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2015/07/29

火曜2限概論発表

一回生の東田です。今回の概論は「悲劇の王家、ロマノフ王朝の最期」
というテーマで発表しました。

はじめに
今から約100年前の1917年にロシアで社会主義革命が起こり、世界初の社会主義国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生しました。その翌年、皇帝であったニコライ二世とその家族たちが処刑され、1613年以降ロシアを支配していたロマノフ王朝は終わりを告げました。今回はかつて栄華を誇ったロマノフ王朝がどのようにして滅亡へと向かったのかを、激動の時代に生きた皇帝ニコライ二世一家と謎に満ちた怪僧ラスプーチンを中心にみていきます。そして一家の死後巻き起こった論争についてもみていきます。

まずはロシア最後の皇帝、ニコライ二世の生涯について紹介します。1868年、ニコライは当時のロシア皇帝であったアレクサンドル三世の長男として誕生します。1891年、来日中に滋賀県大津市で警察官の津田三蔵に襲われ重症を負います。これは、大津事件と呼ばれています。1894年、アレクサンドル三世が亡くなったため、ニコライ二世として即位します。同年、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘である、アレクサンドラと結婚します。1904年、日露戦争が勃発し翌年には、第一次ロシア革命が起こります。同年、後に王朝に多大な影響を及ぼすことになるラスプーチンという男と出会います。1914年には第一次世界大戦が勃発、1917年には第二次ロシア革命が起こり、皇帝を退位させられます。これにて、300年以上続いた帝政が崩壊します。そして、革命の中心となった社会主義政党のボリシェヴィキ、後のロシア共産党に拘束されます。翌年、エカチェリンブルクで家族、従者とともに処刑されロマノフ王朝は滅亡します。

続いて、ニコライ二世一家の人物像についてみていきます。
父、ニコライ二世。対外政策、特に戦争には積極的な姿勢を示さず、一般的には優柔不断で無能な皇帝と評されています。一方で一家の夫、父としては好人物であったようで、ロシア研究家のロナルド・ヒングリーは「彼は上品で感じが良く、帝国を支配するよりは、犬や子供たちと戯れているほうが好きだったのである」と語っています。妻や子供に対する愛は真摯そのものでした。
母、アレクサンドラ。自由な気質のイギリスで、祖母のヴィクトリア女王の影響を強く受け育ったのでロシア宮廷の堅苦しいしきたりに慣れるのに苦労していました。皇太子の誕生が期待されていた中、四人の女児を出産したため、皇后の義務を果していないとされ、周囲から冷たい目を向けられていました。アレクサンドラは、次第に精神的に追い詰められていき、宮中行事を拒絶するようになります。かつては、陽気な性格でしたが、しばしばヒステリーの発作を起こすようになり、そのころの面影はありませんでした。待望の皇太子が誕生しますが、血友病という難病を患っていることが判明します。この血友病というのは、遺伝性で、わずかな傷でもすぐ出血し、容易に出血が止まらない病気です。当時のヨーロッパ王室でひそかに広まりはじめていた病気であり、その根源は、イギリスのヴィクトリア女王であるとされています。絶望していた彼女の前に後で紹介するラスプーチンという一人の男が現れます。
四人の皇女と一人の皇太子。子供たち、特に四人の娘はとても仲が良かったようです。長女オリガは姉妹の中で最も勉強ができ頑固であり、次女タチアナはお洒落好きで最も優雅でした。三女マリアは最も人当りが良く美人でした。四女アナスタシアは最もユーモアがあり、家族を大笑いさせていました。皇太子アレクセイは生まれながらに血友病を患い、皇室の悩みとなっていました。
様々な悲劇に見舞われた一家でしたが、固い絆で結ばれていました。
 
