943年1月、カサブランカ会談の後、英米の間で連合となった責務の中にモニュメンツ保存修復計画も入っていた。3月、連合国軍のヨーロッパにおける最初の攻撃地点であるシチリアに、占領後、占領地区にあるすべてのモニュメンツの調査を目的として、アメリカ人とイギリス人の将校二人が送られることが決定し、6月にM.ハモンドが、9月にF.H.J.マクシーがシチリアにおいて活動を開始した。また同時期にアメリカではルーズヴェルト大統領の支持のもと‘ヨーロッパにおける芸術的・歴史的モニュメンツの保護・救出委員会’が設置されている。1943年9月、連合国軍はイタリア本土に上陸、1月にはカッシーノでドイツ軍と戦うも苦戦を強いられる。1944年2月、連合軍はドイツ軍が立て籠もっているとされる修道院、モンテ・カッシーノを空爆、破壊するがドイツ軍はそこに居ずドイツ軍、イタリア軍、またヴァチカン代表としてマリョーネ枢機卿から非難される。最初のモニュメンツ・メンの一人である、A.デウォールド少佐がカッシーノに到着したのは5月のことであった。



北アフリカとシチリアで得られた教訓、保存修復専門家が軍の将校であったら軍は彼らの言うことを聞く・それらの将校は戦闘中あるいは直後の前線にきてその状況から効果的な計画を立てなくてはならない、のもとロバーツ委員会を触媒として保存修復隊として、1943年末に米英が公式に合同で作業を行うものとして、記念建造・美術品・公文書(MFAA)の小委員会が設立された。1944年5月、連合軍派遣軍最高司令官アイゼンハワー将軍の命令によりモニュメンツ・メンの活動は保障され、6月にノルマンディー上陸作戦によりフランスに上陸することとなる。また6月1日の時点で15人のメンバーがMFAAに所属しており、うち8人が英米軍と兵站地帯に配属され、連合軍がイギリス海峡とベルリンの間で遭遇するあらゆる記念建造物を調べ、保護する任務に就いた。

*活動 ヨーロッパ北部
ノルマンディーでは、モニュメンツ・メンの各メンバーは担当する戦闘地区を割り当てられた。そのほとんどは米第1軍、米第3軍、英第2軍といった個々の戦闘群と照応しており、モニュメンツ・メンの多くが今後それらの軍と行動を共にすることになる。戦場でのモニュメンツ・メンの仕事は、モニュメンツの状態を記録し、必要があれば応急修理を監督すること、そして損傷した建物が兵士または地元の人間からさらなる被害を受けていないかどうかである。また、事前に保護されるべきモニュメンツのリストがMFAAによって作成されており、モニュメンツ・メンはそれに基づいて活動することとなる。1944年8月、連合軍はサン=ローでの戦闘に勝利し、2ヵ月間、連合軍をノルマンディーに釘付けにしていたドイツ軍を破った。このことにより前線が延び、8月下旬にはパリが、9月上旬にはブリュッセルが解放され、モニュメンツ・メンの活動範囲が大きく増えることとなった。同じころ、モニュメンツ・メンの一人R.バルフォア少佐によってブリュージュのノートルダム大聖堂からミケランジェロの「ブリュージュの聖母像」がナチスによって略奪されたと報告される。9月下旬から10月上旬、別のモニュメンツ・メンで爆破専門家のS.レナードによってシャルトル大聖堂が救われている。10月初旬、セーヌ地区担当モニュメンツ・メンとしてパリで活動していたJ.ロリマー少尉は、米軍により10tトラックや軍隊輸送車などの駐車場として使われていたチュイルリー公園からそれらを移動させた。車の重みで17世紀に施設されたテラコッタの下水管が破裂していたためである。パリにあった美術品のうちルーヴル美術館にあったものはナチスの略奪からは逃れている。ナチス占領下におけるフランス国家のコレクションはフランス国立美術館総局長のJ.ジョジャールと芸術作品保護局のメッテルニヒ伯によって守られたのである。しかしフランス市民の個人コレクションの多くは略奪されたため、ロリマー少尉は後にこれらを追うこととなる。10月半ばから11月にかけて連合軍はドイツの都市、アーヘンを爆撃した。アーヘン大聖堂は奇跡的に無事だったものの、そこにあった遺物はすでにナチスによって保護されたとW.ハンコック大尉は聞かされる。アーヘンにあった多くの美術品は空爆前に疎開されていたため、彼はその行方を追うことになる。


