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2015/06/12

水曜4限概論発表

三回生になりました、けんけんと申します。
今回は、「南朝の皇子たち」というテーマで発表しました。AKB選抜総選挙の3日前ということもあり、同時に順位予想をまとめたレジュメも作りました。しかし大きく予想を外してしまって恥ずかしいので、今回は掲載しません。指原とたかみなは強かった。来年こそ的中させます。

はじめに
1336年、足利尊氏によって京都が占拠され、後醍醐天皇が吉野(奈良県)に逃亡した。尊氏は持明院統の光明天皇を擁立したため、京と吉野にそれぞれ天皇が存在するという形になり、南北朝時代が始まった。
鎌倉時代末期から南北朝期にかけて、全国では土地の利権や家督の相続などを巡って武士や寺院が対立しており、彼らはそれぞれ自らの利益のため、南朝と幕府および幕府内の対立の中に組み込まれていった。このような情勢下で後醍醐天皇は、自らに味方する勢力を糾合するために、全国に皇子たちを派遣した。
本発表では、皇子派遣の時代背景を概説し、後醍醐天皇の皇子たちがどのような目的で派遣され、どのような生涯であったのかを考察する。
(南北朝時代は勢力によって元号が異なるため、便宜上西暦で統一して記述する。)

≪時代背景~後醍醐天皇の討幕運動から南北朝の合一まで~≫
・悪党や僧兵を楠木正成や護良親王が糾合        1333年倒幕に成功
・幕府に不満を持つ足利・新田などの御家人を動員    建武の新政の開始
しかし、綸旨を万能として現実を無視した政策は様々な矛盾が生じ、批判が増加

・中先代の乱 1335年7月 鎌倉
  ○足利尊氏 vs 北条時行●
→尊氏は勝手に出陣し乱を鎮圧。天皇との関係が悪化、後醍醐天皇は尊氏謀反と断定し、討伐軍を派遣

・箱根・竹下(たけのした)の戦い 1335年12月 箱根・竹之下(神奈川県・静岡県)
  ○足利尊氏・足利直義 vs 新田義貞・脇屋義助●
→討伐軍を撃破した尊氏は京都へ進軍

・京都攻防戦 1336年1月
  ○楠木正成・新田義貞・北畠顕家 vs 足利尊氏・足利直義●
→尊氏は入京を果たすも、陸奥から駆け付けた北畠顕家の活躍もあり敗北、九州へ
九州で勢力を回復するとともに、光厳上皇の院宣を受け取る→賊軍から官軍へ

・湊川の戦い 1336年5月 湊川(兵庫県)
  ○足利尊氏・足利直義 vs 楠木正成・新田義貞●
→京都陥落、後醍醐天皇と尊氏の間で和議が成立。11月、神器を光明天皇に渡す
→1336年12月、後醍醐天皇吉野へ脱出、南朝を樹立
・1339年 後醍醐天皇病没、後村上天皇即位
南朝方は楠木正成・新田義貞・北畠顕家を代表とする南朝の中核を成す武将たちが戦死しており、勢力は非常に弱体化

・幕府は足利尊氏と執事の高師直が武士を統括し、直義が司法と行政を握る二頭政治によって運営
→幕府運営の意見の相違や支持基盤の違いによって確執が生まれる
幕府の内紛を衝いて南朝の楠木正行らが北進、山名時氏・細川顕氏(直義派)を破る

・四條畷の戦い 1348年 四條畷(大阪府)
  ○高師直 vs 楠木正行●
→楠木正行は戦死、攻勢に転じた高師直によって吉野は陥落し、後村上天皇は賀名生(あのう)(奈良県)に移る
幕府内では軍事的な結果を残した高師直側に権力バランスが傾く

・観応の擾乱 1350~1352年
  ○足利尊氏・高師直 vs 足利直義●
幕府内の権力争いが顕在化。尊氏派、直義派に南朝も含めて天下三分の形となる。直義が南朝と講和し高師直らを滅ぼすも、南朝と尊氏が講和し直義を攻撃、直義は鎌倉にて服毒死

・両派の内乱の間隙を縫って南朝の楠木正儀・北畠親房らが京都を占拠し、新田義興らが鎌倉を攻撃するなど大規模な軍事行動を起こしたが、直義派を倒した足利尊氏・義詮によって京都・鎌倉は奪還される。この後、南朝勢力は、講和派と主戦派の対立もあって減退。懐良親王が支配していた九州全域を幕府の派遣した今川了俊が制圧したことで、南朝の大規模な軍事行動は行われなくなった。1392年、室町幕府三代将軍足利義満は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するという形での南北朝合一を成し遂げた。

