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2015/12/19

金曜4限概論発表

一回生のうのこです。今回の概論は「コミンテルンと日本共産党の創立」で発表しました。

はじめに 
 今日では日本共産党は合法的に政治活動を行っているが、かつては非合法とされていた。今回は、共産主義が厳しく取り締まられていた時代に共産党がどのように組織されたのか調べた。 

・コミンテルン と日本人社会主義者
 日本共産党の成立にはコミンテルンが深く関与している。日本人で初めてコミンテルンにやってきたのは、アメリカで世界産業労働者組合に加わり、活動していたという吉原太郎である。彼は1920年はじめにロシアに来たという。コミンテルンの指導部は、朝鮮、中国とともに、日本にも共産党を創立することに関心を持っており、このための組織整備が進められた。1920年5月には、コミンテルンはウラジオストクに東方ビューローを設置したといわれている。ここでロシア共産党が周辺東洋諸国への工作の為に進める活動との調節が問題となる。イルクーツクのロシア共産党中央委員会シベリア・ビューローは1920年7月、東方諸民族局を設立、年末には吉原が日本工作の責任者になる。1921年1月15日には東方諸民族局はコミンテルンに移管され極東書記局に改組された。
 日本共産党の創立を促す働きはアメリカからも来た。片山潜が1919年アメリカ共産党の組織に参加し、その党内に日本共産主義者団をつくったのである。このグループがコミンテルンと接触して、日本共産党の結成を促そうとした。1919年このグループの一員近藤栄蔵が日本に派遣された。このころ日本国内では、ロシア革命の影響、米騒動などの社会運動の高揚、そして大正デモクラシーの開放的な雰囲気などが相まって、マルクス主義的なグループ、またアナルコ=サンジカリスト の結社が生まれ、活動を活発化させていた。1920年12月には堺利彦、山川均、荒畑寒村、古参の社会主義者と若い社会主義者が大同団結して日本社会主義同盟を結成した。アメリカから派遣された近藤栄蔵はこれらの人々と会って、共産党創立の問題を議論し始めた。


 コミンテルンと日本の社会主義者の接触が成果を生んだのは1921年4月のことだった。その当時上海でひらかれた朝鮮共産党創立大会に出席した李増林が日本へ戻って、堺、山川、近藤と会い、代表の上海訪問を要請した。その結果、近藤が上海に赴くこととなり、それに先立って、この月のうちに、堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、高津正道、橋浦時雄、近藤憲二の七人が集まり、日本共産党準備委員会を東京で結成した。このとき山川が起草した日本共産党規約と宣言が採択された。
 近藤栄蔵は直ちに上海へ赴き、朝鮮共産党を準備していた李東輝らを介し、コミンテルン側に規約と宣言を渡した。そしてコミンテルン第三回大会に代表を派遣することを約束し、共産党の運動資金を受け取った。しかしながら、このとき日本共産党が創立されたとは言えない状態で、共産主義を志向する小さなグループがまばらに存在するに過ぎなかった。

・日本共産党創立と綱領作成
 1922年1月21日より2月2日にモスクワで第一回極東勤労者大会が開かれ、日本共産党準備委員会は代表を派遣している。これに参加した日本人は最低15名いた。イルクーツクの吉原太郎経由で日本参加したのは共産系が徳田球一と高瀬清、それにアナルコ=サンジカリストが四名であった。アメリカからは片山潜、間庭末吉、二階堂梅吉、野中正之、鈴木茂三郎、田口運蔵ら六名が参加した。以上12名投票権のある正式代表と認められた。この他審議権のみの代表が三名いた。
 片山潜は大会の指導部に加えられ、大会で審議、採択された綱領的文書「日本共産主義者の任務」に大きな影響を与えた。
 政綱は、共産主義者が掲げるべき「当面の要求」の第一に「政治制度の完全なる民主化」を挙げている。
 大会に参加したアナルコ=サンジカリスト四人は、「無政府主義を放擲し共産主義者たること宣言し」、コミンテルンに従うとの決議書を差し出したが、結局共産党には加わることはなかった。
 他方で、徳田球一と高瀬清はコミンテルンより日本共産党の正式結党を求める指令受け、資金を受け取り帰国した。1922年七月十五日、渋谷で、高瀬、堺、山川、近藤栄蔵ら八名が集まって党創立会議を開いた。コミンテルンの規約を受け入れて、結党することを決めた。

この会議では党綱領については論議されなかった。しかし、同年九月、荒畑と堺は連名でコミンテルンに報告を送るとともに全国大会で採択したとして、荒畑、堺、山川ら三人でまとめたものを綱領案として送った。
この綱領も議会制度の完成がプロレタリアの闘争の正常な発展の重要な一段階としている。また、君主制問題には全く触れず、あくまでも慎重、穏健である。
コミンテルンの側では、この年の夏執行委員会の中に設けられた綱領委員会に日本小委員会が作られ、ブハーリンが綱領委員会とともに日本小委員会をも指導した。日本からは高瀬清と川内唯彦が参加し、日本共産党の創立を報告し、コミンテルン支部として承認された。この大会までにブハーリンは日本共産党綱領案を起草しており、これが日本に持ち帰られた。
この綱領案が日本人の作成した綱領的文書と決定的に異なる点は君主制の廃止をスローガンとして掲げた点である。
この後の日本共産党大会でブハーリン綱領は検討されたが「君主制の廃止」の規定についての対立が深刻であったため綱領の決定には至らなかった。
その後も決まった綱領を持たずコミンテルンの決議である27年テーゼ、32年テーゼが綱領として位置づけられた。

終わりに 
 非合法時代の日本共産党はコミンテルンの日本支部として発足した。また、自己で作成した綱領も持たず、政党というより思想団体のような性格を持っていた。
 
○参考文献
和田春樹、G,Mアジベーコフ、富田武『資料集 コミンテルンと日本共産党』岩波書店2014年

岩村登志夫『コミンテルンと日本共産党の成立』三一書房1977年                                                                     
                               

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