*活動 ドイツ
1945年3月初旬、J.ロリマー中尉が米第7軍に転属されることになる。それにともない、彼はJ.ジョジャールがスパイとしてナチスのもとに潜り込ませていたR.ヴァランから、ナチスの美術保管所に関する文書、略奪された美術品の写真などの情報を聞かされる。そして、最も重要なパリから略奪された美術品2万点余りがノイシュバンシュタイン城に保管されていることも聞かされる。3月中旬、ドイツ、ボンでの情報をもとにW.ハンコック大尉はメッテルニヒ伯の助手を見つけることに成功する。その後、彼は109の保管場所を前線部隊に伝える。3月末、米第3軍とそこに配属されたR.ポウジー大尉とL.カースティーン上等兵はトリーアに入る。トリーアは連合軍の空爆により壊滅的だったもののいくつかの大聖堂と教会は残されていた。二人のモニュメンツ・メンはここで兵士たちにナチス出現以前のドイツの文化を教育している。またここで二人は偶然、元ナチス親衛隊の男と出会い、帝国元帥ゲーリングのコレクション、パリから略奪された美術品のカタログやドイツ美術界の内情、さらには「ゲントの祭壇画」をはじめとするヒトラーのコレクションの保管場所の情報を手に入れる。1945年4月、モニュメンツ・メンのJ.スタウトとW.ハンコックはジーゲンに到着した。ハンコックにとっては昨年の11月から追っていたアーヘン大聖堂の至宝が保管されていた。他には、レンブラント、ヴァン=ダイク、ヴァン=ゴッホ、ゴーガン、クラナッハ、ルノワール、ルーベンスの作品が発見された。また金とエナメルも発見されている。しかし、他国からの略奪品はフランスとメスからのものだけであった。4月上旬から中旬、米軍によって、メルケルスにある岩塩抗から1万弱の金塊、2千数百の金貨の袋、銀、プラチナ、紙幣印刷用プレート、絵画が発見された。また同時期にフンゲンのブラウンフェルス城で、大量の初期刊本、古い写本、ユダヤ教の聖典が見つかっている。この後、米第3軍と第7軍はドイツ南部、オーストリアに向かうこととなったためその2軍に配属されているモニュメンツ・メン、R.ポウジー、L.カースティーン、J.ロリマーがドイツにおけるもっとも重要な美術品の保管所、ノイシュバンシュタイン城とヒトラーのコレクションのあるアルトアウスゼーに行くことになる。ノイシュバンシュタイン城に向かう途中J.ロリマーは多くの美術品保管所を見つける。また4月下旬、米第1軍に配属されているW.ハンコックはベルンターオーデで40万tの爆薬とともに岩塩抗を発見する。また、同時期に米第7軍がノイシュバンシュタイン城に近づいたことを知らされたJ.ロリマーはその周辺地域のブックスハイムでノイシュバンシュタイン城に入りきらなかった美術品が保管されている修道院を調べている。1945年5月4日、J.ロリマーはついにノイシュバンシュタイン城に入った。そして多くの美術品とともに、帝国指導者ローゼンベルク特務機関が没収したあらゆるものの目録カードを発見した。1945年5月16日、R.ポウジーとL.カースティーンはヒトラーのコレクションの保管場所であるオーストリア、アルトアウスゼーに到着した。しかし、そこの岩塩抗は爆破され、落石によってふさがれていた。翌日、地元の抗夫たちによってあけられた穴からトンネルに入った2人のモニュメンツ・メンは「ゲントの祭壇画」や「ブリュージュの聖母像」、フェルメールの「占星術師」などを確認している。その後、坑内の美術品の目録が作られ、6月15日には落石が完全に取り除かれ、7月11日までにはすべて運び出され移動させられた。その量はトラック80台分に及んだ。
*戦後
ドイツの降伏とその公文書によって大量の保管所の場所が判明した。MFAAには戦後新たに350人近くが加わり、数百万点の美術品、教会の鐘、ステンドグラス、宗教関係の品、市の記録、原稿、本、蔵書、ワイン、金、ダイヤモンド、さらには昆虫の蒐集を含む文化財の荷造り、運搬、目録作成、写真撮影、公文書保存、返還を6年かけて行っている。