≪皇子の全国派遣≫

○○親王  生没年
生涯
①どこへ②いつ③誰と④目的
⑤派遣された目的の達成度の評価

護良(もりよし)親王  1308-1335
尊雲法親王と称し、のちに天台座主になる。後醍醐天皇の討幕運動が始まると、山奥に潜伏し全国に令旨を発して挙兵を促し、楠木正成とともに討幕成功の足がかりとなった。やがて還俗して護良親王と改名する。建武新政が始まると、称していた征夷大将軍を剥奪され、後醍醐天皇との確執、足利氏との権力争いに敗れ鎌倉に配流される。中先代の乱の際に、後難を除くため足利直義によって殺害された。

①比叡山延暦寺②1323年か④僧兵の糾合
⑤寺院勢力は、所領の問題に関して様々な不満を幕府に対して抱いていた。後醍醐天皇は護良親王を天台座主とすることで僧兵を糾合し討幕運動に利用しようとしたが、僧兵が軍事力の核になることはなかった。しかし1331年の元弘の変以降、護良親王が畿内に潜伏して発した令旨の影響力は大きく、討幕運動の成功後京都に凱旋した護良親王の軍勢は、『太平記』によると「畿内近国の勢打込(うちこみ)に(ひっくるめて)、二十万七千余騎」とある。二十万七千騎はいかにも誇大だが、護良親王の活動が鎌倉幕府討幕の重要な要因になったことは間違いない。

義良(のりよし)親王(後村上天皇) 1328-1368 
 南朝第二代の天皇。母は阿野廉子。後醍醐天皇は建武の新政を開始した際に、奥羽を鎮撫するために義良親王を派遣し、北畠顕家とその父親房に経営を任せた。1335年足利尊氏が京都へ進軍すると義良親王は北畠父子とともに西上し、尊氏を九州に敗走させた。1337年再度上洛し各地に転戦するも、顕家が和泉で戦死。親房らとともに奥羽へ帰る予定であったが船が難破したため吉野に帰還し、皇太子になった。1339年践祚。天皇になったのちも戦乱のために行宮を転々と移動し、自ら出陣し戦闘に参加したこともあった。
①陸奥多賀城②1333年③北畠顕家・北畠親房④奥羽の鎮定
⑤北畠親房(1293-1354)は後醍醐天皇の信頼厚い「神皇正統記」を著したことでも知られる南朝のブレーンであり、息子北畠顕家(1318-1338)も若年ながら非常に優れた武将であった。彼らをあえて東北地方に派遣したことからも、後醍醐天皇がいかにこの地域を重要視していたかがわかる。
北畠顕家は多賀(宮城県多賀城市)を国府とし、政務機構を新たに設け、北条氏から没収した地頭職を改編して機構整備に着手するなど、奥羽住人の掌握にほぼ成功した。しかし、足利尊氏の謀反によって二度も上洛し、義良親王が三度目の下向に失敗したこともあって、南朝は奥羽で大きな勢力を持ち続けることができなかった。


恒(つね)良(よし)親王 1322-1338   尊(たか)良(よし)親王 ?-1337年
 1336年、湊川の戦いに敗れた後、後醍醐天皇は足利尊氏と和議を結び、京都に帰還することにした。しかし、この和議への反対派の新田義貞の勧めもあって、恒良親王・尊良親王は義貞とともに北陸に下向した。
『太平記』によれば、このとき後醍醐天皇は恒良親王に神器を渡し、譲位の儀式を行なったとされている。しかし後醍醐天皇が吉野に行幸したため、譲位の件はなかったことになった。両親王は越前敦賀の金ヶ崎城に入ったが、足利方の高師泰らに攻撃され、1337年3月落城し、尊良親王以下多くの将士が自害した。『太平記』によれば、恒良親王は捕えられて京都に拘禁、毒薬を飲まされ、翌年4月13日に死去したとされている。

①越前金ヶ崎②1336年③新田義貞④北陸政権の樹立?
⑤この派遣の興味深い点は、恒良親王は天皇として北陸に向かっていることである。太平記に記述されている譲位の件であるが、『白河結城文書』には、陸奥の結城宗広宛に恒良親王が天皇として発給している綸旨もあるため正確である。すなわち、1336年末時点では南朝方にも天皇が二人いたこととなり、大きな矛盾を生じていることになる。
 後醍醐天皇は当初、自分に万が一のことがあった際には、恒良親王による北陸政権の樹立を考えていたと思われる。しかし吉野への脱出が成功し、北陸戦線も劣勢となったため、方針を転換したのであろう。またこのとき、三種の神器は後醍醐天皇、光明天皇、「恒良天皇」の三人が持っている、という不思議な状況になっている。
 結果的に北陸政権樹立作戦は、新田義貞の戦死もあって失敗に終わった。