続いて紹介するのは、王朝滅亡の大きな要因となったラスプーチンという一人の男です。彼は、元々農家の息子でしたが、20歳頃に聖母マリアの啓示を受け、家族と仕事を残し突然巡礼の旅に出発します。巡礼中に、相手を祈祷で治療するなどという、神秘的な力を得ます。1905年、当時のロシアの首都、ペテルブルクに滞在中にその能力で一躍話題になります。噂を聞いた皇帝夫妻に宮廷に招待され、血友病で瀕死であった皇太子の命を祈祷で救い、皇帝一家から絶大な信頼を得ます。それからラスプーチンは巧みな話術で宮廷の人々を魅了していきました。特に精神に不安を抱え、病弱な皇太子を生んでしまい自責の念に駆られていた皇后アレクサンドラは彼を神格化し、狂信的になっていきました。ラスプーチンは宮廷内に数多くの愛人を作り、その生活は醜態の限りを極めていたようです。彼は徐々に増長し主に皇后を通じ、政治に口出しするようになっていき、すでに脆くなっていた帝政が更に弱体化していきました。当然、ラスプーチン反対派もいました。しかし、皇帝が不在の間、内政を任された皇后アレクサンドラは全く聞く耳を持たず、反対派の役人などを解雇していき、更に帝政は混乱していきました。ラスプーチンと、一人の怪しげな僧侶に専横を許した王朝に対し、ロシア国民の不満は頂点に達しようとしていました。遂に危機感を持った宮廷貴族により、ラスプーチンの暗殺が実行されました。しかし、ラスプーチンは信じられないほどの生命力の持ち主でした。青酸カリ入りの食事を食べても死なず、鉄製の蝋燭立てで頭蓋骨を砕かれても死なず、8発の銃弾を受けて、殴る蹴るの暴行を受け、道路に放り出されてもまだ息がありました。そこから凍りついた川に放り込まれ、遂に溺死しました。ラスプーチンは、暗殺前にニコライ二世にこのような予言を残しています。

  私は殺されます。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう。  

ラスプーチンを暗殺した貴族のフェリックス・ユスポフは、ニコライ二世の親戚筋で、数年後、この予言は的中することになります。

続いて帝政崩壊と処刑について。1917年、第一次世界大戦が原因で起こった食糧不足や、王朝の支配に対する不満から、二月革命が起こります。ニコライ二世は退位を余儀なくされ、ロマノフ王朝はここに崩壊します。革命政府はニコライ二世一家が反革命派に利用されることを恐れ、捕えます。エカチェリンブルクに幽閉された一家は、1918年7月17日、指導者であるレーニンの命を受けたボリシェヴィキの一派により従者と共に銃殺処刑されます。これが、歴史の定説となっています。

しかし、この処刑された一家には、生存説もありました。処刑されてから数十年もの間、一家に同情した処刑執行人が何人かを逃がしたという説がよく唱えられていました。実際、その当時遺体は発見されておらず、そして、特に世間を騒がせたのが、四女アナスタシアを名乗るアンナ・アンダーソンという女性の存在でした。アンダーソンは一家が処刑されて数年後に現れ、自分は皇女アナスタシアであると主張しました。彼女は皇女にしか知りえないような話を語り、外見も本人と瓜二つでした。世間は彼女を大きく取り上げました。しかし、何度も調査や裁判が行なわれましたが、彼女がアナスタシアであるかどうかが判明しないまま、1984年に彼女は亡くなります。しかし、1979年(正式発表は1991年)、2007年にニコライ二世一家のものとされる遺骨が全て発見され、DNA鑑定によりアンダーソンはアナスタシアでないことが判明しました。様々な検証の結果、皇帝一家は全員殺害されていたことが、約90年の時を経て、証明されました。

まとめ
多くの戦争や皇太子の病気で、精神的に追いつめられていた皇帝夫妻にラスプーチンが取り入り、国民の不満を呼び革命が起こり、帝政は崩壊し、翌年一家は処刑されました。生存説が流れましたが遺体の発見とDNA鑑定により否定されました。

おわりに
第一次ロシア革命、第一次世界大戦、皇太子の血友病などの悲劇が重ならなければ、ラスプーチンに専横を許すこともなく、ここまでの惨事に至らなかったのではないかと考えられます。そして、せめて罪のない子供たちだけでも助かる道は無かったのかと思いました。今回の概論では調べる範囲を広くし過ぎたため、どの項目に於いてもあまり深く掘り下げることが出来なかったように思ったので、次回はこれを踏まえて狭く深く調べていきたいと思います。

参考文献
・フェリックス・ユスポフ(原亙全訳)『ラスプーチン暗殺秘録』(青弓社、1994年)
・ロバート・K・マッシー(今泉菊雄訳)『ロマノフ王家の終焉』(鳥影社、1999年)
・エレーヌ・カレーヌ=ダンコース(谷口侑訳)『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』(藤原書店、2001年) 
・岡田晴生、荒井由美『皇女アナスタシアとロマノフ王朝 数奇な運命を辿った悲運の王家』(新人物往来社、2003年)
・荒井由美『ロマノフ王朝 帝政ロシアの栄光と革命に消えた皇家』 (新人物往来社、2011年)

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