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2015/12/09

金曜3限概論発表

2回生の白水です。今回の概論は「生駒郷 旧乙田村の芸能」で発表しました。

1.はじめに
奈良県生駒市には市に統合する以前は十七の村があり、それは生駒谷十七郷と呼ばれていた。生駒谷十七郷の1つである旧乙田村では芸能が受け継がれていた。その期間は短いものであったが、村人が上方文化を取り入れていくのは早かったといえる。その芸能が浸透した背景と変遷について調べた。

2.旧乙田村について
・生駒市は生駒山と矢田丘陵にはさまれた土地である。近世には生駒谷と呼称されていた。その生駒市の最南端に位置する。
・江戸期~1889年(明治22)の村名。
 →1889年(明治22)~1954年(昭和29) 南生駒村
 →1955年(昭和30) 南生駒村が生駒町に合併
 →1971年(昭和46) 生駒市乙田町
・旧乙田村に残存する遺物のうち、最古の物は石福寺(せきふくじ)の本堂の前庭にまつられている五輪塔 残欠「天文24年」である。
 →戦国時代には村落形態を成立させていたと推測
・近くに竜田川が流れる。

3.地域的特徴
【産業】
・幕末、酒造や醤油造が起こり、自給自足の商売が成り立つようになっていった。
→庄屋は松川家。“箱圧”の屋号の元、郡山藩御用達の酒造を営んでいた。
⇒上方文化や芸能の村人への伝播は、豪農豪商家主人たちによって拍車がかけられたと推測できる。

【念仏講中 】
・他地域でも「六斎念仏講 ・同念仏踊り 」が行われているが、乙田にも「六斎念仏講」「鉦講(しょうこう)」が伝承されていた。

 六斎念仏講…鉦を打ち鳴らし、念仏を唱和する声明が数種あった。
 鉦講…双盤 を連打しながら、サイハイ を打ち振るう“ダイフリ ”による念仏踊りが行われていた。
→江戸時代を通じて乙田の念仏講が、音曲を伴う芸能的な一面を持ち合わせていたことが分かる。

【街道】
1)暗(くらがり)峠大阪街道
・北隣村である小瀬村内を通っている。
・大阪側では『暗峠奈良街道』と呼ばれる。
・文献では
 大阪側…1753年(宝暦3)『大坂三郡地図』に記述有り
 奈良側…江戸中期『庁中漫録(ちょうちゅうまんろく)』に記述有り

2)大和清滝街道
・竜田川 沿いに開け、北は京、南は竜田 への往来を自由にしていた。
・古代から信仰の道、交易路として利用され発展してきたとされる。
・乙田村内にはこの清滝街道に直結する旧村道が通っている。

3)矢田街道(通称・郡山の坂。)
・近世以降に流行した厄除け観音“松尾寺”、“矢田寺”への往来道であり、大和郡山と乙田を結ぶ山越え道。
・1791年(寛政3)の古地図…生駒川(竜田川)から矢田峠までの古道が描かれる。
 1802年(享和2)の古絵図…古道の脇に「郡山より大坂」と書き添えられる。
 →郡山から大坂へ通じる街道として古くから利用されていた
・村内中央部から、川沿いに東に向かい、奥野のモリサン(七森信仰 )付近から急こう配になり、この坂から山中に入る。


☆上記の3本の街道により、近世の頃から他地域とにぎやかに交流を行っていたと推測されている。これらの街道を行き来する人々から、上方文化や芸能が流れ込んできたと考えられる。
また、声明や踊りといった芸能的な生活が、村人の中に息づいていたと考えられる。
⇒浄瑠璃 が浸透しやすい前提があった。

4.旧乙田村の演芸変遷
・浄瑠璃語り から人形浄瑠璃 へ
→村芝居が盛んであり、その芝居は江戸時代末期の浄瑠璃語りがはじまりである。浄瑠璃語りではじまった芸能への熱気は、歌舞伎芝居 へと広がっていったと伝えられている。

(1)浄瑠璃が浸透した背景
≪松川伊作の存在≫
・乙田村で1831年(天保2)頃誕生したといわれ、1906年(大正39)に没した。
・幕末から明治時代にかけて、村落組織の中枢であるとともに、高い教養の発信者であった。
・上方芸能である浄瑠璃語りに親しみ、その趣味芸を高めていった。
→歌舞伎芝居や人形浄瑠璃への熱気を湧き起こした。
・松川家に集う村人の中から、経済的な支援者である松川伊作の勧誘によって、本格的に練習するようになっていったと推測されている。
・現存している資料の中で年号が記入されているものの内、最古の浄瑠璃本は1835年(天保5)の『宿無團七(やどなしだんしち)時雨(しぐれの)傘(からかさ) 』版本
 →江戸時代の浄瑠璃本はすべて版本 だが、明治年間には多数の版本とともに、筆写本や舞台にて使用する床本 が残されている。
→浄瑠璃語りが公演として演じられるようになったことを示す。

☆明治時代に、歌舞伎芝居や人形浄瑠璃へと沸き立つような高まりを見せ、演じる人も観覧する人も一様に楽しむ娯楽の年中行事として、村落生活に定着していった。

(2)演芸組織の変遷
≪1≫松榮座(まつえざ) (1888年(推定。明治21)~1935年(昭和10))
・素人芝居 はプロの芸を仕込まれて磨かれていき、「松榮座」を名乗る集団に成長
 →松川伊作は中村駒之助 を歌舞伎の師匠として雇ったといわれている。
 →しかし乙田村の村人に歌舞伎を伝授した人物であるかは定かではない。
・村内で春秋2回(年間)ほどの「シバイ(歌舞伎芝居)」が行われ、村総代 の指示により村人総出で舞台づくり。
 →大道具・小道具は、家々にある品を持ち寄り。
・その他の衣装や足りない小道具類は店から貸してもらうことが多かった。
・義太夫 は村人がつとめた。