宗(むね)良(よし)親王 1311-1384?
尊澄法親王と称し、護良親王の後を継いで天台座主になった。元弘の変の際に讃岐に配流されていたが、建武新政で帰京して座主に戻った。後に還俗して、遠江井伊城に下向。その後、信濃を本拠にして、越後・越中・武蔵の各地を新田義興らとともに転戦し、1352年には征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉を攻撃した。1374年、一時吉野に帰還、後に再び信濃へ下向。1384年ごろ、信濃で病死したとされる。
南朝君臣の詠歌を編集した『新葉和歌集』、自詠歌集『李花集』などがある。

①遠江井伊城
⑤宗良親王の動向を知るための文書史料はほとんどないため、彼がいつどこでどのような目的で軍事行動を行っていたのかを知ることは難しい。彼の『新葉和歌集』『李花集』には和歌とともに詠んだ状況を書いた「詞書(ことばがき)」が付されているため、それによって彼がどこにいたかを断片的に知ることができるのみである。信濃・越後・越中・武蔵などで、新田義貞の遺児たちや北条時行らと行動を共にしていたようであるが、大きな勢力となるには至らなかった。
 後醍醐天皇の皇子の多くは短命で志半ばで倒れているが、宗良親王は実に70歳を越える長寿であった。

懐(かね)良(よし)親王 1329?-1383
1336~1339ごろ、後醍醐天皇によって征西大将軍に任じられ九州下向を命じられた。従者は五条頼元以下十二人で、はじめ伊予忽那島で滞留し、1342年、薩摩に上陸し谷山城に入った。1348年菊池武光に迎えられ、ここを征西将軍府とした。1349年、足利直冬が九州に入ったため、九州は懐良親王方・幕府方・直冬方と三分する情勢となった。後に足利直冬・一色範氏・少弐頼尚らを破り、大宰府に征西府を移し、九州の全土をほぼ制圧した。しかし1371年、幕府が今川了俊を九州探題として派遣し、翌年了俊によって大宰府が陥落すると、南朝方は勢力を回復する望みがなくなった。懐良親王は筑後矢部(福岡県八女郡矢部村)に隠遁し、ここで没したらしい。

①九州(忽那島)②1336~1339?③五条頼元④九州の鎮定
⑤懐良親王の九州下向を考える上でまず興味深いのが、随伴する者の少なさである。恒良親王が新田義貞、義良親王は北畠顕家と強力な軍人を伴って下向したのに対し、懐良親王には雑書決断所等の職員であった文官の五条頼元しかついていない。軍勢を持たず、期待していた肥後阿蘇氏の支援を受けられなかったこともあって忽那島・薩摩に長く逼塞していたが、菊池武光に迎えられてからはその精強な軍事力によって九州を席巻した。
 九州全土をほぼ制圧した懐良親王は、当時の南朝方において唯一の大規模な勢力であったが、京都奪還のための軍事行動を起こすことはなく、むしろ独立国家のような体制をとっていく。独自に明の入貢要請を受け入れて、「日本国王良懐」とされるなど外交活動を行い、四国に発給した令旨は南朝天皇の綸旨と競合してしまう事態にまでなっている。このことなどから、当時の九州において征西将軍府は独立した政権であり、懐良親王は南朝の天皇と対等な存在であったとする見方もある。

まとめ
・後醍醐天皇は自らの息子たちに優秀な家臣をつけて全国に派遣した
・皇子たちは各地の勢力争いの狭間で盛んに活動したが、南朝復興という目的は果たせなかった
・将来を見越して自分の手元から優秀な人材を手放してまで各地での蜂起に期待するという戦略は果敢であり、後醍醐天皇が息子たちの何を見て「誰とどこに派遣するか」を決定していたのかが興味深い

南朝の歴史は敗者の歴史であるため、残存する史料が少ない。北朝における『園太暦』のような根本史料となるものもないため、親王らの発給した文書や北朝方の記録の他、『太平記』『増鏡』『神皇正統記』『保暦間記』などの文芸作品や歴史書も、その史料の性格を考えながら活用していかねばならない。

おわりに
南朝の皇子たちについて考察してきたが、この時代には他にも魅力的な人物が多数登場する。陸奥からありえないスピードで上洛して戦い、後醍醐天皇に辛辣な批判を突きつけた北畠顕家や、実の父への恨みから各地を転戦した足利直冬、足利義詮が首塚の隣に自らの墓を作るほど敵からも尊敬されていた楠木正行など、調べていく中で非常に興味を持った。
 今回は南北朝時代を南朝側からの視点で考察したが、北朝および幕府方からの視点でも調べてみたい。

参考文献
「国史大辞典」
瀬野精一郎『足利直冬』 吉川弘文館 2005年
森茂暁『皇子たちの南北朝-後醍醐天皇の分身』中公文庫 2007年
大島延次郎『北畠顕家」戎光祥出版 2014年

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