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2015/12/17

火曜5限概論発表

 1回生の山辺です。今回は二度にわたるエチオピア戦争についての発表を行いました。

はじめに
皆さんはイタリア、エチオピアの二度にわたる戦争の歴史を知っているだろうか?一度目の戦争(第一次エチオピア戦争)で近代化された軍を持つイタリアがエチオピア軍に敗北したことは有名な話であるが、その戦いの約40年後にイタリアは再度エチオピアに侵攻し、平定することに成功した。この戦争は第二次世界大戦の発生の一因であるともいえる重要度の高い事件である。本概論では第一次、第二次エチオピア戦争の経緯と要因について述べる。なお、冒頭にエリトリア戦争を独自項目で紹介する。(文献によってエリトリア戦争は第一次エチオピア戦争に組み込まれるため。本概論では別のものとして扱う。)

1. エリトリア戦争
 ・戦争前の動向からエリトリア戦争の開始
国家の統一が遅れ、海外植民地の獲得を目指していたイタリア政府は、エチオピアに接する紅海沿岸部の買収を開始し、エチオピアと対立する。1870年にスエズ運河が開通したため、紅海沿岸に拠点を設けて、通行料による利益をあげることが目的であったとされる。イタリアのこのような動きに対して、エチオピア皇帝ヨハンネス4世は1885年に、入植を行っていたイタリア人に対して軍を動員する。これにたいして、イタリア側も軍を動員し、ソマリアの一部とエリトリアへ上陸させた。これにより、エリトリア戦争が開始される。ドガリの戦いを契機として、イタリア軍約2万、エチオピア軍約10万が動員される。最終的にはイタリアが沿岸部の支配権を確立するが、小規模な戦闘が主であり、軍主力同士の大規模戦争は発生しなかった。

・内戦の発生とエリトリア戦争の終結
 1889年にヨハンネス4世が死去したことで、エチオピア国内でヨハンネスの息子であるマンガッシャとショア(地方豪族)のメネリク2世による内戦が発生する。イタリアはメネリク2世を支持して近代兵器を供与、勝利に導いた。その後、メネリク2世がエチオピア皇帝として即位し、イタリアとの間でウッチャリ条約を締結。エリトリアが正式にイタリアの領土となった。イタリアはその見返りに経済、軍事においてエチオピアに支援を行うことがウッチャリ条約に明記された。しかし、ウッチャリ条約第17条の解釈がイタリア側とエチオピア側で異なっていたことが第一次エチオピア戦争を招く。

2.第一次エチオピア戦争
・第一次エチオピア戦争前の両国の動向
先述のウッチャリ条約の解釈の違いが再び両国の対立を招く。イタリア語の条文では、エチオピアがイタリアの保護国扱いとなり、全ての外交がイタリアを通して行われるとなっていたのに対して、アムハラ語条文では、エチオピアにかなりの外交権が認めてられており、イタリアを通して第三国と交渉することも出来るようになっていた。1895年にメネリク2世は抗議を行うも、イタリア政府は文章の言い回しの違いだけの問題なので、内容はイタリア語条文のままであると返答。メネリク2世は条約の破棄を宣言した。

・開戦
 1893年エリトリアに駐屯していたイタリア軍がエチオピア国内に進軍を開始した。イタリア政府の財政難や、少数の兵でもエチオピアに勝利できる、エチオピア国内のショアがイタリアに味方するといった希望的観測により、イタリア本国からの増援はなく、エリトリア総督オレステ・バラティエリは、約2万のエリトリア守備隊で戦争を遂行しなければならなかった。一方のエチオピア側は、イタリアの予想に反して近代的なライフル銃や大砲を多数準備していた。これは、イタリアがアフリカ内で勢力を拡大することを危惧するとともに、イタリアの貿易利益の拡大とスーダンに駐留するイギリス軍、チュニジアの領有でイタリアと対立していたフランスからの支援の結果である。

