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2015/12/12

木曜3限概論発表 

1回生の富士山改めプラウダです。今回は「大祖国戦争」で発表しました。

はじめに
 本年で第二次世界大戦終結から70年となり、日本では、現在、歴史認識について盛んに議論されているが、北の隣国ロシア連邦でも、5月に対独戦勝を記念する大規模な軍事パレードが行われ、様々な形で歴史について考察されている。今概論のタイトルである大祖国戦争はロシアでは、第二次世界大戦の主に対独戦を表し、大がついているのは、1812年のナポレオンのロシア遠征がロシアで祖国戦争と呼称されるのに対してである。今回は、主にこの大祖国戦争の推移を考察する。

1. 独ソ不可侵条約
1938年のミュンヘン会談での英国首相チェンバレンの対独融和姿勢及び、1939年のノモンハン事件は、ソ連にとって前者は、ドイツが敵対政策を強化する可能性が増し、後者は、日本により極東の脅威が増し、両国による挟撃を恐れる同国にとっては看過できない事態であり、一方で対独融和的路線をとる英国に対しては、ミュンヘン会談にソ連を呼ばなかったことに不信感を抱き英ソ関係に亀裂が入った。
さらにこの後の英国が対独強硬姿勢を強めると、急速に独ソ両国を接近させる結果となり、1939年8月23日ドイツ外相リッベントロップが訪ソ、クレムリンで独ソ不可侵条約を締結する。
この独ソ不可侵条約には、秘密議定書が付随しておりこの議定書の中には、バルト諸国、ベッサラビア、東欧に関する勢力圏について記載されていた。

2. ポーランドへの侵攻
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、これに対して9月3日、英仏両国がドイツに宣戦を布告する。
このドイツの動きに呼応して9月17日に、ソ連軍が、ウクライナ系、ベラルーシ系市民の保護を理由としてポーランド東部に侵攻、占領。
この中で、カチンの森事件が起こる。
9月27日にポーランドは、降伏、独ソ両国が、ポーランドで国境を確定し、これに続いてソ連は、1940年8月にバルト三国を併合する。

3.冬戦争
 1939年11月30日、ソ連軍は、約60万人の兵力でフィンランドに侵攻する。
 この戦争の目的は、近い将来におけるドイツとの戦争に備えて、フィンランドとの国境を戦略上の要衝から離すことにあり結果としてそれは、達成される。
 しかし、30年代の赤軍大粛清の影響で優秀な指揮官が不足したことや慢心による補給不足、さらには、マンネルヘイム率いるフィンランド側の巧みな戦術等、様々な要因からソ連軍は、5万から20万の人的損害を被る。

4. バルバロッサ作戦発動
1941年6月22日未明、ソ連領内に対するドイツ軍砲兵隊による砲撃が開始され、続いてドイツ軍爆撃機がソ連領内に侵入し、ソ連空軍の基地を攻撃する。
その後300万の兵力でソ連領内になだれ込み、ソ連赤軍に襲いかかる。
ソ連赤軍は、戦車や人員、航空機の保有量は、多かったものの、戦車はT26、BTといった旧式が多く、部隊の練度も冬戦争を機に向上が図られるもまだ十分ではなかった。
さらに6月22日以前に、スターリンは、前線の部隊に、偶発的な衝突を恐れて、防衛準備をすることを禁じていたため、準備の整っていない赤軍に甚大な被害がでる。
スターリンは午前4時過ぎにジューコフ将軍により、ドイツの攻撃の報を知らされるも、直ぐに反撃許可命令は、出さず政治局会議の招集を命令する。
外務人民委員のモロトフがドイツ大使を呼び、やってきたドイツ大使が、宣戦布告を発表し、ようやくスターリンは、戦争が始まったことを認識する。
ソ連の一般市民には、モロトフの演説をラジオで通す形で、この日の午前中に伝えられる。
スターリンはこの後一週間ほど茫然自失状態になったといわれており、一週間ほどモスクワ郊外の別荘に引きこもる。
モスクワに戻り執務に復帰したスターリンは、最高戦争遂行機関である国家防衛委員会を設置し委員長に就任する。←指導部の体制がようやく固まる。
ドイツ軍は、北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の三つの構成軸を設けて進撃を続け、北方軍集団、中央軍集団は、特に順調に進撃する。
 南方軍集団は、ソ連軍の激しい抵抗にあい上記二つの軍集団のような順調な進撃とはならなかった。
 これには二つの要因があったと考えられており、一つは、ソ連側がドイツ軍の攻勢の主攻を南方と考え大兵力を投入していたことと、反対にドイツ軍は南方を補助的正面と捉えていたことが挙げられる。
 
