FC2ブログ
--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2015/07/29

火曜2限概論発表

2回生の半熟です。
今回は後北条家の氏政を中心に、秀吉による小田原合戦に至るまでの北条家と他大名との関係について調べました。
本当は合戦まで調べたかったのですが、時間が足りなかったのと、何を思ったのか初代宗瑞(早雲)から軽く調べ出したのと、小田原合戦で最も書きたかった北条兄弟についての部分を記述してくれる本を見つけられなかったという理由で、そこに至るまでということになりました。
しかし、それでも十二分に長文になって焦ったのですが…。
なお、本概論は以前の「敵に塩を送る」の続編とも言える内容になっています。
よければ照らし合わせつつご覧ください。

1、はじめに 
 「小田原評定」という言葉がある。それは現在、「(豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、和戦の評定が長びいて決しなかったことから)長びいてなかなか決定しない相談。」(広辞苑第六版より)という意味で使われているが、そもそもなぜ小田原城攻めが起きたのだろうか。今回はその直前までを、北条氏と有名他大名家の関係についてを中心にみていこうと思う。
※なお、本概論は前々回の『敵に塩を送る』の続編ともいえる。
※また、複雑さ回避の為、人物の名前は最も有名なものに統一している。


2、戦国大名として生きる
・永禄二年(1559) 北条氏政が家督を継ぐ
・永禄三年(1560) 五月十九日 桶狭間の戦い…今川義元が織田信長に討たれる
・        八月~翌六月 上杉謙信の小田原城攻め
・永禄四年(1561) 四月 松平家独立…徳川家康が独立し改姓
・           織田-徳川同盟…織田信長と徳川家康の同盟
・        八月 第四次川中島合戦
・永禄七年(1564) 氏規…今川家から北条家に戻る
・永禄八年(1565) 織田-武田同盟…信長上洛の備えの一環
・永禄十一年(1568) 四月 今川-上杉同盟…武田氏挟撃の動き
・        十二月六日 駿河攻め…武田信玄が信長経由で家康と組み、今川領に侵攻
 氏真は本拠駿府を武田氏に攻略され、遠江懸川城にて徳川氏に囲まれる
 北条氏は、今川氏に味方する事を表明
 北条-武田同盟破棄…氏康により氏政と正室の黄梅院(信玄の娘)離縁
         武田氏に帰される
 同時に上杉家との同盟交渉開始
・永禄十二年(1569) 五月 北条-徳川和睦…対武田氏、親今川氏。交渉役は氏規
・        五月六日 懸川城開城…今川氏真は徳川氏より北条氏に預けられる
・         五月 武田-上杉同盟…信玄の依頼により、信長が室町将軍足利義昭を動かした結果
・       五月二十三日 氏政が今川氏真から駿河国の支配権を譲られる
 氏政嫡男(8歳)の氏直を今川氏真の養子とする
・        閏五月 北条-上杉同盟…上記と並行に取り決められた
 北条氏は上杉氏に武田氏攻めを要請
 北条氏は大幅に譲歩し、上野一国と武蔵六ヶ所を割譲
 翌年には景虎(氏政弟)が謙信の養子となり、謙信の姪を娶る
・        六月十七日 黄梅院(武田信玄娘、元北条氏政室)甲府で死去。享年二十七
・元亀元年(1570) 八月 武田-上杉同盟破棄
十月 徳川-上杉同盟…武田-上杉同盟破棄後取り決められた
                     同じく武田氏攻めを要請
・元亀二年(1571)  一月 武田信玄が駿河国を実質支配
・        十月三日 北条氏康死去
・      十二月 北条-武田同盟…北条-上杉同盟破棄。今川氏真放逐
・元亀三年(1572) 十二月二十二日 三方ヶ原の戦い…信玄が織田-武田同盟を破棄して、徳川家康と衝突
・元亀四年(1573) 四月十二日 武田信玄死去
・天正三年(1575) 五月二十一日 長篠の戦い…織田・徳川連合が武田勝頼を破る
       ➢真田信綱・昌輝(幸綱長男・次男)死去 ➢真田昌幸家督を継ぐ
・天正五年(1577) 一月 北条-武田同盟強化…桂林院殿(北条氏政妹)が武田勝頼に嫁ぐ
・天正六年(1578) 三月十三日 上杉謙信死去
・         五月   御館の乱…上杉謙信の跡継ぎ争い。景勝(謙信甥)対景虎(北条氏政弟)
                     氏邦が景虎支援に出陣、沼田城を奪取
・         五月末       武田勝頼が氏政の要請を受けて、越後へ出兵
 景勝から和睦を申し入れられるとこれを了承
 北条氏と上杉氏の和睦を図るが失敗