・戦争の経過
 イタリア軍はエリトリアに攻め込んできた有力なショアのラス・メンゲシャに勝利し、士気を高めた。この戦いの結果を見て、フランスも支援を打ち切ることを考えたともいわれるが、一方でエチオピアは近代兵器の準備を完了しつつあった。その後発生したアンバ・アラギの戦いでエチオピア軍は近代兵器を利用してイタリア軍に打撃を与えた。バラティエリはこの結果をうけて、決戦を避ける戦術をとるようになる。エチオピア軍は常備軍を保持していなかったため、長期間軍を動員できないことを知ってのことだった。しかし、イタリアの首相フランチェスコ・クリスピはこの姿勢を批判し、決戦を行うことを厳命した。イタリア軍は決戦の地アドワへと向かうことになる。
 
・アドワの戦い
 1896年に両軍はアドワに集結する。バラティエリは夜間の行軍を行うが、複雑な地形によって行軍は難航し、相互の連絡にも支障をきたすようになった。この状況を察知したメネリク2世は全面攻撃を指示。イタリア軍はこれにより1万4000の兵のうち1万近くを失ったと言われる。一方のエチオピア軍も12万の兵のうち、1万を失ったと言われる。

・戦争の終結
 主力を失ったイタリア軍は継戦することが事実上不可能になった。イタリア国内でも反戦運動が激化し、クリスピ首相は辞任に追い込まれ、バラティエリ将軍も敗戦の責任を追及され、辞職に追い込まれた。その後、新政権とエチオピアの間でアディスアベバ条約が締結され、エチオピアの独立の承認とイタリアのエリトリア保持が決定された。

2. 第二次エチオピア戦争

・戦争前の動向
 イタリアは世界恐慌のあおりをうけての不況、人口増加による高い失業率に苦しんでいた。そのような状況でファシスト党が勢力を拡大する。過剰人口の吸収や資源の獲得を目的として、エチオピアを獲得するべきという気運がイタリア植民相エミリオ・デ・ボーノを中心に高まった。ムッソリーニ自身も1932年のファシスト大評議会でエチオピアに積極的にかかわるという考えを発表した。しかし、エチオピアと領土を接するイギリスとフランスによる反対が予想されたため、ムッソリーニはイギリス、フランスに友好的な外交を開始。ナチス・ドイツの台頭に英、仏、伊の三国でストレーザ戦線を結成することに成功し、友好をアピールする。

・ワルワル事件
 伊領ソマリランドとエチオピアの国境線はベナディール海岸から21リーグとされていた。イタリアはこのリーグの基準を世界の標準ではなく、海軍で用いられていたものであると主張し、エチオピア領内に要塞や道路を建設した。1934年11月にエチオピアとイギリスの国境策定委員会はイタリアに抗議を行ったが、12月5日にエチオピア領内のワルワルでエチオピア軍とイタリア軍が衝突し、エチオピア軍約150人、イタリア軍約50人が死亡した。

・アビシニア危機
 1935年1月3日にエチオピアはイタリアが侵略を行っているとして国際連盟に提訴するが、ナチス・ドイツへの対処に追われていたこともあり、審議は遅れた。8月にはイギリスが独自にジブラルタルへ艦隊を派遣しイタリアをけん制するも、それ以上の軍事行動を起こさなかった。これを見たムッソリーニは、エリトリアとソマリランドの兵をエチオピアとの国境付近へ移動させるように指示した。8月16日に英、仏、伊の三国の代表が会談を行った。しかし、イタリア側はエチオピアの占領を目的としていたために会談は決裂した。その後も調停は続くが、最終的に英仏は利益を侵害されないことを条件としてイタリアの軍事行動を容認。これを見たエチオピアは国家総動員を命じて約80万の兵を集めた。19世紀のライフルや旧式の大砲、対空砲約50門と少数の軽戦車、航空機がかろうじてイタリア軍に対抗できる装備であり、その他の主力兵は槍や弓矢で武装するありさまで、訓練されていた兵も全体の四分の一ほどであったと言われている。そのため、エチオピア軍は極秘にダムダム弾を輸入した。対するイタリア軍は約20万の兵に機関銃6千丁、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機を装備し、これに現地の傭兵が加わった。また、イタリア軍はこの戦いのために、毒ガス(イペリット、クロロピクリン)を準備した。なお、ダムダム弾は1907年のハーグ陸戦条約、毒ガスは1925年のジュネーブ条約で禁止されている。

