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2015/12/18

火曜5限概論発表

2回生の半熟です。
今回は信長ブラザーズ(中編)です!
…といっても時間の関係上ブラザーズについては死因しか触れられず、ほぼ織田信長包囲網前半の年表になってしまいました……。
あと、本概論では多くの死者がでます。発表と違って虐殺描写はないですが、極度に苦手な方はご注意ください。

はじめに
 織田信長、という人にどんなイメージを持っているだろうか。新しいことに挑戦する革新的な人、といったポジティブなものもあるだろうが、怖い、と思う人も多い。そしてその理由は、比叡山焼き討ちや長島一向一揆撲滅を行ったことにある。そこで今回は、織田信長の怖いイメージの元になった、信長包囲網期の信長の動きを、当時の畿内の状況と兄弟たちの死にスポットをあてながら見ていく。
 なお、本概論は昨年の史学研大会で発表した「信長ブラザーズ(前編)-尾張統一の犠牲者たち-」の続編ともいえる。

1、織田信長の一族
◆織田信長の父世代
 信秀(のぶひで) (1510 ~ 1551)…信長らの父。病死。
 信光(のぶみつ) (1516 ~ 1556)…信長らの叔父。元守山城主(1)。暗殺。
 信次(のぶつぐ) ( ? ~ 1574)…信長らの叔父。元守山城主(2・4)…今回討死

◆織田信長の兄弟
 信広(のぶひろ) ( ? ~ 1574) …系図長男。信長の庶兄。元安祥城主。…今回討死
 秀俊(ひでとし) ( ? ~ 1556) …系図六男。信時?元守山城主(3)。信広と同母弟。暗殺。
 信長(のぶなが) (1534 ~ 1582) …系図次男。嫡男。
 信勝(のぶかつ) (1536?~ 1557?)…系図三男。一般に信行。暗殺。
 秀孝(ひでたか) (1540?~ 1555) …系図八男。事件死?
 信包(のぶかね) (1543 ~ 1614) …系図四男。
 信治(のぶはる) (1544 ~ 1570?)…系図五男。…今回討死
 信興(のぶおき) ( ? ~ 1570) …系図七男。…今回討死
 秀成(ひでなり) ( ? ~ 1574) …系図九男。…今回討死
 信照(のぶてる) (1546?~ 1610?)…系図十男。
 長益(ながます) (1547 ~ 1622) …系図十一男。
 長利(ながとし) ( ? ~ 1582) …系図十二男。

2、畿内混沌   【家系図①】【家系図②】【家系図③】【家系図④】
・明応二年(1943) 細川政元が将軍足利義稙を廃し、足利義澄を擁立
<将軍>足利義澄-細川政元-本願寺 vs 足利義稙-朝倉-真宗高田派
・永正四年(1507) 細川澄之(政元養子)が細川政元を暗殺
=室町幕府管領細川家の直系断絶→養子間の争い 
         =将軍足利義澄が廃され、足利義種が再び将軍に就任
         →本願寺実如(蓮如子)が細川澄元に山科本願寺を追放される
        足利義晴(義澄子)-細川高国(政元養子) vs <将軍>足利義稙-細川澄元(政元養子)
・大永元年(1521) 将軍足利義稙が細川澄元と対立し、出奔
         →細川高国が足利義晴を将軍に擁立
         <将軍>足利義晴-細川高国-本願寺-六角定頼-朝倉義景 vs
<堺公方>足利義維(よしつな、義稙養子)-細川晴元(澄元子)-三好元長
・大永七年(1527) 三好元長らに攻められ、将軍足利義晴・細川高国逃亡
         →細川高国死去→本願寺証如(実如孫)が細川晴元側に移る
         <将軍>足利義晴-六角定頼 vs <堺公方>足利義維-細川晴元-三好元長-本願寺
・天文元年(1532) 細川晴元が三好元長と敵対、足利義晴方につく
    <将軍>足利義晴-細川晴元-三好政長-本願寺-六角定頼 vs <堺公方>足利義維-三好元長
→細川晴元(当時19歳)の依頼で本願寺証如(当時17歳)らが三好元長を攻め滅ぼす
         本願寺の動員で一向一揆が奈良春日大社を襲う
         法華一揆…将軍義晴と細川晴元の命令で京都住民(日蓮宗徒)らが山科本願寺を焼く
         <将軍>足利義晴-細川晴元-三好政長-六角定頼 vs 本願寺 vs
  <堺公方>足利義維-細川氏綱(高国子)-三好長慶-松永久秀
・天文二年(1533) 石山本願寺建立
三好長慶(当時12歳)の仲介で足利義晴と本願寺が和解→再び対立
・天文五年(1536) 天文法華の乱…比叡山延暦寺の僧兵が洛中の日蓮宗寺院を焼く
               →日蓮宗は本拠を堺に移す
・永禄元年(1558) 三好方優勢を見た六角義賢(定頼子)が足利義輝と三好長慶を仲介
         <将軍>足利義輝(義晴子)-細川氏綱-三好長慶-松永久秀-六角義賢
・永禄七年(1564) 三好長慶死去→養子の三好義継が継ぐ
・永禄八年(1565) 三好三人衆・義継・松永久秀らで将軍足利義輝を暗殺
         →義輝弟の義昭が諸大名に自分を擁しての上洛を要請
         →三好三人衆と松永久秀が対立
         三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)-三好義継 vs 松永久秀




