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2015/07/29

火曜2限概論発表

一回生の富士山です。今回はイヴァン4世について調べました。

1、 はじめに
 イヴァン雷帝ことイヴァン4世は、ロシアの代表的な暴君として認知されており、特にオプリーチニナ期の暴力的統治は有名である。今回は、このイヴァン4世統治下のロシアの政治史についてみていきたい。


2、 イヴァン4世の即位と貴族政治
 1533年ヴァシーリー3世が没し、3歳の子イヴァンが玉座を継いだ。彼が幼年のため当初は、母のエレーナ・グリンスカヤが、実権を握るも彼女の支配は長くなく1538年に突然世を去る。その後、名門貴族のシェイスキ-家とベリスキー家を中心とする貴族諸党派間の争いが勃発し、交互に権力を握った貴族政治が約9年間続き、混乱と無秩序が蔓延、民衆の暴動や外敵の侵入が頻発する。


3、 改革の時代
まず行政改革から着手された。これは、国内で叛乱が頻発し、支配階級を脅かしていたからだといわれている。具体的には、扶持制度の廃止があげられる。これは中央から派遣されてきた地方長官が、地方を統治する制度で、地方長官は貴族層が占め職権の乱用がはなはだしかった。また代官は、俸給を受けず、地方住民の負担で生計を維持していた。
これに代わって導入されたのが、地方自治機関であり、その長である地方長老は、地方住民から選挙で選ばれ、主に上層農民や士族層が就いた。
これにより租税収入が直接国庫に入るようになった。
次に軍政改革では銃兵隊が組織され本格的に火器の使用が始まった。また作戦行動中の門地制が制限され軍の行動が円滑に進むようになる。


4、 対外戦争
 この時代ロシア国家の国境地帯で異民族による侵入、略奪、捕虜の連行が相次いだため、国境地帯の防衛は急務であった。そのためまず目を付けたのは東部の交通の要衝地帯に位置していたカザン・ハン国であった。2回の失敗ののち併合すると4年後にはアストラハン・ハン国を併合し、ヴォルガ川を支配下に置いた。次にカザン・ハン国を影響下に置いていたクリミア・ハン国は南で国境に面し度々ロシア側に侵入するなど脅威であったが戦争は避け防衛線の構築など消極策にとどまった。
 西方では、バルト海への出口であるリヴォニアが進出目標となり、1558年ロシア軍がリヴォニアに侵入しリヴォニア戦争が始まった。初戦はロシア軍が優勢に戦いを進めたが、1559年の休戦ののち、ポーランド、スウェーデン、デンマークが介入しロシア側と対立し、ロシアは、戦果を挙げられないまま講和を結ぶ。


5、 オプリーチニナ
リヴォニアでの戦争が行き詰まり始めるとイヴァンは、アダーシェフら改革政府(会議)に不満を抱き始め彼らを追放、逮捕する。その後政治は混乱し、経済も低迷、諸公の亡命、逮捕、弾圧が起こる。その中で1564年イヴァンは、クレムリンを去り、家族、一部の臣下を伴いアレクサンドロフスカヤ村に移りそこから書状を貴族聖職者とモスクワ住民に対し2通送る。モスクワ住民に送られた書状の中には、自分の怒りが彼らに向けられているものではない旨の内容があり、住民は、イヴァンに対して復位を望んだ。それに対してイヴァンは、裏切り者を自由に処罰し、望むままに支配するという条件でモスクワに帰還する。
この結果国家をオプリーチニナとゼームシチナ(国土)に分割しオプリーチニナでは、ツァーリが、専制的に支配する体制を確立する。オプリーチニナに設定された土地を有していた者は、それを没収され、代替地を与えられた。
オプリーチニナを管理したのは、オプリーチニナ隊員であり彼らは、ツァーリの専制支配を確立しようとした。このオプリーチニナ期には、諸侯、貴族が辺境に追放され、中央集権化が進められたが、1568年以降は大規模な弾圧事件が、オプリーチニナ軍によってひきおこされており、諸公、役人、貴族、士族、聖職者また一般人も一部犠牲になるなど、テロル的性格が強く、1570年のノヴゴロド征伐では、6週間にわたって弾圧行為が遂行され、その後ノヴゴロドは、衰退している。
オプリーチニナは、1572年に廃止されたと考えられているが、国土は疲弊し、住民は逃亡し失敗したといえるだろう。


6、 オプリーチニナ後
 オプリーチニナ廃止後も暴力的統治が続き、貴族やオプリーチニナの関係者が多く処刑された。しかし一時期に比べれば小規模なものだったと考えられている。


7、 晩年の治世
 東方で、シベリア・ハン国を併合するなどシベリアに進出し、当地にエルマークが派遣されさらに領土を拡大する。
口論になった長男のイヴァンを殺害し、死ぬまで悔いる。

8、 まとめ
 イヴァンの即位後数年間は、混乱が続くも、改革政府が組織され、旧来型の統治法が変わり、集権化が進み、民衆にも歓迎される。しかしオプリーチニナによって改革は、次第に暴力的なものとなり、国土の荒廃を招く。


9、 おわりに
 かつてソ連のスターリンがインタビューで尊敬する人物にイヴァンをあげた話がある。1930年代の大粛清で犠牲になった者のなかには、古参の党員が多く処刑されておりこれは、オプリーチニナの犠牲者に貴族が多かったことに類似している。またレニングラード事件ではかなりの割合の市民が逮捕されるなどノヴゴロド征伐にこれもまた類似しており、二人の暴君に共通性が見て取れる。


参考文献
・パンクラートワ(三上次男、江口朴郎監修)「ロシア古代中世史」(東京大學出版會、1954年)
・R・Gスクルィンニコフ(栗生沢猛夫訳)「イヴァン雷帝」(成文社、1994年)
・川又一英「イヴァン雷帝―ロシアという謎」(新潮社、1999年)
・和田春樹編「ロシア史」(山川出版社、2008年)

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