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2015/07/31

月曜4限概論発表

はじめまして、1回生のオートリです。
今回は「ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ」というタイトルで、ムッソリーニについて発表しました。
彼の考え方の形成を少しだけですが学べたのかなと思います。

◇:はじめに
近代ヨーロッパを知るうえで避けて通れない道は独裁者のいた時代である。その中でもよく取り上げられる
者は残虐性の目立つヒトラーやスターリンといった人物だ。そこであまり大きく取り上げられないムッソリーニに興味を持ち、世界史の教科書では記述されない彼の若いころに注目していきたいと思う。さらには法学部に在籍するものとして彼の権力確立の政策にも焦点を当てていきたい。

◇:若年期
○誕生
鍛冶屋の父と小学校教師の母との間に生まれる。名前の由来は革命家ベニート・フアレス、社会主義者のアミルカレ・チプリアニ、アンドレア・コスタからとったものである。

○小中学校時代
ムッソリーニは抜群に優秀であった。しかしそれゆえか生意気な面もあり、中学は退学となり王立師範学校に入学、首席で卒業後、教免を獲得した。

○スイス入り
イタリアでは教職免許をとるも採用されず、職探しに奔走。スイスに入り、石工として働きつつ、石工組合の新聞記事などを書いていた。

○帰国
ムッソリーニはイタリアで徴兵忌避罪となっていたが恩赦が行われ、スイスから帰国した。帰国早々、教員である母が倒れ代わりに教壇に立つ。その翌年徴兵され、兵役を終えてからはいくつか教職につくも、警察から「不穏分子」としてマークされ、学校側から嫌われて職を失った。



◇:ムッソリーニの見たイタリア
○出遅れていた植民地獲得

○イタリア資本主義の開花と格差
北部には自動車工場や事務機器工場が造られるなど発展するが、南部は取り残されていた。
→現在まで続く南北格差へ

○労働者ファッショ
農民が徒党を組んで地主や豪商を襲うものであった。「ファッショ」は単数ではFascio(ファッショ)だが、複数はFasci(ファッシ)である。この「ファッショ」が後年、ムッソリーニの運動や党標識として使われることとなる。

○未回収地回復運動
イタリアはプロイセンと手を結び、オーストリアへ攻め込んだ際、イタリア人が多く住む地域を回収できないまま戦争を終えてしまった。


◇:ファシズム体制確立過程
・1925年12月24日 首相は国王だけに直属し、執行権の全権を与えられる。立法権は首相に従属する。

・ 同日 政府の施策を認めず、また履行しない公務員を解雇する権限を政府は持つ。

・ 同年12月31日 ジャーナリスト協会設立。会員はファシスト党員ないしはその系列にあるもの。

・ 1926年1月31日 政府の立法権拡大。首相の発した政令はそのまま法律となる。

・ 同年2月4日ならびに4月6日 地方自治体の首長の公選制を廃止し、勅令による任命制の自治体首長を置く。

・ 同年4月3日 ファシスト系の工業総連盟、全国協調組合総同盟のそれぞれの代表が合意して、労働の場提供者と労働力提供者の双方が合法的組織として協調を誓約。ストライキを否定し、協調組合以外の労働組合は非合法化する。

・ 同年11月9日 治安維持のため反ファシスト取り締まりを強化、市民権の剥奪、財産没収などを含む罰則強化。

・ 同年11月25日 治安維持法を補完する国家防衛法を制定、反ファシストを裁く特別裁判所設置を決めた。特別裁判所判事は首相が任命。

◇:まとめ
ムッソリーニの考え方は周囲の環境に大きく影響されていた。当時のイタリアの急成長しつつもどこかに影を落としていた時代を青年期に見たことは彼の人生を大きく変えたはずだ。彼の過激な考え方は時代が生んでしまったものであると言っても良いだろう。


◇:おわりに
今回はムッソリーニがどのように青年期を過ごしたのかを調べることができ、興味深かった。政治家としてのムッソリーニを詳しく調べることができず残念であった。また権力集中の過程も詳細には調べることができなかった。機会があれば、各国の独裁者たちの権力集中過程を比較してみたい。

<参考文献>
ニコラス・ファレル(柴野均訳)『ムッソリーニ(上)』(白水社、2011年)
木村祐主『ムッソリーニ-ファシズム序説』(清水書院、1996年)

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