3、希望の永禄三年間
・永禄八年(1565)
  十一月十三日 織田信長が養女を武田勝頼に嫁がせる
         =織田―武田同盟 
・永禄九年(1566) 閏八月以前
 織田信長が足利義昭の上洛要請を受ける
 足利義昭が織田氏と斎藤氏を仲介
 細川藤孝(義昭近臣)が尾張に下向・永禄十年(1567)
   二月    三好義継が松永久秀方につく
   九月    織田信長が斎藤龍興の稲葉山城を攻略
         →斎藤龍興が伊勢長島に落ちる
十月十日   東大寺大仏殿焼失…三好三人衆と松永久秀の争いによる
  十一月七日  本願寺顕如が織田信長に太刀・馬等を贈る
・永禄十一年(1568)
   二月    三好義継が三好三人衆を見限り、松永久秀を頼る
二月    織田信長が北伊勢に侵攻、神戸氏・長野氏を降す
         →織田信長の息子、信孝(のぶたか)が神戸氏の養嗣子に
         →織田信長の弟、信包(のぶかね)が長野氏の養子に
   二月    足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)が将軍職の宣下を受ける
足利義栄-三好三人衆-六角義賢 vs 足利義昭-織田信長-細川藤孝
vs 三好義継-松永久秀
  九月十二日  織田信長が六角氏の箕作(みつくり)城を攻略
         →六角義賢(よしかた)らが落ちる
         →織田信長の上洛が確定
 三好三人衆が京都を離れる
 正親町(おおぎまち)天皇が織田信長に御教書(みぎょうしょ)を発給
 =禁中の警護と京都内の治安の維持を命令
 九月二十六日  織田信長が足利義昭を擁して上洛
十月二日    松永久秀が織田信長に降る
  十月十八日   足利義昭が征夷大将軍に就任
 ・永禄十二年(1569)
   一月五日   三好三人衆らが本圀寺の足利義昭を襲う
(前年十一月二十六日に、織田信長は岐阜へ下向している)
   二月    織田信長が将軍御所の建設を開始
   十月三日   織田信長が北畠氏を降す
         →織田信長の息子、信雄が北畠氏の養嗣子に
         →朝倉領を除いた畿内をほぼ平定
  十月十七日  織田信長が足利義昭と衝突、岐阜へ下向
         →正親町天皇が勅使を立てて下向の理由を聞く

4、絶望の元亀三年間
三好三人衆-六角義賢 vs 足利義昭-織田信長-三好義継-松永久秀-浅井長政-徳川家康
・元亀元年(1570)
  一月二十三日 織田信長が五カ条の条書を足利義昭に承認させる
         →将軍足利義昭の傀儡化
    同日   織田信長が諸大名(徳川家康・武田信玄・尼子氏など)に上洛要請
三月一日   織田信長が参内…権力誇示
  四月二十日  織田信長が京都を出陣
(若狭の武藤友益討伐として、天皇の勅命と将軍の上意、両方を帯びていた)
  四月三十日  金ヶ崎の退き口…織田信長は浅井長政の離反により京都に戻る
朝倉義景-浅井長政-坂本(延暦寺)-三好三人衆-六角義賢 vs 
足利義昭-織田信長-三好義継-松永久秀-徳川家康
   五月    織田信長が琵琶湖南岸に宿老を配置…京―岐阜―尾張ルート確保のため
  六月二十八日  姉川の戦い…織田信長が浅井・朝倉連合軍を破る
   七月七日   織田信長が岐阜に戻る
七月二十一日  三好三人衆らが阿波より渡海し、摂津中島・天満森に陣を張る
八月二十三日 織田信長が京都に入り、二十五日には天王寺に布陣
  八月二十六日  野田・福島攻め…織田信長が三好三人衆らを攻める
八月三十日  足利義昭自身が出陣、信長軍に合流
九月二日 本願寺顕如が近江の門徒に、織田信長と戦うよう命令した檄文を出す
 九月十二日  織田軍攻勢→三好方から和睦要請→織田信長取り合わず
本願寺が織田軍に攻撃→織田軍劣勢に→織田方から和睦要請→本願寺取り合わず
     同日  本願寺と浅井氏で同盟成立
九月十九日 浅井・朝倉軍が近江宇佐山城を攻撃
    ※檄を受けた一向一揆衆一万強を含む
     (宇佐山城…琵琶湖南岸)
 九月二十日 織田信治(のぶはる)・森可成が戦死→浅井・朝倉軍が京都に入り山科・醍醐を放火
  九月二十二日 信長のもとに注進
 →柴田勝家を京都に派遣→事態深刻→勝家からの応援要請
九月二十三日  織田信長が強硬に軍を退き上げる
  九月二十四日  浅井・朝倉軍が京から退き、比叡山へ
志賀の陣…織田信長が比叡山麓に着陣
              信長は延暦寺の僧十人ほどを呼び寄せ朱印状を送る
 浅井・朝倉の味方をすることを止め、自分に味方してくれるなら、織田分国の叡山領はすべて還付する
 出家の身ゆえ一方に味方できないというならば、せめて中立を保ってほしい
 このまま敵に味方するならば、延暦寺すべてを焼き払う
               延暦寺から返事はなし→三か月近く続く
十一月二十一日 長島一向一揆が織田信興を自害させる
  十二月十三日 織田信長と浅井・朝倉氏との和睦が成立
・元亀二年(1571)
  五月十六日  長島一向一揆攻め→失敗
  九月十二日  延暦寺焼き討ち…死者千人前後
・元亀三年(1572)
   三月    足利義昭が織田信長の屋敷を京都に造成
   九月    織田信長が足利義昭に意見書十七ヵ条
         …信長が義昭を非難する内容
 十二月二十二日 三方ヶ原の戦い…武田信玄vs 徳川家康


