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2015/08/03

木曜1限概論発表

朱夏です。今季は、もう一つの概論で、タイの近代化についての発表を行いました。

はじめに
本概論は19世紀末から20世紀初頭、西欧列強が帝国主義を取り、海外へ資源を求めてその支配領域を広げていった時代のシャム(タイ)に焦点を当てる。日本でもほぼ同時期に近代化がなされていたが、そんな時代においてタイ王国は、東南アジアにありながら、西欧による植民地化、保護国化がされなかった唯一の国である。
それには、二つの理由が一般的にあげられる。第一に、タイはフランスが植民地にしていたヴェトナム(フランス領インドシナ連邦)とイギリスの植民地、ビルマとの間に位置し、両国の緩衝地帯として植民地にしないように取り決めがされていた。第二に、ラーマ4世(モンクット王)やラーマ5世(チュラロンコーン王)により近代化がなされたほか、その巧みな外交 で列強による植民地化を逃れたからである。本概論でそのようなタイの特異性に着目し、「シャムの近代化が本格化した時代 」と言われるチュラロンコーン王の時代を中心に概観していく。
また、「タイ」という国名が正式名称として採用されたのは1939年以降だが、本発表では引用等を除きすべてタイと記述する。

マンダラ型国家とムアン
 まず、本論を理解するために必要な知識や時代背景の説明をさせていただく。東南アジアに出現した国の多くは支配者の権力が中央から周縁に向かうほど小さくなるような形式の国、「マンダラ型国家 」であった。以下の説明は柿崎(2007)p41による。マンダラとは、仏教の世界観を図示したもので、様々な仏や菩薩が同心円上に配置された図である。そのマンダラに譬えられる当時の国家は、国王の権力が王都で最大となり、周縁に向かうほど弱くなりやがて消滅してしまう。このため、このような国では明確な領域が判別できない。言い換えると権力の届く範囲、すなわち国境が明確に定められないという特徴を持つ。(中略)すなわち、国王の権力が強化されることは、それだけ多くの小マンダラを配下に従えることを意味し、権力構造が重層的に上から下へと連なっていくのである。
 次に、ムアンとは何か。タイ族は古くから稲作を営み、川沿いの盆地を住みかとしていた。そこでは水田に水を運ぶための灌漑設備が作られ、それを維持するための共同体が形成されていった。このような稲作を基盤とする共同体、「むら(หมู่บ้าน:ムーバーン)」が形成されてくると、その中で政治権力を獲得する「むら」の長が出現し、周辺の「むら」を従えて、「くに」を形成するにいたる。このような農業にその基盤を置いた政治権力の「くに」がタイ族のムアン(:เมือง)である。
 現在のタイ語で、ムアンは都市、町、国という意味を持っている。柿崎一郎によれば、このムアンという言葉の持つ二重性は、ムアンの特徴を端的に表しているという。タイ族の「くに」、即ち最小の政治権力単位であるムアンは、一方でその領主の居住する中心地、すなわち人が集住する町を意味し、他方でその領主の支配権が及ぶ範囲、すなわち配下の「むら」を含んだより広い領域を意味するのである。
 多くのムアンを併合した強大なムアンが最終的に王国と呼ばれるまでの強大な政治権力と領域を備え、それを継承してきたものが現在のラオスやタイといった国々である。そのため、現在でもタイ人は自らの国をムアン・タイ(เมืองไทย)と呼ぶ。
 
タイを取り巻くアジア情勢
 イギリスは、マレー半島においてペナン(1786年)、マラッカ(1795年)およびシンガポール(1819年)を領有して、海峡植民地を構成した。ビルマとの間では3回にわたる戦争を経て1886年ビルマ全土をイギリスの植民地とした。フランスは、1862年の第一次サイゴン条約でメコン・デルタを奪いフランス領コーチシナを成立させて以来、ベトナム全土を植民地にした。 そして、タイも西洋帝国主義の脅威にさらされていた。独立こそ維持したが、属国だったクメール(カンボジア)もフランスがタイの権限を認めず、1867年、タイはクメールをフランスに移譲する条約を受け入れざるを得なかった。これによりフランスは、1887年にはカンボジア保護国を加えたフランス領インドシナ連邦を成立させた。
 また、その後、ラーマ5世の治世になっても領土の割譲は続いた。シップソーンチュタイ(1888)、メコン川東岸(1893)、メコン川西岸(1903)、ブーラパー州である内クメール(バッタンバン、シェムレアップ、シーソーポン)を1906年にフランスに奪われた。イギリスには1908年にマレー半島のムアン(サイブリー、クランタン、トレンガヌ、ペルリス、及び近隣の島々)を委譲した。