・消えた財宝

*琥珀の間
琥珀の間は1701年に即位したプロイセン王、フリードリヒ1世の発案で作り始められたものである。1716年、ベルリンを訪れたピョートル大帝の強い希望によりロシアに寄贈され、1770年、エカチェリーナ2世の治世に完成する。100平方mの部屋で壁から天井まで琥珀で覆われている。1941年、ソ連に侵攻したナチスによって琥珀の間は略奪される。鉄道と船を使って運ばれた琥珀の間はケーニヒスベルク城に保管されるも、1944年8月、英軍によって空爆される。翌45年にソ連軍が城に侵攻したとき琥珀の間はすでに消えていた。ソ連軍は琥珀の間の保管責任者だったローデ博士を尋問するも、尋問中の45年12月に突然病死する。そのためため琥珀の間の存在の有無はうやむやになってしまう。東西冷戦期、琥珀の間はソ連のKGBや東独のシュタージによって調査されている。シュタージのシュトルツェ大佐による琥珀の間探索報告書にはケーニヒスベルクの爆撃からは逃れ、数日後には避難していた、1945年1月15日に25から27箱に小分けにして運搬された、ローデ博士が44年12月初旬にザクセン州に来ていた、等が記されている。またシュタージは1982年にドイチュノイドルフの鉱山近辺を掘削調査しており、多額の国家予算をつぎ込み捜索している。東ドイツだけでなく西ドイツも琥珀の間を探索しており、1978年12月における連邦議会の質疑応答でハンター、ゲオルク=シュタインに調査させていることが連邦議会の公文書からわかる。しかし、1987年、手掛かりを見つけ記者会見を開こうとしていたシュタインは記者会見直前に自殺、シュタージの探索チームの中心メンバーでシュタインとも交流のあったエンケ中佐が同時期に病死したため捜査は終了してしまう。琥珀の間の探索地としてはワイマールが注目される。戦時中、東プロイセン大管区長だったエーリヒ=コッホはウクライナから多くの美術品を略奪する。そのコッホ・コレクションは琥珀の間と同じくケーニヒスベルクに保管されており、大管区長官だったコッホはその両方を管理する立場だった。
しかし1945年4月、ソ連軍がケーニヒスベルクに侵攻したときはすべて消えていた。1980年のシュタージの報告書によるとコッホ・コレクションはナチスの空軍将校、アルベルト=ポップによって1945年2月に空輸によって、ワイマールに運び込まれている。しかしその後、1945年4月、列車によって再び運び出されたうえ、列車の行き先は記録にない。逃亡したコッホは1949年、逮捕される。終身刑となったコッホは1986年、コレクションと同じ場所に琥珀の間があると発言しており、琥珀の間がコッホ・コレクションとともにワイマールまで来ていたことが推測される。

*ロンメル将軍の秘宝
1941年から1942年の間に北アフリカで連戦連勝だったロンメル将軍の部隊は占領地域で主にその部下が略奪を繰り返したとされる。1947年、それらの略奪品を沖合に沈めたという元ドイツ兵のキルナーという人物がコルシカ島にあらわれる。1943年5月、北アフリカ戦線から撤退したキルナーは同年9月にコルシカ島に行くように命じられる。そこで特殊任務部隊のダール大尉から北アフリカからの略奪品、金の延べ棒や銀杯、ダイヤモンドなどを沖に沈めるよう命令される。当時、イタリアは連合軍に包囲されていたため、ベルリンまで運べなかったためである。またドイツ軍がアフリカ戦線から撤退するまで主にチュニジア東部で略奪を指揮したのはナチス親衛隊のラウフ大佐であり、1943年7月から9月、コルシカ島に滞在している。しかし財宝を隠す命令は文書で残っていない。

*トプリッツ湖の黄金伝説
1945年5月、ナチスの部隊が地元住民を手伝わせて大量の木箱を湖に沈めている。トプリッツ湖はオーストリア中部の山岳地帯にある。これらの木箱は国家保安本部の長官E.カルテンブルンナーの逃走資金とされる紙幣や金の延べ棒、ダイヤモンドなどと思われてきた。1956年、木箱はドイツの週刊誌の取材チームが引き上げに成功する。中身は大量の偽札で金塊ではなかった。その後、宝探しで騒動が過熱し死者が出たため、1963年にオーストリア内務省が公式調査を実施し、18個の木箱を見つけるも金塊はなく捜査は打ち切られている。

まとめ

連合軍がノルマンディーでドイツ軍を突破して以降、前線においてモニュメンツ・メンの活動する範囲は格段に広くなる。また前線にいる部隊と行動を共にし、解放・占領地域の美術品の保護、修復だけでなく、失われた美術品に関する情報収集も行う。失われた財宝については情報の信憑性が低いため、今後見つかる可能性は低いだろう。



おわりに

今回はモニュメンツ・メンとその活躍について調べたが、次回は一つ一つの美術作品に焦点を当てていきたい。


参考文献
・ロバート・M・エドゼル 著 高儀 進 訳 (ナチ略奪美術品を救え 特殊部隊「モニ
ュメンツ・メン」の戦争)白水社 2010年
・篠田 航一 著 (ナチスの財宝)講談社現代新書 2015年

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