・開戦と終結
 1935年10月2日にムッソリーニはイタリアへの侵攻を宣言し、宣戦布告の無いままイタリア軍は総司令官エミリオ・デ・ボーノ元帥率いる北部方面軍がエリトリアから侵攻を開始。同時にロドルフォ・グラツィアーニ将軍率いる南部方面軍が伊領ソマリランドから侵攻を開始した。国連はイタリアを侵略国家であるとみなし、経済制裁を行うことを決定するが、石油などの戦略物資には適用されなかった。軍備においてエチオピアより優位に立っていたイタリア軍であったが、高低差の大きく、森林地帯の多いエチオピアの地形は戦車や戦闘機の侵攻や攻撃を阻害したため、思うような戦闘をできずにいた。そのため、イタリア軍は毒ガスやダムダム弾の投入を想定しはじめ、反対的であったデ・ボーノ司令官は解任される。もっとも、デ・ボーノ率いる北部方面軍の侵攻速度が遅かったことも理由に挙げられる。デ・ボーノの後任であるピエトロ・バドリオ元帥は積極的に毒ガス、ダムダム弾を使用して迅速な侵攻を実現する。エチオピア軍はガスマスクをドイツから輸入するとともに、自国でも製造して配備していたが、絶対数の不足のために兵士は毒ガスに苦しむことになる。エチオピア軍はその数の多さゆえに軍服や軍靴の支給も一部の部隊にとどまっていたため、兵士は皮膚のただれや粘膜の破壊に苦しむことになった。エチオピア軍は毒ガスに対して有効な対抗策を最後まで確立できず、皇帝ハイレ・サラシエはジブチに逃亡。その後ロンドンへと亡命する。イタリア軍は1936年5月8日に首都アディス・アベバに入場し、第二次エチオピア戦争は終結した。

・戦後
 イタリアの勝利によってイタリア領東アフリカ帝国が成立した。イタリアは、道路やプランテーション、軽工業の工場、さらには銀行や独自通貨、学校まで建設して余剰人口を入植させようと計画した。しかし、エチオピア国内のレジスタンス活動によって入植活動は停滞したままであった。1940年にイタリア軍はエチオピアから英国領のケニア、スーダン、ソマリアへ侵攻し、ソマリアを支配下におくが、次第に劣勢となり、同年5月5日に皇帝ハイレ・サラシエはアディス・アベバへの再入城を果たした。その年11月28日にはエチオピア領内の全イタリア軍が降伏した。

・まとめ
 統一と海外進出が遅れたイタリアは、他の列強に追随するために残された唯一の方法としてエチオピアの獲得を目指した。しかし、対外戦争の経験の少なさからか戦争では思わぬ苦戦や、油断を連発する。一度目の戦いはイタリアの不手際もあったが、エチオピア側の外交や戦術のうまさが大きな勝因といえる。二度目の戦いでもイタリアは圧倒的な装備で臨むが、序盤で苦戦。非人道的兵器を利用するなど、列強とは思えない戦いぶりである。エチオピアは敗北するとはいえ、イギリスの援助を取り付けて領土を取り返すなど、外交においては優れた点を残した。

・意見
 軍服や軍備の十分でない状態のエチオピアに対しても苦戦するイタリア軍の実力には驚かされた。本国からの援助が十分でなかった第一次戦争は仕方ないにしても、第二次戦争での序盤の苦戦は、前回の戦争から地形や戦術について全く研究していない様相である。逆にエチオピア側は不利を認識したうえで外交により、不足を補っていた。フランスの援助を取り付けた点は大いに評価できるし、第二次戦争での亡命政府の交渉力も高いものであったと評価する。

・参考資料
 アンジェロ・デル・ポカ『ムッソリーニの毒ガス』2000年 大月書店
 岡倉登志『エチオピアの歴史 ”シェバの国の女王”から”赤い帝国”崩壊まで』1999年 明石書店
 岡俊孝『エティオピア戦争前夜の「地中海危機」について』 1~3 1986年 1987年
 石田憲『ファシストの戦争――世界史的文脈で読むエチオピア戦争』2011年 千倉書房

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