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2015/08/03

木曜1限概論発表

2回生のboscoです。今回の概論は飛鳥時代前期の仏像についてです。

はじめに
 仏像を見ることが好きなので、仏像を美術史的な視点から学び見直したい。日本への仏教伝来から飛鳥時代前期までの仏像史の流れを概観しつつ、蘇我氏の全盛期に流行した止利様式についても考察したい。

飛鳥時代前期までの仏像史
  ○金銅仏の渡来
金銅仏とは、銅または青銅で鋳造して表面に鍍金(金めっき)をほどこした仏像のことで、インド・中国・朝鮮を通じて仏像製作の主流となり、小型のものは長距離の運搬がしやすく、仏像の様式伝播に大きく貢献した。こうした仏像は仏教公伝以前より、朝鮮半島から日本に舶載されてた。古い例では長崎対馬に中国北魏の興安二年(453)銘の金銅仏が存在したとされ、現存するものでは宮城・船形山神社菩薩立像、新潟・関山神社菩薩立像、長野・観松院菩薩半跏像〈図1〉が挙げられる。これらは、中国南北朝時代の南朝や朝鮮半島百済の様式を示すものが多く、百済からの請来が想定されている。

○仏教公伝と最初の仏像
   仏教自体は、渡来系氏族を初めとして、仏教公伝とは別に、各氏族により信仰されたと考えられているが、『日本書紀』では552年、元興寺の縁起類では538年に、百済の聖明王から仏像・幡(ばん)蓋(がい) ・経論が欽明天皇に献上された。いずれも内容には後世の作為があるが、欽明天皇の時代に仏教が公伝したことは事実である。『日本書紀』によれば、百済から伝えられた仏像は「釈迦仏金銅一躯」であった。天皇はこれを見て「仏の相貌(かお)端厳(きらきら)し」と評している。このことは日本人にとって仏像は最初から信仰の対象であると同時に美的感覚の対象であったことを示している。また仏教公伝の記事の中で注目すべきところは、百済から送られてきたもののなかに僧侶がいない点である。この事から当時仏教は国家間の贈り物であり、民間布教のことは想定されていなかったことがわかる。
   
 ○百済の内部事情
  聖明王の時代、百済は中国南朝の梁と外交関係を結び、仏教を受容、百済仏教の全盛期であった。しかし、『元興寺の縁起類』で仏教が公伝したとされる538年に、百済は北の高句麗の南下政策に屈して、首都を熊津から第三の都・扶余に遷し、また、『日本書紀』での仏教公伝の年である552年には、前年に高句麗から奪取した旧都漢城(ソウル)を、新羅に奪われ、新羅との関係が悪化した。このように、この時期の百済は、新羅の台頭と、高句麗の侵略により、最も倭国の援助を必要としていた時期でもあった。仏教伝来は、聖明王にとって、倭国から軍事的支援を受けようとする意図があった。しかし倭国では、欽明天皇が、仏教を受容するかどうかを決めかねていた。百済と倭国は対等な関係であり、仏教を「下賜」されたわけではないので、仏教を受容するかしないかは自由であった。一方中央豪族たちは、かねてから朝鮮半島に出向いており、各豪族の仏教に対する態度は仏教が公伝する以前から決まっていた。そこで欽明天皇は贈られた仏像を崇仏派の蘇我稲目に与え、自らは態度を保留することにした。これには、当時天皇が、祭祀を必要とする神があると、適任者を定めて、祭祀を委託するということを行っていた流れも関係していると言われてる。

