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2015/07/29

月曜5限概論発表

一回生のレオ・ルセールです。今回の概論は「江戸時代の林業について」で発表しました。

はじめに
 日本人の生活にとって木は切っても切り離すことができない存在である。日本人は古来木を利用して生活してきた。では、江戸時代ではどのように木を伐り、輸送し、森林を利用したのだろうか。今回の発表はそういった点を調べた。

江戸時代までの森林利用
 江戸時代以前の木材利用は自然林の利用がほとんど。まずは近隣諸国の木を切り出し、木材の確保が困難になると、次第に遠隔地に広がる。

豊臣政権が誕生すると、大阪城をはじめとする巨大城郭や寺院の建設が増加。
熊野や木曽、飛騨に大名を派遣し山林を調査、また東北地方の木材(主に秋田杉)の利用を始めた。さらに、四国九州の大名に木材の提供を命じた。

江戸時代の森林利用
17世紀
 
 江戸幕府成立後、江戸城などの巨大城郭がいくつか建設され、また街道や宿場が整備されたこともあり、木材の利用がさらに増加した。

諸国の山林では木材の不足が顕著化し、林政論 が熊沢蕃山(陽明学、岡山藩に仕える)、山鹿素行(古学、赤穂藩預かり)といった儒学者や野中兼山(南学者でもある、土佐藩)などの諸藩の家臣によって説かれた。

  一方で17世紀前半に京の角倉家などが徳川家と結びついて商業的な伐採を始めたほか、後半には紀伊国屋文左衛門などの御用商人が幕府から公共事業としての意味合いが強かった寺社造営のための木材調達を請け負う。そのような御用商人たちは杣(そま) を自分たちの雇用したものばかりを使い地元に利益を還元しなかったばかりか、商用材も切り出しを行い、地元民がそれに反対した場合は山の木を徹底的に伐り去るなど、傍若無人な行い があり、山林の荒廃につながった。

  また、山林の伐採が進んだこともあり、伐採や運搬の技術(後述)が向上した。
  このころには流通機構が整備され、江戸や大坂、名古屋といった大都市に材木問屋を形成した。材木問屋は各地域によって仕組みに違いがあった。

18世紀
 
 山林の荒廃が目に見えて明らかになってきたため、諸藩がさらに対策をすすめるようになった。
 具体的には有用材の伐採禁止や、植林である
 有用材の伐採禁止は、尾張藩の場合、五種類の木(ヒノキ、サワラ、マキ、アスナロ、ネズコ)が対象となっており今後の御用材 確保が目的の中心であった。
 また、植林は藩または幕領では代官が中心となって行われた。植林政策開始直後は成果が少なかったといわれるが、村ごとに植樹の義務を負わせることにより、国全体で植樹をする体制となった。

また、木を伐る際にも輪伐という方法をとることや、伐採の本数を減らすことにより森林の保護に努めていた。


19世紀
  18世紀の流れを継承し、森林の保護を図るとともに、需要は満たすというバランスをとるようになった。


植林政策では、実際に植林を行う農民に利益を分けるため、苗の成長後に発生し利益を藩と農民で分ける「部分林(ぶわけばやし)」と呼ばれる制度が各藩で導入された。
19世紀終わりには明治時代に入り林業は様々な変化を迎えることになった。

伐採や運搬

伐採
 伐採には斧が使われることが多く、鋸は伐採に使える大型のものが少なかった事や、運材中の材木の割れを防ぐためにほとんど使用されず、主に製材に利用された。
 
 伐採後は枝を払い、厘という枕木にかけられた。厘の上で玉切りという作業を行い、適切な長さに切り分けられた後、製材されることもあった。

搬出
 搬出はまず木を谷に集めることから始まったので山落としともいう。
搬出には桟手(さで)や修羅(すら)と呼ばれる、木で作った滑り台のようなものを使った。
また、急な崖を下す場合や貴重な材を下す場合は釣木と呼ばれる縄で木を吊るす方法で木を下した。また、雪の降る地方ではそりを使って下ろすこともあった。

 こうして谷に集められた材は谷川の水流をせき止め、水と木材がたまると下流に流して搬出された。これを小谷狩という

運搬
 小谷狩で川の本流まで流された木材は水流のある川ではそのまま流して運搬した。これを管流しという。川幅が広い場所 に来るといかだを組み、河口まで流した。
 河口まで流すと、船に積み込み供給先に輸送した。

林業に関する書物
 林業の具体的な方法(特に植林)に関しては宮崎安貞の『農業全書』など農書に記述が多い。しかし、林業を専門的に扱った文献は数少なく、支配階級の人間が書いた経営方法が中心であった。

材木商人
江戸の商人
江戸の商人は深川に材木置き場を設置し活動した。問屋は扱う資材を上方からの下り物と関東地廻り物のようなごとに分けた4つの組合 を作り寡占的に商売を行っていた。また、問屋は幕府の御用材にかかわるために特権を有し、仲買に対して優位な立場にあった

大坂の商人
大坂の商人は大坂の陣の後、都市復興の際に形成された。大坂の問屋は諸藩と結びつきが強くその藩の剤を最優先で売却し、藩に対して手数料をほぼ取らなかった。よって諸藩の御用商人としての性格が強かった。しかし江戸の商人が持つ特権のようなものは持っておらず、仲買の力が強いという状態にあった。

まとめ
 このように、それまでの時代の流れを汲みつつも、江戸時代の林業は時代が下るにつれ、技術的、経済的、制度的に大幅に進化している。その過程は決して単純なものではなく、数多くの困難があったことが分かる。

おわりに
 以前より、江戸時代の経済的な話にスポットを当てて調べてみたいと思っていたので、その点は満足。
また、江戸時代の林業の話を調べるうちに現在の問題点が少し浮かび上がってきたのは興味深い。
しかし、まとめるにあたって情報の取捨選択や、構成の部分で反省点は多いと感じている。

参考文献
 徳川林政史研究所『徳川の歴史再発見 森林の江戸史』(東京堂出版、2012年)
 須藤護『木の文化の形成━日本の山野利用と木器の文化』(未來社、2010年)

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