5、逆襲の天正三年間
足利義昭-朝倉義景-浅井長政-三好三人衆-三好義継-松永久秀-六角義賢
-本願寺-一向一揆-武田信玄  vs  織田信長-徳川家康-細川藤孝-荒木村重
・天正元年(1573)
   二月    織田信長が足利義昭との和睦を模索…決裂
  二月中旬   足利義昭が信長打倒を命令…反信長方の国衆が蜂起
四月四日   織田信長が京を放火
  四月七日   正親町天皇の斡旋により、織田信長・足利義昭和睦
  四月十二日   武田信玄病死
  七月三日   将軍足利義昭が再び蜂起
  七月十八日  織田信長が将軍足利義昭を追放→義昭は三好義継を頼って落ちる
  八月二十日   朝倉氏滅亡(戦死者に斉藤龍興を含む)→越前が一向一揆持ちの国に
  九月一日   浅井氏滅亡(市と三人の娘は脱出・嫡男万福丸は逃亡後捕らえられ関ヶ原にて磔)
 九月二十六日  長島一向一揆攻め(二度目)→失敗
 十一月十六日  三好義継を攻め滅ぼす(足利義昭は十一月五日に堺に移っている)
  十一月    本願寺顕如と織田信長が和睦
十二月二十六日  織田信長が多聞山城攻める→松永久秀開城
足利義昭  vs  織田信長-徳川家康-細川藤孝-荒木村重

・天正二年(1574)
  四月二日   本願寺再び蜂起(三好・松永残党を含む)
   五月    武田勝頼が遠江高天神城を囲む
         →徳川家康から援軍要請→援軍派遣→間に合わず開城 

  七月十四日   長島一向一揆攻め(三度目)
 八月十二日   長島の篠橋(しのばせ)・大鳥居城が降伏→門徒たちを長島へと追いやる
 九月二十九日  長島降伏…籠城している者の助命・無事立ち退かせることが条件
→立ち退き時に織田軍が一斉射撃
→一揆の反撃で信長の叔父信次(のぶつぐ)、異母兄信広、
弟秀成、従兄弟(信光の子)信成らが討死
→残された2城の門徒二万人を焼く
・天正三年(1575)
  五月二十一日 長篠の戦い
  八月十五日  越前一向一揆攻め
→信長軍は山々谷々を捜索、一揆の者たちを見つけ次第首を切る
→二十九日まで一揆の探索が続き、合わせて三、四万人が殺された


まとめ
 織田信長の虐殺劇として有名なのは、比叡山延暦寺焼き討ちと、義理の弟浅井長政を殺したことであろう。しかし、実際の虐殺劇はその後に起こっていたのである。ただし、これらは決して、信長の性格故に行われたものでも、信長が仏教を迫害していたわけでもない。
戦国時代、大量殺戮というのは一種のアピールに用いられた手法である。主に、
 敵城のうちの数ヵ所を皆殺しにしてみせることで、他の敵城を戦わずして落とす
いわゆる「見せしめ」効果を狙った場合
 「領土領民を守るのは領主の義務」という観点から、
敵により殺戮が行われた際、その非難の目が殺戮を行った敵ではなく、
敵から自分たちを守れなかった領主側に向くという傾向を利用し、領主の信頼を落とすいわゆる「見限り」効果を狙った場合
などに用いられる。だが、それはあくまで最終手段でしかない。織田信長という人物を天正の大殺戮に掻き立てたものは、紛れもなく、それ以前の争乱と彼を取り巻く当時の状況にあった。


おわりに
 本概論は本来、織田信長には怖いイメージがあるけど、実際はそうでもない…という趣旨で書くはずが、虐殺の規模が大きすぎるのと、時間の都合上途中までしか概論に出来なかったせいで、逆に織田信長の怖いイメージを助長するような内容になってしまった。それでも、当時の信長が一体どれだけ追い詰められていたのかを少しでも感じて頂けたなら、幸いである。


参考文献
・谷口克広 『信長の天下布武への道』 2006年 吉川弘文館
・谷口克広 『信長と消えた家臣たち : 失脚・粛清・謀反 』 2007年 中央公論新社
・神田千里 『一向一揆と石山合戦』 2007年 吉川弘文館

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