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2015/07/29

月曜5限概論発表

三回生のみきです。今回の概論は「戦国武将の和歌を味わう~伊達政宗編~」で発表しました。

わたしは今回戦国武将の和歌について調べたいと思い伊達政宗を取り上げて調べてきた。
まずは米沢城に生まれてから、小田原に参陣するまでの時期について考える。政宗が生まれ育った環境が文化的に洗練されていたかどうかを検証する。天正十二年(1584)年12月に、まだ家督を継いだばかりの政宗に父輝宗から渡された「年始御儀式(正月仕置事)」によると「1日・式三献 二日・買初め 書始め 三日・式三献 四日・茶の挽き始め 五日・七種発句始め 七日・連歌座 式三献 八日・心経会 十一日・談合始め 十四日・乱舞始め 15日・式三献」と有る。伊達家では伝統的に書・茶・連歌・乱舞等の芸能が伝統的に実施されていた事がわかる。
政宗の人格や価値観を形成した人物はだれだったのか。政宗が幼少期から師として仰いだ人物に虎哉宗乙がいる。仏教・漢学・書道などを学んだ。虎哉宗乙は享禄三年(1530)美濃国に生まれた禅僧。十一歳で東光寺岐秀の門に入り十三歳で宗乙と名乗った。二十五歳の時岐秀から虎哉の号を与えられ師匠を助けて説法を行った。その後元亀元年に伊達輝宗の請いを受けて資福寺に入った。
この当時の政宗の和歌はあまり残っていないが、連歌に関しては多くの作品が残されている。天正一三年伊達政宗が家督をついで最初の連歌会。「若茶ツム道有御代ノハシメ哉」2と発句する。有る御代というのは道理の通っている治世のこと。政宗が家督を受け継ぐ年に詠まれたもので、その意気込むが感じられる。天正一八年七首連歌では「七種を一葉によせてつむ根岸」3と発句。七草は奥州七郡のことで、この年政宗は摺上原で蘆名を破っており、伊達家史上最大の領土を手に入れた政宗の喜びが表れている。

次に豊臣政権の大名として過ごした時期から関ヶ原の戦い辺りのことについて考える。文録の役の際に政宗が詠んだ歌が残っている。豊臣家の大名の1員となった政宗は朝鮮出兵の内第1次出兵に参加する。出発の時こそ美麗な装束で京の人々をどよめかせた政宗であったが、朝鮮の風土病・野営・食糧難で多くの家臣を失った。重臣のひとりである原田左馬助の死を弔う歌が残されている。「夏衣キツツナレニシミナレドモ別ルル秋ノホドゾモノウキ / 虫ノ音ハ涙モヨホス夕マグレ寂シキトコノオキフシモウシ / アハレゲニ思フ二ツレズ世ノナラヒナレニシ友ノ別レモゾスル / 見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ / 誰トテモ終ニハユカン道ナレドサキダツ人ノ身ゾ哀ナル / 吹ハラフ嵐ニモロキ萩ガハナタレシモ今ヤオシマザラメヤ」の六首である。それぞれを大まかに和訳すると、夏の衣を着なれていたわが身であるけれども、それと別れる秋のころは辛い。/虫の鳴く声に涙が出そうになる夕方の時分である。寂しい暮らしが辛い。/しみじみと思っても、思うままにならない世のさだめである。打ち解けていた友と離別だってする。/ちょっと見ただけでも悲しさが加わる筆の後は今より後の形見になってほしい/誰だって最後は死にゆく道のりであるが、先立つ人はとてもかわいそうだといったところだろう。これらは頭文字に「な・む・あ・み・だ・ぶ」を取りいれた折句で『伊勢物語』の東下りを意識している。政宗の古典に親しむ態度が見て取れる。
豊臣秀吉が生涯に行った大きな花見には文禄3年(1594)の吉野山の花見と慶長3年の醍醐寺でのものと二つが有るが、そのうち吉野山の花見の際に行われた和歌会に政宗は出席している。その時に詠んだ和歌が「おなしくはあかぬこころにまかせつつちらさて花をみるよしもかな / とをかりし花の木すゑも匂ふなり枝にしられぬ風やふくらん / よしの山たきつなかれにはなちれはいせきにかかる浪そたちそう / むかしたれふかきこころのねさしにてこの神かきの花をうへけん / 君かためよし野の山のまきのはのときはに花の色やそやまし」の5首である。おおまかに和訳するとそれぞれ、同じことならば、見飽きることのない心のままに花を散らさないで見る方法があったらな/遠くにあった花の梢の香りがする、枝に知られないような小さな風が吹いているのだろう/吉野山の滝の流れに花が散ると、流れをせき止める石にこのように波が立ち寄り添い一緒に流れていく/むかし誰が深い心根によって神垣の花を植えたのだろうかあなたのために/吉野の山の桜に常緑樹の葉のように永遠に華やかさを添えたいといったところだろう。
吉野の茶会には全国の大名が参加してそれぞれ歌も読んだことがわかっているが、『太閤記』などの資料に和歌が見られるのは限られた人間のみ。つまりその中で上手い和歌を詠んだ人達の歌だけが後世に残ることとなった。ちなみにこのとき政宗は二十八歳であり、また官位も侍従と低かったが見事に和歌が資料に残っている。政宗の和歌の出来について加賀前田藩祖である前田利家から三代利常までの事柄をまとめた史料である『前田創業期』に「伊達政宗雖生辺鄙賤地、精和歌、尤萬人因促殿下之興(後略)」とあり、政宗の和歌が高い評価を得たことがわかる。