3、織田家家臣として生きる
・天正七年(1579)  正月 北条氏照が徳川家康と通交
 北条氏は対武田氏戦で劣勢だったため、徳川氏との挟撃を図ったもの
・       三月二十四日 御館の乱終結…上杉景虎(氏政弟)自害
・        九月四日 北条-徳川同盟成立
・          六日 武田氏から北条氏に手切…北条-武田同盟破棄
・          十一日 北条氏照が信長と通交を図る
・天正八年(1580) 一月十八日 真田昌幸が沼田城を調略
・         三月   氏政が正式に信長に下る
 北条氏直(氏政嫡男)に信長の娘を娶らせるという約束
 北条氏はその領国を信長の領国のうちに参じると申し出た
 信長が北条氏の(未支配分を含む)関東全域領有を承認
 織田方取次は宿老の滝川一益
・        八月十九日 北条氏直が家督を継ぐ(形式的)
・天正十年(1582) 二月一日 織田氏の武田氏攻めがはじまる
          十九日 ようやく織田氏から正式に氏政に連絡がもたらされる
          二十一日 北条氏邦が西上野へ侵攻占領、
          二十六日 北条氏直・氏政が駿河河東地域へ侵攻→占領
       三月十一日 天目山の戦い…武田勝頼・正室桂林院殿・(子)信勝自害
・         十二日(までには) 武田氏家臣真田昌幸らが北条氏に服属

・          二十一日 氏政は信長に進物を送る
          二十三日 織田信長が宿老滝川一益に、関東・東北支配の責任者の地位を与える
 上野一国・信濃二郡(佐久郡・小県(ちいさがた)郡)を領土とする
          二十八日 北条氏政は伊豆三島社に、織田氏との一刻も早い婚姻関係の形成を祈願
          二十九日 織田信長による旧武田領国の知行割が公式に発表された
 北条氏には領土は配分されず
 北条氏が既に領有していた駿河・東上野の領土を一益・家康に割譲
 北条氏は駿河からの完全撤退を余儀なくされる
 沼田城が真田氏から一益甥に明け渡される
       四月二日 氏政が信濃諏訪に信長に雉五百余羽を進上、返却される
         三日 氏政が信長に馬十三疋・鷹三足を進上、返却される
・        四月中  関東の大名が概ね信長に従属を示す(滝川一益経由)
・       五月初め 南東北の大名が概ね信長に従属を示す(柴田勝家経由)…上杉氏攻めの準備