○飛鳥寺の造像と止利仏師
  仏教の公的受容をめぐる抗争の末、用明二年(587)に崇仏派蘇我馬子(?~626)が廃仏派の物部守屋を破り、翌年には日本最古の本格的寺院である飛鳥寺の造営を始めた。この時点ではまだ天皇家は仏教を正式に受容しておらず、仏教興隆の主導権は蘇我氏が握っていました。飛鳥寺の造営に際しては、百済から仏舎利・僧とともに堂塔の建設に携わる技術者が蘇我馬子に対して遣わされた。伽藍は、塔と三つの金堂を回廊が囲む、朝鮮半島の伽藍形式をそのまま持ち込んだと考えられてる。また、塔心中から出土した埋葬品には古墳に埋葬される玉・鈴などもふくまれ、古墳時代以来の日本の伝統とのかかわりも指摘される。具体的には、古墳時代後期に、朝廷が豪族たちの古墳に「柱」を立てさせる儀式があり、それが寺院にある塔と同一視されたと考えられている。当時塔は仏像以上に礼拝の対象とされてた。飛鳥寺本尊〈図2〉は推古十三年(605)に造り始め、十七年に完成し、その作者として記録されているのは「鞍作鳥」である。彼は、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者である「止利仏師」と同一人物とされている。彼は中国から渡来した鞍作部に属する家柄で、祖父の司馬達(たち)等(と)は『扶桑略記』によると、522年に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原にお堂を造り、本尊を安置し礼拝したといい、仏教公伝以前から仏教に帰依していた人物であった。しかし、止利仏師がどのような人物であったのかはよくわかっておらず、現在では、平安・鎌倉期の仏師のような仏像彫刻作家ではなく、工事監督のような存在としてとらえる立場もある。飛鳥寺本尊は、安居院釈迦如来坐像(飛鳥大仏)として現存しているが、鎌倉時代に焼失しているため、当初の部分は顔の上半、右手指三本に確認されるのみとなっている。

○止利派の金銅仏
奈良県の法隆寺とその周辺には、形・作風や蝋型鋳造の技法がよく似た金銅仏の遺品がある。これらには、韓半島や、中国南北朝時代の影響が見られ、具体的にはすその広がり、衣の形式、アルカイク・スマイルなどにその特徴があらわれてる。これらは同一工房の製作とされ、止利あるいはその周辺の作者による仏像とみられ、止利様式と呼ばれている。その中に、明治初年に法隆寺から皇室に献納され、いま東京国立博物館に所蔵される法隆寺献納宝物中には四十八体仏と通称される四十九件五十七躯の小金銅仏がある。これらは法隆寺周辺に伝来した金銅仏群の一部で、N一四五号如来坐像〈図3〉、N一五五号如来立像〈図4〉、法隆寺所蔵の菩薩立像〈5〉は、いずれも止利派に属する作例である。
 
○法隆寺金堂釈迦三尊像〈図6〉
   止利派が造像したこの仏像は法隆寺西院伽藍の中心、金堂の中央に安置されている一光三尊形式 の金銅仏である。造像銘記 には、辛巳(かのとみ)の年(611)、 聖徳太子の母である間人(はしうど)皇后が亡くなり、翌年上宮法皇(聖徳太子)とその后 が病に伏したときに王后・王子と諸臣が釈迦像の造像を発願(ほつがん)し、病気の平癒(へいゆ)と死後の往登浄土を祈ったが、后と太子は相次いで亡くなり、翌年三尊像と荘厳が完成したこと、作者は司馬鞍作首止利仏師であったことなどが記されている。釈迦像については、聖徳太子と同じ背丈になるように製作された。これには、太子が法皇から仏へと昇格し、釈迦と一体化した太子を表現する意図があった。この像は、正面からみると中国式の通肩である褒衣博帯式と呼ばれる、左肩にかかった衣が背面から右肩にかかって正面にまわり端を左腕にかける着衣形式であらわされ、さらにその衣の裾が台座をおおう裳懸座の形式をとっている。この形式は直接的には朝鮮百済の仏像に学んだものであるが、龍門石窟賓陽中洞本尊〈図7〉のような中国北魏時代後期の仏像に源流をたどることができる。像の正面からみた姿を重視する、正面観照性と左右相称性を厳格に守った全体の構成、面長の顔に配された杏仁形の眼や両端を上げたアルカイック・スマイルの微笑、肉体の起伏を意識させず幾何学的に整理された衣文線を配する着衣表現も、これらに共通するものである。また脇侍像の蓮華座の意匠(図3の赤く囲ってある部分)は、「法華経」で説かれる女人往生をあらわし、后を供養する意図が表されている。

○飛鳥時代前期の木彫
 「日本書紀」には、仏教公伝の年である552年に、河内国の海中からえた樟で画工が仏像を造った記事があり、仏像製作の初期から木彫も行われたと想像される。中国・朝鮮のこの時期の木彫像はあまり知られないが、京都・広隆寺弥勒菩薩半跏像〈図8〉などから、木彫技術は大陸から学んだものと考えられる。これらの仏像の用材には、ビャクダンやアカマツが用いられている。しかし日本で作られた飛鳥時代の木彫は、すべてクスノキを用材としている。建築用材にはヒノキが用いられているので、はっきりと仏像との使い分けがなされている。これには経典で規定されているビャクダンの代用として選ばれた説や、日本古来の神観念と関連する思想的背景があるとする説、ビャクダンの代用材として、クスノキの選択がすでに中国南朝により行われ、日本の木彫はそれにならったという説もある。今回は詳しく取り上げないが、法隆寺救世観音〈図9〉は、止利派が造像した木彫である。