戦国の世が終焉に向かい、伊達政宗は仙台藩の藩主として領国経営に力を注ぐ。まず単純に晩年に行くにしたがって和歌・漢詩を読む回数が増える。そして、都の文化人と交流して都の文化を積極的に取り入れる。例えば連歌師・歌人である猪苗代兼如・兼与親子を召抱えた。『政宗公記』に「其頃都より兼如。其子兼与。同甥の兼益。其外兼也なんどと云人をまねき造作を以て召抱江戸仙台をかね。上下の奉公剰え兼如の弟正益をば。家来のものとなりとて。抱ひ玉ひ妻子どもに。引下し長時不断在城に置き玉ふ。」とあることからわかる。彼らは元々岩城家に召抱えられていたが岩城家が関ヶ原後に転封されたため、主を持っていなかったところを政宗に召抱えられた。兼与は近衛信尹に古今伝授を受けており、兼与を通じて政宗に近衛家の歌学が伝わったと考えていいだろう。また、寛永十一年三代将軍家光の上洛に従い京都に入った際『醒睡笑』の編者である安楽庵策伝との交流が有ったようで、7月十五日策伝を招いて策伝自筆の和歌集を譲りうけている。
伊達政宗は和歌を詠むだけでなく、和歌的世界を意識した行動。も行っている。寛永一三年(1636)年四月に体調不良にも関らず郭公の初音を求めて山々を巡る。ホトトギスの声は古来和歌などに「しでのたおさ」と読まれたことから死への連想が強い「政宗の和歌的知識からすればホトトギスが冥土から来るという伝承を例えば『拾遺集』の「死出の山超えてきつらむ郭公恋しき人ノうへ語らなむ」等を通じるなどとして知っていたと考えられる。とすれば自分の行動と伝統的和歌世界を結びつけあるいは政宗も郭公に死後の世界を尋ねてみたいという気持ちが有ったのかもしれない。」周りの人間に自分が教養の有る人間であることを見せる意味でもこういった行動をとることが有ったのかもしれない。
晩年の政宗の和歌を紹介する。「ささずとも誰かは超えん逢坂の関の戸を埋む夜半の白雪」は後水尾天皇編『集外三六歌仙』に収録されたもので、訳としては「閉ざさなくっても誰が逢坂の関を超えるだろうか、いや誰も超えない。夜中に関の戸に白雪が積もっているから。」といった感じになるだろうか。大雪で馬で超えていくことが難しいのか、或は雪に足跡をつけないように、という風流心によるものなのか、議論の余地が有る。辞世の歌は「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞゆく」である。

あくまで素人目に見てだがこれまで政宗の作風を見てきて、奇抜な行動で知られる人間の作にしてはあまりこれといった特色が無いように感じられた。もっと独創的なものは無いのか。実は政宗は狂歌風のものも得意としていた。「東から真っ赤な月がズバ抜けていづこの雲にかのたしこもらん」はっきりした時期はわからないらしいが公家から東北の訛り言葉をいれて歌を詠んでくださいと所望された時に読んだものらしい。狂歌風のものも得意としていた。このについて『政宗公集』編者の岡本聡氏は「政宗の詠歌には2つの傾向が有り、一つは伝統的な詠み方をしたものである。今一つは狂歌あるいは狂歌的詠歌で、政宗の個性的なものを求めるとしたらこちらの方であろう。(中略)政宗にとって和歌は個人的楽しみである前に社交の道具などといった実学なのである。そして和歌的世界をふまえた行動こそ、君主としてふさわしい、教養あふれるものであるという美意識が有ったことは疑いあるまいとすれば、まず個性よりも伝統的様式の方が大事である。」と述べる。
政宗は文化面を重んじる伊達家に生まれ、そこで得た実力をもって豊臣政権時代には集
囲の大名の評価を獲得し、晩年、平和な世になってからは、都の人間から和歌の知識を得ることで他の公家や文化人との交流を円滑に行った。
【参考文献】
高橋富雄「歌人・伊達政宗」高橋富雄・小林清治・早乙女貢・山田宗睦・網淵鎌錠・H・チースリク『シンポジウム伊達政宗』 新人物往来社 1987年
小井川百合子「桃山の遊楽と伊達政宗」
綿拔豊昭・岡本聡『政宗公集』古典文庫 1998年
小林清治『伊達政宗の研究』 吉川弘文館 2008年
佐藤憲一『伊達政宗の手紙』 洋泉社 2010年
小林清治・金沢規『伊達政宗 文化とその遺産』 理文出版 出版年不明

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