本論
ラーマ5世の即位
1868年、ラーマ5世が即位した当時、彼は15歳だった。そのため、ブンナーク家のソムデット・チャオプラヤー・ボロム・マハー・シースリヤウォンが摂政につき、73年に王が成人するまで政治を動かした。そのため、ラーマ5世が権力の座に就き、改革を推進するまでには時間がかかった。
チュラロンコーン王と西欧
 彼の西欧との出会いは、幼少時代に宮殿において受けた外国人顧問からだった。そして、即位後、71年3月にジャワ、シンガポールを、同年12月から翌72年3月にインド、ビルマをそれぞれ視察した。これらを通してチュラロンコーン王は西欧列強のアジア進出、特にイギリスおよびオランダの植民地経営をその目で見た(見聞した)。また、1897年および1907年の2回にわたり、ヨーロッパを外遊し、国内制度の西欧化をはかった。
チャクリー改革
チュラロンコーン王は、1873年に成人し、二度目の即位式で権力を獲得する。財政の確立のために、徴税請負人制度に替えて国家歳入室を設置し、徴税請負人に流れていた富を国家に向けようとした。また、これまでの同一の職司(プラクトン)であった財政と外務を二省に分離し(1873年)、予算制度を導入し(74年)、国政参議会(官僚貴族の諮問会議)を創設(74年)した。
しかし、このような国王への権力集中を図り行われた急進的な改革には地方に既得権益があった摂政や有力貴族たちの反感を買った。そうした国内での権力争いや対立は、外国の内政干渉の招く危険性があったため、チュラロンコーン王は改革を急ぐのではなく、時期を見計らうことにした。王は抵抗勢力の引退を待つことになり、改革は70年代に一度停止する。しかし、摂政や副王などが次々と死去した80年代に、改革路線を推し進める環境が整い、再開される。
チャクリー改革とは、財政、教育、司法、中央・地方行政など多方面にわたる一連の統治制度改革である 。財政面での改革は先述した70年代に実施されたもののことを指す。ラーマ5世は1880年代から行政面での改革に従事した。近代的な内閣制度(12省制)に移行させ(92年)、裁判所を地方と中央に設置し(1908年)、均質的な国民の創設のために奴隷制度を廃止し(05年)、官吏養成学校(71年)やバンコクに公立の初等教育学校(84年)を作り、徴兵制(05年)を敷き、サンガ法(02年)により、サンガ(僧侶組織)を国王の管理下に移した。また、1893年以降では、鉄道や電信網が全国に広がっていった。
1897年施行の地方行政法は地方統治制度を中央集権型に再編するのに大きく貢献した。これは、内務省がバンコクをのぞく全土を管理し、全土にはこれまでのムアンにかわって州(モントン)を設置し、原則的には中央から派遣された州知事(カー・ルアン・テーサーピバーン)を置くものである。このように地方のムアンを県や郡に再編して、州に管轄させたことで、世襲的にムアンを統治してきた領主の大半はその政治権力を喪失することになった。タイは、マンダラ型国家の名残を残し、非常に地方分権的な特徴を持っていたが、この地方行政法によりバンコクを中心とする中央集権的な制度へと抜本的に変えられ、中央から派遣された官吏を頂点とする地方統治機関に改編された。
1899年にはすべての人民の管理が居住地行政機関に移管された。この結果、原則的にはすべての地域、すべての人民が国王の下に直接的に統治されることになった。これをテーサーピバーン体制と呼ぶ。
1892年、ラーマ5世は中央集権型の統治形態を取り入れるために重複した機能を持ち、独立していた省庁を再編成した。中央政府には、当時、南部のムアンを統括するカラーホーム省、北部のムアンを統括するマハータイ、大蔵、首都、宮内、農務の6省があったが、それを機能別にマハータイ省、首都省、文部省、外務省、建設省、大蔵省、農商務省、御璽省(ぎょじしょう)、宮内省、法務省、カラーホーム省、戦略局の12省に再編した 。マハータイ省は1894年には地方行政機能を一元的に担当するようになって内務省の実体を備えるようになり、同時にカラーホーム省は海軍を管轄する国防省となった。
各省庁には国王直属の大臣を置いた。省大臣と国王官房長官あわせて13名のうち、実に10名が王族であり、内務大臣のダムロン親王をはじめとする自らの弟だった。こうして、国王による専制政治が王族を基盤にして完成していく。このようにラーマ5世の治世に大臣に占める王族の割合が増えた。それが可能であった理由とその王族の多くが先代のモンクット王、ラーマ4世の息子や孫、つまりモンクットファミリーであることについて、玉田は①有能であったから、②ファミリーの一員であったから、③ファミリー構成員数がとても多く、その中で比較的有能なもののみが登用されたからという3つの理由を挙げている。
こうして、省庁再編とテーサーピバーン制により、官僚制に基づく中央集権的な行政制度を作りあげていった。川口洋史によれば、これは3世時代の傾向を近代的な統治技術によって加速させたものと理解することもできる。3世時代は、有力家系の出身者よりも実務によって功績を挙げて大臣になった官僚を重用し、彼らに大幅な裁量権を与え、王が能動的に政治を主導しなくても国政は自動的に運営されていた。そのため、王権は5世王時代以降に比べて弱かった。
チャクリー改革について桜井由躬雄は