4、戦国大名へと戻る
・        六月二日 本能寺の変…織田信長が明智光秀に討たれる
・          六日 上杉景勝が北信濃へ侵攻
・          十一日 北条氏政は滝川一益に、京都の様子について尋ねている
 家康から信長死去の連絡を受けて
 氏政は相談してくれれば何事にも協力すると述べている
 ※氏照が同日滝川領に侵攻している
・          十二日 徳川家康が密かに甲斐武田旧臣の取り込みを進める
・          十三日 山崎の戦い…明智光秀が豊臣秀吉に討たれる
・          十六日 北条氏から滝川一益に手切…織田-北条・徳川-北条関係決裂
・          十八日 北条氏邦軍vs滝川軍…滝川軍の快勝
・          十九日 北条氏直・氏邦軍vs滝川軍、一益は本領伊勢に退却
・         二十一日 真田昌幸が沼田城を奪還、上杉氏に従属
・         二十七日 清須会議…織田家跡取りが信長の孫三法師(秀信)、後見が信孝に決定
・        七月七日 徳川家康が豊臣秀吉から、甲斐・信濃・上野確保に動く了承を得る
・          九日 徳川家康自ら甲斐に進軍
・          同日 真田昌幸が北条氏に従属
・        九月十九日 徳川-上杉和睦成立
・          同時期 真田昌幸が徳川氏に従属
・       十月二十四日以前 織田信雄・信孝兄弟から徳川家康に北条氏と和睦指示
 家康は早々に北条氏との和睦交渉に入る
 北条方取次は北条氏規
・         二十八日 北条-徳川和睦合意
・           同日 豊臣秀吉が織田信雄を織田氏当主に据える=織田信孝・柴田勝家方との分裂
 勝家方は同時に上杉氏とも敵対
・         二十九日 北条-徳川和睦成立 
 北条氏の甲斐郡内・信濃佐久郡を徳川氏に→即日引き渡される
 徳川氏の真田領(上野岩櫃領・沼田領)を北条氏に
 保障として徳川家康娘の督姫が北条氏直に嫁ぐ…翌年八月十五日婚儀
・       十二月 豊臣秀吉が織田信孝(三男)を降伏させ、織田秀信(孫)を奪還
・天正十一年(1583) 二月七日 豊臣-上杉同盟成立…柴田勝家方との対立から
四月 賤ヶ岳合戦…柴田勝家が豊臣秀吉に討たれる
六月 豊臣-上杉同盟更新…秀吉が明確な上位者に
八月までに 豊臣-徳川間…秀吉が明確な上位者に
・        十月二十五日 豊臣秀吉は家康に、上様(信長)の頃の領土回復を催促した文書を送る
=関東で秀吉に通交しない北条氏の早期従属要求
 従わない場合は軍事行動に移すとも表記
・        十一月十五日 徳川家康が北条氏政に、秀吉からの文書の内容を伝える
・天正十二年(1484) 二月 徳川家康が織田信雄の支援要請に応じる…信雄は秀吉の粛清を企図
三月六日 織田信雄が秀吉に宣戦布告=小牧・長久手の戦い
・       十一月十一日 織田信雄が豊臣秀吉と単独で和睦を結ぶ
 織田家は人質と領土の一部を出し、秀吉に従属する事になった
               →徳川家康も秀吉と停戦の和睦を結ぶ
 人質(後の結城秀康)は出したが、従属ではない
・       十二月七日 家康帰陣の連絡を受けた北条氏が、上野攻めを再開
               →上野で北条氏に従わないのは、沼田領・岩櫃領の真田昌幸のみに
・天正十三年(1585) 五月下旬 北条氏が真田昌幸に沼田・岩櫃領引き渡し要求→拒否
・         七月十五日 徳川家康が真田昌幸に北条氏への領土の明け渡しを要求
→真田氏が上杉氏に従属
・     閏八月 徳川家康が真田氏本拠の信濃上田城を攻撃、攻略にいたらず帰陣
・     閏八月下旬 北条氏邦が沼田領に侵攻、沼田城下を焼き払うも攻略できず帰陣
・     十月二十八日 北条-徳川同盟強化…秀吉との対戦に備えて
 両者とも宿老による連署起請文を提出
 北条氏は、家康からの要請があり次第援軍を送るとの取り決め
・     十一月十三日 家康宿老石川数正が出奔し、秀吉に従う
・        十九日 秀吉が、家康成敗のため来年正月十五日までに出陣すると伝える
・天正十四年(1586) 一月九日 秀吉が、出陣を二月十日までに延期
・         一月下旬 織田信雄が秀吉と家康の和睦仲介に乗り出す
 信雄が三河に赴き家康と会談
 家康は和睦に応じ、人質を出すことを承諾
・         二月八日 秀吉が、出陣を中止すると伝える
・        二月二十六日 徳川家康-北条氏政会談…家康からの申し入れによる
         三月十一日 会談実現
 家康は氏政に、自身が秀吉と和睦する意思を伝え、その理解を求めた 
 酒宴後、家康は国境の三枚橋城の兵粮一万俵を氏規与える
              =徳川氏の、北条方に対しての武装解除の姿勢をみせるもの
 進物も、家康側からのほうが遙かに豪華なもの
・         五月十一日 豊臣-徳川和睦成立…旭姫(秀吉の妹)が家康に嫁ぐ
・         六月十四日 上杉景勝が秀吉に出仕…上杉-徳川和睦
・          八月三日 秀吉が家康に真田氏討伐を命令
 真田氏を従える上杉景勝には、真田氏を一切支援しないように命令
 以前に秀吉が家康の出仕を命じたところ、家康が真田氏との抗争を理由に拒んだため
 家康からの要請を秀吉が承認
 真田昌幸は上杉景勝を頼ってすぐに秀吉への取り成しを依頼
・          八月七日 秀吉は真田氏の問題は自ら裁定するとし、家康に対し出陣延期を指示
・         九月二十五日 秀吉は真田討伐の中止を決定
・           二十六日 家康の出仕が決定
 家康が大坂に出仕する間だけ、秀吉・旭姫生母の大政所を徳川領国に下向させる(=短期の人質)条件
         十月二十七日 徳川家康が豊臣秀吉に出仕=家康の秀吉従属が正式に決定
       ※北条氏は先の援軍派遣の取り決めに基づいて、十一月初めに出陣準備をしている
・       十一月四日 家康と景勝の相談で、信濃国衆の真田氏らは家康に付属
            家康は秀吉に、関東と奥羽の「惣無事」をまとめあげるように指令される
 そのことは家康から北条氏に連絡された
・       十二月四日 家康は関東出陣を想定し、本拠を駿河の駿府城(旧今川氏本拠)に移す