・さらに松榮座は1897年(明治30)になって、歌舞伎芝居のように費用が掛からず、簡単にできる「ニンギョシバイ(人形浄瑠璃)」を演じるようになる。
→舞台は家々の座敷で組まれ、シバイより手軽に舞台づくりが行われた。
・ニンギョシバイは私的な依頼を受けて公演されることになっていたようである。
・演目は歌舞伎芝居と大きな差異はなく、浄瑠璃本を義太夫語りの床本にすると同時に、芝居の台本として活用していた。
・明治のころから他地域との交流が開始されていたようで、大正期には依頼を受け他村でも公演を行うようになったようである。
→松榮座の他村での公演は歌舞伎芝居がほとんどだったが、記念行事や慶祝行事のために幾度も依頼を受けて公演をしていたようである。
・1927年(昭和2)の青年たちはニンギョシバイも身につけ、浄瑠璃語りを習得。
→芸能の担い手が青年たちへと移る。

⇒1931年(昭和6)に満州事変が起こり、戦争へと向かっていく情勢の中、
ニンギョシバイ…1931年(昭和6)の稽古上げ公演で途絶えた。
シバイ…1935年(昭和10)頃、南田原村に招かれて小学校の改築祝いに行った公演が最終。

≪2≫壮年団(1941年(昭和16)~1943年(昭和18))
・松榮座の人々の芸能への情熱を継ぎ、太平洋戦争中に結成され、出征軍人慰問演芸会が行われた。
・安来(やすぎ)節(ぶし) や浪曲劇(ろうきょくげき) を主に行っていた。
・松榮座の経験者が脚本を書いたり、演出を受け持ったりしていた。
→これは戦時中の楽しい娯楽の一時となり、女性が芝居に参加するきっかけにもなった。

⇒太平洋戦争激化により活動休止。

≪3≫共栄演劇倶楽部(1947年(昭和22)~1954年(昭和29))
・終戦後、村芝居の復興が実現し、芸能への情熱によりかつての松榮座の経験者を役員にして創設。芸能を熟知した先輩たちから演技の伝達が行われた。
・昭和22年、「共に栄えていこう」という趣旨の元、青年・女性・子どもを含む大勢の人々によって公演が実施されるようになった。
→休む間のない農作業に従事しながら、村人たちは芝居の精進に励んでいた。
ここにも乙田村の人々の演芸にかける情熱をはかり知ることができる。
・浪曲劇・現代劇・時代劇など、幅広く演じられた。

⇒世間に映画やテレビが広まり、娯楽が増加。
⇒村芝居への関心が薄くなっていき、それにつれて村芝居の回数が減ったため1954年(昭和29) ころ、公演は終了。

≪4≫青年団による演芸会(1970年(昭和45)~1988年(昭和63))
・敬老会の余興として芝居の発案があり、共栄演劇倶楽部の経験者たちが脚本と演出を手がけた。
・婦人会の人々による演劇が行われ、青年も次第に参加するようになり、やがて演劇の中心的存在として期待されるようになった。
→青年団による演芸会が出発。
・時代劇・音楽ショーなどが行われ、お年寄りや町内の人々をも賑わせ楽しい娯楽になっていき、公民館での演芸会は続けられた。
→二度のオイルショックや1987年からバブル経済になり、外での娯楽や都市への人口流入により、終息。
⇒これ以降、現在に至るまで芸能が復活することはない。

・以上のように時代の変化の流れに添うように、幾度も変化しながら受け継がれていった芸能は、約160年間におよんだ。
☆途切れ途切れではありながらも様々な娯楽が生まれ、変化していく社会の中、受け継がれていった根底にあったのは、人々の芸能に対する情熱であるといえる。

(3)乙田村での芸能における特色
①これらが村人による村人のための、大いに娯楽の面を持つ村落行事として定着していた  点
②芸能の形態をかえながらも演技の伝承を続けた点
③松榮座は歌舞伎芝居と人形芝居の二通りの伝統芸能公演していた点
・村内の一豪商の趣味芸であった浄瑠璃語りが、明治になって多くの村人が二つの伝統芸能を体得するまでに発展。
・歌舞伎芝居が行われ、次いで人形芝居がはじまったとされる両方の芝居は、仮の小屋を作っての大舞台と、家々の座敷にしつらえられたニンギョシバイの舞台とに使い分けられていた。

5.終わりに
 現在、上記の活動で使用されていた人形や版本などを残していこうという動きがおこっている。地域でも、各家に残されていた資料を集め、時代に受け継いでいこうという動きもある。今回調べることにより、生駒市に短い期間ではあるが受け継がれていた芸能が存在し、資料を集め残していこうという動きがあることが分かった。自らが育った土地の文化を残していくという活動が、身近で存在することを知った。この旧乙田村で芸能が根付いた背景などが興味深く、活動がきちんと受け継がれ、途絶えないことを祈るばかりである。

6.参考文献
・生駒市誌編纂委員会『生駒市誌 資料編Ⅲ』1977年 
・生駒市誌編纂委員会『生駒市誌 資料編Ⅳ』1980年
・『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店 1990年
・萩の台文化財保存会『乙田の演芸史』1992年
・『生駒市史文化祭調査報告書第15集 有形民俗文化財 乙田浄瑠璃・芝居資料調査報告書』2003年
・神田由築『日本史リブレット 91 江戸の浄瑠璃文化』山川出版社2009年

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