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2015/07/29

木曜5限概論発表

3回生のるっくです。
今回は明治時代のニューメディアと広告について発表しました。

1853年のペリー来航以降、開国や明治維新、欧化政策により西洋の文化が日本に入ってくるようになり、日本人の生活は目まぐるしいほど変化した。衣食住だけでなく、娯楽や交通等にも新しいスタイルが採用された。今日の日本において、新しい文化が全国各地に広がる(ブームが起きる)時には、テレビやネット、SNSのようなメディアが必ず関わっているが、明治期においても現代とは違った形のメディアが流行に密接に関わっていると考えられる。今回は、明治時代の文化がどのようなメディアを通して日本で広まっていったのか。また、広告がどのような役割を果たしたのかみていく。
 明治時代の最も大きなメディアは新聞である。新聞の前身は江戸時代の瓦版であるが、これらの製造方法は全くの別物である。瓦版は和紙に片刷りの木版印刷であるのに対し、新聞は本木昌造の活版印刷を用いて洋紙に一枚刷りの手法でつくられた。活版印刷の登場により、日本の活字メディアは発展していく。
 また、明治時代には新たに雑誌という活字メディアもでてくる。多彩で出版部数も多い雑誌は多くの庶民から支持を得たメディアである。その他にも、ポスターやチラシといったメディアも明治時代に発展した。
明治初期の新聞には大新聞、小新聞の二種類あった。掲載内容に大きな違いがある。
●大新聞 
  知識階級向けに政論を中心としたもの。漢文口調で一面のサイズが大きい。政論新聞ともよばれた。
●小新聞
  庶民向けに娯楽記事を中心としたもの。総ルビ口調で挿絵入り。演劇や巷の出来事などが掲載。
 日本で最初の日刊紙は1870年創刊の『横浜毎日新聞』である。これに続き1872年には『東京日日新聞』(毎日新聞)が創刊された。新聞の普及は国民の啓蒙に役立つと考えた明治政府は新聞を保護する政策を取った。しかし、自由民権運動が盛んになると各新聞社は政党機関紙化し、論争が活発に行われるようになったので、政府に批判的な論調をとる新聞社が目立つようになった。1875年に新聞紙条例、讒謗律が制定され、政府による言論統制が行われた。言論統制に伴い大新聞は衰退、小新聞は論説のような記事を掲載するようになったため、大新聞と小新聞の区別はなくなった。
 ジャーナリストによる反発や新聞報道による民衆の暴動事件(日比谷焼打ち事件)に対して政府は1909年に新聞紙条例を改正し、新たに新聞紙法を制定。これにより新聞は政府の検閲対象となった。1918年の米騒動の際に、政府は新聞報道を禁止した。政府による言論統制は終戦まで続いた。
 明治初期の新聞広告の発展に貢献した人物の一人に福沢諭吉が挙げられる。福沢諭吉は1882年に日刊紙『時事新報』を発刊。当初から広告を重視しており『時事新報』にて「商人に告るの文」を掲載し以下のように述べた。
「今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。」
「若し人ありて、新聞の手を借らず、他の引札張札等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならん。」新聞が一般家庭に普及してくると、新聞は社会的信用を持たれるようになり、新聞広告の宣伝効果が上がってきたことで広告合戦が始まった。その広告は、銀行や会社・汽車・電車など、文明開化を象徴するものが多く、次いで書籍や化粧品といった日用品の広告が新聞に掲載された。日本経済が資本主義体制を整えるようになった頃の新聞広告は、ビールやたばこなど庶民に身近なものが増加し、大型化されていった。新聞広告が勢力を持つようになり、広告は売れると認識されると広告取次業務を行う広告代理店が相次いで創業した。                                                    
日本で最初の雑誌は1867(慶應3年)10月に創刊された『西洋雑誌』である。明治時代にはこれまでの木版印刷から活版印刷に移行し、両面印刷の洋装本が登場する。ファッション誌、グルメ誌、演劇誌、文芸誌のような専門誌だけでなく、総合誌も出版された。1885年頃から『女学雑誌』『貴女之友』『女学会』などの女性雑誌が相次いで創刊され、女性誌ブームが起こった。
明治時代を代表する雑誌、博文館の『太陽』は広告の重要性を認識して、国内だけでなく海外にも広告を募集するためアメリカに出張していたほどである。博文館と同じく明治を代表する雑誌社、実業之日本社も1906年創刊の『婦人世界』に雑誌の内容に沿った広告を掲載している。
現在のチラシやビラにあたる「引札」は17世紀後半に登場する。明治初期の引札は福沢諭吉や岸田吟香などが書き手となったものもある。引札が読んでもらう広告であるのに対し、絵ビラは見てもらう広告である。部屋に貼って使う目的もあったので現在のポスターの原型といえる。
三井呉服店(三越)は新橋駅に美人画の看板を掲げたことで有名ある。1908年には大阪駅前に「婦人像」が掲げられた。これに倣い白木屋、松坂屋もポスターをつくるようになった。煙草広告を巡る岩谷松平の「天狗煙草」と村井吉兵衛の「ヒーロー」の広告合戦も有名である。
移動する広告として東西屋(後の通称:チンドン屋)がある。東西屋は1845年に大坂法善寺で飴売りをしていた飴勝が始めたといわれている。1885年に酒問屋の秋田柳吉が上京してこの宣伝を行ったことで、東京でも東西屋が使われるようになった。東西屋は次第に規模を拡大し、西洋楽器を導入した楽器隊による宣伝活動も行われた。
1901年頃、麒麟麦酒が電球を用いて仮名6文字を点滅させるイルミネーション広告を実施したとされている。1903年に大阪で開かれた第5回勧業博覧会には、約6700個の電球を使ったイルミネーションが登場した。会場では森永、亀屋などがイルミネーション広告を用いて自社広告を行った。

それでは、ニューメディアは明治時代の生活とどのように関わっていたのだろうか。歌舞伎を例に挙げてみる。『歌舞伎新報』『歌舞伎』『演芸画報』などの新聞や雑誌には行われた歌舞伎公演に対する意見が載っていた。劇評が庶民の人気を集めるようになると各誌で劇評論争が起こった。また、明治時代には今までの歌舞伎文化にはなかった「型の記録」という動きがでてくる。活字メディアの発達したことで、より広い範囲で歌舞伎を他者と共有できるようになった。明治期の歌舞伎は江戸期の歌舞伎を受け継ぎながら、新しい一面も持ち合わせていて時代の流れに取り残されないように少しずつ変化していた。
 明治時代になり新しいメディアが海外からもたらされたのではなく、江戸時代から存在するメディアが西洋文化の影響や技術の発達により、発展して新しい性質を持つメディアに変化した。江戸時代と明治時代のメディアで大きく違う点は、これらの媒体(特に新聞と雑誌)が広告の役割を果たしているかいないかである。新しい技術や流行ものを用いた宣伝方法は現代でもみられるものなので、現在の広告の概念は明治時代には既にあったといえるだろう。明治時代のメディアが庶民の生活にどのような影響を与えたのかについても調べたい。

参考文献
・平川 裕弘 ,1971『和魂洋才の系譜 ―内と外からの明治日本―』 河出書房新社
・松本 剛 ,1973『広告の日本史』 新人物往来社
・内川 芳美 ,1976『日本広告発達史』 電通
・山本 武利 ,1984『広告の社会史』 法政大学出版局
・大久保 利謙 ,1988『明治の思想と文化』 吉川弘文館
・八巻 俊雄 ,1992『日本広告史』 日本経済新聞社

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