チャクリ改革は、他の諸地域では植民地主義によってなされたが、シャムの国家組織を西欧の国家組織の標準にあわせるものであるが、同時に国家を構成するすべての要素の頂点に国王を置いたものである。前近代的なシャムの王権は、チャクリ改革を通じて近代的な装置の上に位置する国王絶対主義に移行している(桜井由躬雄 著『東南アジアの歴史』放送大学教育振興会 2002年p210より引用)

と述べ、その改革における国王権力の強化の重要性を強調している。また、玉田芳史も彼の「チャクリー改革と王権強化 : 閣僚の変遷を手がかりとして」の中で同様の見解をしている。こうして、ラーマ5世の近代化政策の下で政府機構は大きく変わった。
中央集権の確立には、一方で有能な官僚の養成や確保も不可欠だった。近代化以前のタイでは江戸時代の日本の寺子屋と同様の仏教の僧侶による教育制度が大きな役割を果たしていた。1871年、チュラロンコーンは王族と貴族の男子子弟に近代的な教育を受けさせるため王宮内に学校を設立し、1887 年には政府の中に教育部ができた。その後、1892年教育部は教育省に昇格し、1898年には就学前教育、初等教育、中等教育、技術教育、高等教育の各段階から成る学制が定められた。
また、役人の登用制度は残っていたが、1910年にチュラロンコーンはこの制度に基づいて王室侍従学校を創立した。この学校は西欧の内閣制度を運営するための政治運営の知識を訓練する学校であった。王族および貴族の子弟たちたちはここで英語の教科書によって西欧の政治知識を身に着けた。彼らの中の成績優秀なものは国費をもって西欧へ留学し、帰国後政治の指導者の地位についた。チュラロンコーンが創立した王立侍従学校は、のちに文官養成学校となりラーマ6世により1917年に現在も続くタイ最初の大学、チュラロンコーン大学へとその名を改めた。
国王がすべての軍事力を握り、王子たちがその実際の軍隊の指導者となり、配下の貴族たちを率いる。この伝統的な体制は19世紀後半のチュラロンコーン王の改革によって変化した。当時数人の王子たちはヨーロッパへ留学し、新しい近代的な軍事知識を身につけ、帰国後は軍隊の指導者となった。また、貴族の侍従たちは王宮兵学校で西欧軍事教育を受けた。そのほか、社会面でも変革を行った。官僚や地方領主が直接平民や奴隷を支配していた ため、そこから平民たちの支配権を国家に戻す必要があった。そこで平民への賦役に代わる人頭税の導入や奴隷制度の漸進的廃止もなされた。

おわりに
 チュラロンコーン王は、西洋帝国主義の圧力や進出に屈さず、国を近代化、すなわち西欧化することで独立を維持した。ムアンが多く存在し、地方分権国家だったタイはこの改革を通して、中央政府の再編、司法制度、財政制度といった、いわゆる西欧的な近代化を遂げると同時に、王権を強化することになる。19世紀後半、西洋では革命を経験した国家が立憲君主政や共和政に変わって行く中での絶対的な王権の強化は一部を除きあまり例がない。事実、この改革は、20世紀においてその後のタイに大きな影響を及ぼすことになる。
 タイで最も尊敬されている王様、チュラロンコーン王について、また彼が行った一大事業について理解を深め、自分の知識とすることができた。そこで、この結果を踏まえ、次はこの改革以後のタイについて調べたい。

参考文献
1. 市川健二郎 『タイの近代化と権力構造』アジア経済研究所1966年
2. 加藤和英 『タイ現代政治史――国王を元首とする民主主義』弘文堂1995年
3. 桜井由躬雄 『東南アジアの歴史』放送大学教育振興会 2002年
4. チャーン=ウィット他(柿崎千代 訳)『タイの歴史――タイ高校会科教科書』明石書店 2002年
5. 小泉順子 『歴史叙述とナショナリズム――タイ近代史批判序説』東京大学出版会 2006年
6. 柿崎一郎 『物語 タイの歴史 微笑みの国の真実』中央公論社 2007年
川口洋史 『文書史料が語る近世末期タイ ラタナコーシン朝前期の行政文書と政治』 風響社 2013年
7. 「タイの近代化と歴史研究」『東南アジア史学会会報』市川健二郎1970年 12号
8. 「チャクリー改革と王権強化 : 閣僚の変遷を手がかりとして」『重点領域研究総合的地域研究成果報告書シリーズ : 総合的地域研究の手法確立 : 世界と地域の共存のパラダイムを求めて』玉田芳史 1996年11号 p34-11 
画像引用元
図1:
The Survival of Siam http://www.chiangmai-chiangrai.com/survival_of_siam.html  15/02/17閲覧
図2:
ค้นด้วยภาพ http://scoop.mthai.com/specialdays/2603.html  15/02/18閲覧





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