5、豊臣家臣として生きようと…
・天正十六年(1588) 正月末まで 小田原には各地から軍勢の参陣がみられ、普請も続けられていた
・         二月下旬 北条氏は徳川家康を通じて秀吉との和睦を模索
            二十五日 北条氏は宿老笠原康明(信長従属の際安土城に赴いている)を派遣
 笠原は氏政・氏規の文書を届けた
=氏政による上洛・出仕の申し出=秀吉への従属表明
          四月二十八日 秀吉が北条氏に示した条件は、とても北条氏から同意を得られるもの
ではなく、秀吉の関東攻めが噂される    
          五月二十一日 家康は氏政・氏直父子に、秀吉への従属をうながすために起請文を送る
            ↓簡単な現代語訳
            一、御父子(氏政・氏直)について殿下(秀吉)に対して悪くいったり、陥れる
ようなことをして、(北条氏の)領国を望むようなことはしない
            一、今月中に兄弟衆をもって京都へ(上洛させ、秀吉に)御礼を申し上げられるべき            
            一、出仕することを納得されないのであれば、家康の娘を御返していただきたい。            
                 →北条氏は秀吉に、無条件での従属を申し出る→秀吉の了承
                  →この御礼に氏規が使者として京都に派遣される
              ※北条氏の統一意見ではなく、家康と親密だった氏直・氏規を中心にした対応
               で、なかば強引に氏規の上洛を実行しました。
          八月二十二日 北条氏規が秀吉に拝謁
 門内に入れたのは氏規とその宿老の二人のみ
 拝謁の場には、高間に秀吉、他、織田信雄・徳川家康・羽柴秀長・
  宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元らが臨席
              →秀吉への従属の実現…残るは氏政・氏直父子のいずれかの上洛、出仕のみ
                ※北条氏政は氏規の上洛以降、それに反発して政務の場に出なくなり、
一切政務に口出ししない状態に
・          十一月下旬 豊臣秀吉が北条氏に「境目などについて言い分を聞き届けるので、状況
を報告するために、家臣を派遣してきなさい」と通達
天正十七年(1589) 二月 北条氏は宿老板部岡江雪斎を秀吉に派遣
 秀吉は、真田領は「手柄次第」で北条氏に渡されるものを、「自力」で
果たせていないと判断
 沼田・岩櫃領の三分の二を沼田城と共に北条氏に割譲
 残る三分の一は真田氏に留保、その領内に城郭も真田氏がそのまま管轄
 真田氏には、北条氏への割譲分と相当分の替え地を家康から提供
          三月 北条氏政が政務へ復帰、北条氏は秀吉の裁定案を受諾
・        六月五日 北条氏直が豊臣からの使者妙音院らに、十二月上旬に氏政が上洛すると連絡
 氏政は上洛に随行させる者を決め、十分に支度をするように命令
 百日も後のことではあるが、遅れることはできないから、と述べている。
・         六月 伊達政宗が上杉方の会津芦名氏を没落させ、会津領を経略
→上杉・秀吉らはその対応に懸命に
・        七月十三日 北条氏は真田領沼田城請け取りの軍勢は千人ほどとし、請け取り後は氏邦に
管轄させることを決めている          
           二十四日以前 沼田城を含む真田領の引き渡し
 実際の請け取りの軍勢は二万
 秀吉からは使者妙音院が派遣される
 北条氏直が妙音院に、氏政の上洛が今年は難しいので、来年春・夏頃の出立としたいと申し入れる
→聞き入れられないが、秀吉としては年内に出立し、二月
中旬に京都に到着するのでよいとの返答
  ※秀吉の承認を得ないまま、妥協案を提示
 氏邦は沼田城を、これまで真田氏に対する先陣の役割を担ってきた宿老の猪俣邦憲に与えた
 北条氏はこの後秀吉に御礼を申し上げていない
・        九月一日 猪俣邦憲の沼田城支配開始
・         不明   真田昌幸は沼田・岩櫃領に所領を有していた家臣の知行替えを行っている
・     十一月一日か二日頃 名胡桃城事件…北条方の境目(沼田城城代の猪俣邦憲)の軍勢が(真田氏に
留保されていた)名胡桃城を攻撃し、城代を討ち取って
同城を奪取(※真田文書)                  
                   ※真田昌幸は上洛中=この軍事行動は現地の軍勢主導のもの
・         同日 徳川家康が真田方から名胡桃城事件を知らされる
 真田氏は家康与力という立場上、軍事行動の展開には、家康に断りをいれる必要がある
・       二十日頃 秀吉が名胡桃城事件について知り、年内に氏政の上洛が実行されないので、
来年三月に北条氏討伐の為に出陣すると決定
・        同時期 北条氏からの使者、宿老石巻康政が到着するが、秀吉との面会はならず
 用件はおそらく氏政の上洛・出仕について
 小田原を出発したのは名胡桃城事件後だが、氏政・氏直父子は同事件に
関する指示を全く与えていない
 妙音院が独断で小田原に下向→途中の徳川領で抑留される
・       二十四日 秀吉が家康に、北条氏を成敗の軍事行動に関して相談したいのですぐ上洛する
             ように命令
 秀吉は妙音院を、北条氏に関して適当に取り繕うような言動を行ってきたとして、処罰すると伝える
・        同日 諸大名に来春に出陣して「退治」する旨(いわゆる「宣戦布告状」)を出す
・     十二月七日 北条氏に秀吉の「宣戦布告状」が届けられる
 「宣戦布告状」最後部分の現代語訳…来年必ず天皇から授かった旗を携え
 て、進発し、氏直の頸を刎ねる事について、後戻りすることはない
 氏直はこれを最後通告状と判断
 これを届けた使者は徳川領にて、自身らは今月中に氏政の上洛がなけ
れば討伐する事を通達するための使者だと説明
 氏直はただちに弁明を送る
(上洛遅延・名胡桃城事件そのものの否定)
・        八日 北条方で防御態勢の構築が始まる
・        九日 氏政・氏直はそれぞれ取次役の家康に対して、秀吉への取り成しを依頼した書状を、
氏規も家康に、氏政・氏直の主張を秀吉にとりなして欲しいと依頼した書状を送る
         不明 北条氏が名胡桃城周辺に真田氏との停戦を指示
・天正十八年(1590) 春~夏 小田原攻め…戦国大名北条氏滅亡
 北条氏政・氏照…責任を問われ自害
   氏邦   …前田家へ
   氏規・氏直…高野山蟄居、翌年二月赦免