○止利派の終焉
法隆寺献納宝物中の辛亥(651)年銘のある観音菩薩立像(N165号)〈図10〉は、止利派の菩薩像と同様の左右相称の構成を取っているが、細身のプロポーションで、顔からはアルカイック・スマイルが消え、止利派の仏像が持っていた厳格さや神秘性が薄れて、これまでの仏像とはやや印象が異なる。大阪・観心寺菩薩立像〈図11〉は自然な抑揚とのびやかさを持つ長身や、胸飾り・瓔珞 のにぎやかな意匠などに止利派との印象の違いが顕著である。645年の大化の改新による蘇我氏の本流の滅亡とともに、仏教は各地に急速に流通していったが、その過程で仏像にも新たな大陸影響が及び始める。遣隋使による隋との直接交流により、装飾の豊かな隋様式が顕著となり、それに次ぐ初唐様式の導入で、写実性のある表現や明るい表情の仏像が作られるようになった。結果、止利派の仏像の流行が終焉を迎えることとなる。

○小金銅仏の銘文について
 日本、韓国の小金銅仏には、銘文が書かれているものは少ないが、中国の小金銅には銘文があるものが多い。場所は、台座か光背が多く、そこには仏像が発願された年月日、発願者の出身地、供養する人間の名前などが記されている。

止利様式の源流
 最後にこれまで見てきた止利様式というものがどこからきたのか、ということについて考察していきたい。この疑問については研究者の間で盛んに議論されているが、大きく分けて北朝起源論と南朝起源論の二つに分けられる。北朝起源論の主張は、日本で最初に建立された飛鳥寺の伽藍配置が、高句麗領域の平壌で発掘され復元された東明王陵寺・定陵寺、清岩里廃寺(金剛寺)跡と同じであることと、飛鳥寺の大仏に北魏様式の影響が見られることを論拠としている。一方南朝起源論は、止利の祖父にあたる司馬達等が南朝系の人物であったため、北朝の様式を採用する可能性は低いこと、仏教を伝えた百済が北魏と472年以降国交を断っていたこと、北魏様式がそもそも南朝の斉様式や梁様式の模倣であったことを根拠としている。しかし、どちらの主張にも決定的な証拠はなく、また南朝の仏像の現存例が少ないため、いまだに結論は出ていない。図12、13、14の仏像は、止利様式に近いものであるが、いずれも中国北朝で作られたものである。

まとめ
 仏教の受容に際して、欽明天皇は消極的で、仏教興隆の主導権は蘇我氏が握った。仏像の様式では、蘇我氏をパトロンとする止利様式が大いに流行し、蘇我氏の外来文化受容の象徴となった。しかし蘇我氏滅亡後、止利様式は衰退して新しい様式が徐々に浸透した。
 
参考文献
  門田誠一 (2013)「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」『鷹陵史学』 39, 1-19
仏教大学
小林幹男 (2000)「蘇我氏と外来文化に関する研究」『長野女子短期大学研究紀要』8,57-76 長野女子短期大学出版会
  田村圓澄 (1986)『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫 講談社 
  中野聰 (2010)「法隆寺金堂釈迦三尊像の所依経典と美術表象」『龍谷大学仏教文化研究所所報』34, 1-11 龍谷大学 
  水野敬三郎[ほか] (2001)『日本仏像史 : カラー版』 美術出版社
三橋正 (2007)「仏教受容と神祇信仰の形成-神仏習合の源流-」『宗教研究』81(2),
         333-358 日本宗教学会
村田靖子 (2004) 小金銅仏の魅力-中国・韓半島・日本- 里文出版
山本勉 (2013)  『仏像 : 日本仏像史講義』(別冊太陽) 平凡社
吉村怜 (1992) 「日本早期仏教像における梁・百済様式の影響」『仏教芸術』(67),29-50 毎日新聞社

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