5. キエフ包囲戦
 ドイツ軍は、モスクワ前面のスモレンスクを攻略するなどドニエプル川西岸地区を1941年8月中旬には、ほぼ制圧していたが、南方のキエフでは、市街戦を嫌って攻撃を躊躇したので、この間に、ソ連軍は、防御を固めていた。
 ドイツ軍は、キエフの東、北、南から半円形に囲んでいたが、中央軍集団の機甲集団がヒトラーの命令により、スモレンスク戦後、南方に派遣され、キエフの後方を遮断、完全に包囲する。
 9月11日南西総軍司令官ブジョンヌイは、スターリンにキエフからの撤退を進言するがスターリンは、キエフの死守を命令し、キエフにソ連軍部隊が取り残される。
 17日にスターリンは、キエフの放棄命令を出すも、66万5000人の捕虜を出す等の大敗北を喫する。

6. モスクワ攻防戦
 キエフ包囲戦の間、中央軍集団に目立った動きはなく、この間にソ連側は赤軍だけでなく多くのモスクワ市民を動員して、首都の防衛線を構築する。
 1941年10月2日、モスクワ攻撃命令であるタイフーン作戦が発動され、中央軍集団が攻勢を再開、ソ連の戦線は突破され、ヴィヤージマでは、ソ連西方方面軍、予備方面軍といった有力な部隊がドイツ軍によって包囲される。
 さらにドイツ軍第二戦車集団は、モスクワ南西のブリャンスクを陥落させ、ソ連の意表をついて南方からモスクワを攻撃する。
 10月15日ソ連最高指導部で会議が行われ、モスクワから政府機関、外交団、最高会議幹部会をクーイビシェフへ、その他の重要施設も各地に疎開させることや、敵がモスクワに到達した場合の対処も決定された。
 10月16日モスクワの公共交通は止まり、警官は町から姿を消し、当局は、文書の焼却処分を実施する、工場は閉鎖され労働者が解雇され、多くの市民がモスクワからの疎開を目指して道路網も麻痺するなど市内の混乱が発生する。
 この混乱に対しスターリンはモスクワ党第一書記シチェルバコーフにラジオで市民に平静を呼びかけるように命令し17日に放送され、このほかにもNKBDが混乱の平定にあたる。
 10月中旬の秋雨による部隊行動の停滞ののち11月15日にドイツ軍は、最後の攻撃を仕掛け、これに投入された第二機甲師団は、クレムリンから30キロの地点に、さらにオートバイ斥候は、クレムリンから僅か18キロの地点に到達する。
 しかし冬の到来によりドイツ軍は、不自由を強いられ12月6日にソ連軍が反撃作戦を開始、100キロから250キロ前進しモスクワ前面の脅威は、取り除かれた。

7. カフカースでの戦い
 1941年から翌年にかけての冬季に南部に攻勢をかけたソ連軍は、1942年5月12日ウクライナのハリコフを目指して西進するもドイツ軍に包囲され失敗する。
 この失敗により戦線に穴が開き6月28日にドイツ軍は、ブラウ作戦を発動し天然資源の豊富なカスピ海沿岸地方を目指し進撃、対するソ連軍は、戦力が不足しており後退を繰り返す。
 ドイツ軍は、カフカース山脈付近まで進出するも、ソ連軍が、反撃に転じスターリングラード付近からロストフ目指しドイツ軍の退路を塞ぐ動きに出たため、ドイツ軍は撤退する。

8. スターリングラード攻防戦
 1942年7月からドン川屈曲部の制圧を目論んだヒトラーはこの地域の交通の要衝であるスターリングラードの攻略を命令する。
 8月以降ドン川屈曲部のソ連軍は、ドイツ軍の攻撃が強化されたことで総崩れとなり、ヴォルガ川に沿った戦線となる。
 8月23日ドイツ軍は、スターリングラ-ド総攻撃を仕掛けソ連軍はスターリングラード市内に押し込められるが、ソ連軍は頑強に抵抗し、ドイツ軍の侵入を困難にする。
 11月19日ソ連軍は、ウラヌス作戦を発動し大攻勢を開始、ドイツ軍側面を守るルーマニア軍部隊を壊滅させ、23日には、スターリングラードの包囲が完成33万人のドイツ軍が閉じ込められる。
 包囲された部隊は1月31日まで抵抗を続けるも9万人の捕虜を出して降伏する。

9. ハリコフの戦い
 スターリングラード攻防戦の終結後攻勢に出たソ連軍は、南部のハリコフを奪還する。
 2月19日ドイツ軍の反撃が開始されハリコフ南方のソ連軍の突出部を包囲され、3月15日には再びドイツ軍に占領される。