6、まとめ
 かつて北条氏は、長年同盟を結んできた武田氏に対抗するため、中央の織田信長に降った。そして信長が武田氏を滅ぼした事で、中央勢力の強大さと、それに従う窮屈さを痛感した北条氏は、秀吉が台頭してきた際に中途半端な対応をしてしまった。その結果北条氏は滅んでしまったわけだが、こうした過程をみる限り、北条氏側、秀吉側のどちらか一方だけに非があるとは、一概に言えないだろう。


7、おわりに
 こうして小田原攻めが起こるまでを調べてみると、新たに一つの疑問が浮かぶ。小田原合戦自体まで調べる時間がなかったため、あくまで推論の域を出ない話だが、北条氏滅亡で最も利を得たのは本領を維持できた真田昌幸であろう。そして、最後まで北条氏と敵対していた、つまりは北条氏滅亡を望んでいたであろう北関東勢力の取次をしていたのは上杉景勝・石田光成である。このちょうど十年後、関ヶ原の戦いにおいて、彼ら三人が中心となった西軍を相手に、北条氏規の子氏盛が東軍として参戦しているのは、ただの偶然なのだろうか。


参考文献
・平山優 『武田信玄』 2006年 吉川弘文館
・谷口克広 『信長と家康-清州同盟の実体』 2012年 学研新書
・平山優 『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』 2011年 株式会社PHP研究所
・黒田基樹 『戦国北条氏五代』 2012年 戎光祥出版
・黒田基樹 『小田原合戦と北条氏』 2013年 吉川弘文館
・下山治久 『戦国北条氏五代の盛衰』 2014年 東京堂出版

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。