10.クルスクの戦い
 1943年の春には戦線はクルスク周辺が突き出す形になっており、ドイツ軍は、この突出部の切断を画策し、対するソ連軍は、この地域の防衛準備を進めていた。
 7月5日ドイツ軍の総攻撃が開始されたが周到に準備された防衛線の攻略に苦戦し多くの損害を出す。
 南方から攻撃するドイツ軍戦車軍団とソ連軍戦車軍団は、7月12日プロホロフカで激突し、ドイツ軍戦車600両とソ連軍戦車850両が入り乱れた。
 13日にドイツ軍は作戦を中止し退却。

11.ソ連軍の西進
 クルスク戦後、戦いの主導権を握ったソ連軍は、8月5日にクルスク北方のオリョールを23日にはハリコフを解放するなど東部戦線全域での大攻勢に移行。
 その後も9月にはスモレンスクが、11月にはキエフが解放されドイツ軍の反撃を以後不可能にした。
 1944年には1941年以来包囲されていたレニングラードを解囲、1月にはノブゴロドを解放した。

12.バグラチオン作戦
 1944年6月バグラチオン作戦が開始され、ベラルーシの解放目指して白ロシア方面軍がドイツ中央軍集団に襲い掛かった。
 7月4日にはベラルーシの首都ミンスクが解放され、ドイツ中央軍集団を壊滅させ、戦線が東プロイセン国境に達する。
 1944年8月20日、ソ連軍は南ウクライナ軍集団に襲い掛かり、ルーマニアに攻め入る
ルーマニアは、8月23日に降伏。

13.ドイツ本土進攻
 ソ連軍は、1945年1月17日にワルシャワを陥落させ、ダンツィヒ占領によってドイツ中央軍集団を包囲する
 31日にはオーデル川に達し西岸に橋頭保を築きベルリンをうかがったと同時にチェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリアにも侵攻する。
 4月16日、ソ連軍はベルリンに対して攻撃を開始、23日には包囲に成功し市内に50万の兵力で突入する。
 4月30日にヒトラーが自殺、5月2日にベルリン戦が終結し、5月8日には、ドイツが無条件降伏し戦争が終わる。

14.戦後
 この戦争でソ連は、2700万の人員を喪失し農地の荒廃等により経済的損失をゴスプランは、6790億ルーブリと見積もるなど、大きな打撃を受けたが、国際政治の面では、巨大な影響力を持つ大国となる。

まとめ
 1930年代以降の国際情勢の悪化は、ソ連にも無関係ではなく、当初は、ドイツとの不可侵条約締結によって国の安全を図ろうとするも、ドイツの一方的攻撃開始によって一時は、首都モスクワまでも危機に陥る。
 しかし、どうにか体制を立て直したソ連軍は、スターリングラード攻防戦に勝利し以後攻勢に転じ、ベルリンを占領、この戦争に勝利する。

おわりに
 この戦争の議論の中でよく最高指導者がスターリンであったため人的被害が大きくなったといわれることがあり、確かに懲罰大隊での非人道的扱いや無謀な作戦があったことは事実である。
 しかし、近代戦争での人的被害の増大は、第一次世界大戦時において確認されていることや、広大なロシアの地での戦争であったこと、ロシア人に対して偏見を持ち軽蔑していたヒトラー率いるナチス・ドイツが対戦相手であったことを考えると必ずしもスターリン一人の責任とは言えないのではないだろうか。

参考文献
・アンソニー・リード、デーヴィッド・フィッシャー、根岸 隆夫訳『ヒトラーとスターリン 上』(みすず書房2011年)
・倉山 満、鍛冶 俊樹『総図解 よくわかる 第二次世界大戦』(中経出版、2013年)
・斎木 伸生『図解 ソ連戦車軍団』(並木書房、1998年)
・斎木 伸生『西方電撃戦』(潮書房光人社、2013年)
・斎木 伸生『スターリングラード攻防戦』(潮書房光人社、2014年)
・斎木 伸生『エル・アラメインの決戦』(潮書房光人社、2014年)
・下斗米 伸夫『図説 ソ連の歴史』(河出書房新社、2011年)
・中川 右介『ヒトラー対スターリン 悪の最終決戦』(KKベストセラーズ、2015年)
・ノーマン・M・ネイマーク、根岸 隆夫訳『スターリンのジェノサイド』(みすず書房、2012年)
・山崎 雅弘『宿命のバルバロッサ作戦』(学研パブリッシング、2011年)
・ロドリク・ブレースウェート、川上 洸訳『モスクワ攻防1941 戦時下の都市と住民』(白水社、2008年)

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