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2015/01/04

金曜3限概論発表

1回生の半熟です。
更新遅れてすみません。
今回は今川義元の息子、今川氏真による塩留めについて、「敵に塩は送らない」という題で発表しました。

1、はじめに
戦国時代に関心のない方でも、「敵に塩を送る」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。それは、「(上杉謙信が、塩不足に悩む宿敵武田信玄に塩を送って助けたという故事から)苦境にある敵を助ける。」(広辞苑第六版より)という意味であるが、では、そもそもなぜ武田信玄は塩不足に陥ったのであろうか。結論から言うと、それまで塩を武田氏に売っていた今川氏が、武田氏へ塩の販売を禁止した為である。それでは、なぜ今川氏真は塩留め(塩の販売を禁止した事を以下このように表記する)を行ったのであろうか。この疑問を解決するため、今回は塩留めに関してその前後を、それにまつわる今川氏・武田氏・北条氏・徳川氏さらには織田氏・上杉氏の動向を広く見いこうと思う。


2、甲相駿の同盟成立
 武田信玄・北条氏政・今川義元。彼らは戦国武将の中でも三英傑に次いで有名といっても過言ではないほどの猛者達であるが、そのイメージの大半は織田信長台頭後、つまり四十歳前後のイメージが強い。しかし、彼らがそれだけ勢力を拡大出来たのは、ひとえに、彼らが若き日より苦心し、やっと成立した甲相駿三国同盟のおかげに他ならない。ここではその成立と、そこに至るまでの苦心の程を紹介する。

◆以前の状況(○…同盟、●敵対)                   
今川・北条vs武田・関東管領上杉
○今川氏親・氏輝-伊勢宗瑞(後の北条早雲)・氏綱間…駿相同盟
実質は対等。もしくは北条の権限が強いが、書状等では形式として今川の地位が上。
●北条早雲・氏綱-関東管領上杉氏
○関東管領(扇谷)上杉氏-武田信虎
※今川氏輝-武田信虎間は、氏輝相続時に和睦したが、後に決裂した
◇人のやり取り <駿相(今川-北条)同盟より>
・瑞渓院(今川氏親と寿桂尼の娘・義元の妹)が北条氏康の正室に

◆今川義元(18歳)の家督相続
・天文五年 三月十七日 (『高白斎記』より)
十七日今川氏照(氏輝)、同彦五郎同時ニ死ス
玄広恵探と棈岳承芳(後の今川義元)の家督争い(花倉の乱)勃発。義元の勝利。
・北条氏綱の動き
義元を支持し、多過ぎる援軍を送る。
<氏綱の意図>両上杉氏他の動きが不穏であったため、そちらへの対応に集中するためにも、早く花倉の乱を終結させたい+旧領(河東)の回復
<義元の受けた印象>「義元が家督を継げたのはほぼ北条による軍事力のおかげ」と言われても
仕方ないほどの過剰な救援→対北条政治の地位低下の危機感
・武田信虎の動き
早くから今川義元支持を表明
本来なら駿河侵攻の絶好の機会にも関わらず、軍事行動を起こさない
乱終結後、甲斐に亡命してきた玄広恵探派を匿っていた家臣に切腹を命令
これに反発して、奉行衆が他国へ退散する事態になるが、信虎は義元支持を崩さない
(奉公衆…もとは独立した領主であった国人衆、信虎とは度々衝突していた)
・天文六年 二月 甲駿(武田-今川)同盟成立
これを受けて氏康が駿相(今川-北条)同盟を破棄
◇人のやり取り <甲駿(武田-今川)同盟より>
・今川義元が三条の方(公家三条公頼の娘)を武田信玄(信虎嫡男)の正室に斡旋
・定恵院(信虎の娘・信玄の姉)が今川義元の正室に

◆武田信玄(21歳)の家督相続
・天文十年 六月十四日 武田信虎が娘婿の義元への表敬訪問として駿河に出発
嫡男信玄はその間に国境を封鎖し信虎を追放
※今川義元の了承は事前に得ていたようで、その後信玄は父の生活費等を義元と協議し、不自由のないように手配した

◆北条氏康の苦難
・天文十年 七月 北条氏綱死去
・天文十四年                              
今川が山内上杉氏と同盟を結び、北条氏を左右から挟み撃ちにする作戦を敢行
氏康は、西に今川・武田、東に関東管領両上杉・古河公方との、両面戦闘を強いられる
氏康は武田晴信(信玄)に仲介を依頼
・ 同年 十月二十四日 武田を仲介として、(山内)上杉氏・今川氏・北条氏の和睦が成立

◆甲相駿三国同盟
・天文二十一年 十一月 甲駿同盟強化
・天文二十三年 七月  駿相同盟再び
・  同年   十二月 甲相同盟成立
◇人のやり取り <甲相駿三国同盟より>
・嶺松院(今川義元と定恵院の娘・氏真の妹)が武田義信(信玄嫡男)の正室に
・早川殿(北条氏康の娘・氏政の姉?)が今川氏真の正室に
・黄梅院(武田信玄の娘)が北条氏政の正室に


3、甲相駿の同盟結果
 この日本戦国史上他に類を見ない様相を持った三国同盟の成立により、三国は背後を固め、安心してそれぞれの敵へ前進することが出来る様になった。今川氏は松平氏、北条氏は山内上杉氏、武田氏は村上氏を攻め、それぞれ勝利を収めていく。

◆東の三つ巴 <長尾(後の上杉)・武田・北条>
山内上杉・村上両氏は敗北後、長尾景虎(以後上杉謙信と表記)のもとへ亡命し、謙信はこれを受け入れた。そのため北条・武田は以後上杉氏と長きにわたって争い続ける事となる。
・天文二十二年 第一次川中島合戦(上杉vs武田)
・ 同年    上杉謙信上洛
・弘治元年 第二次川中島合戦(上杉vs武田、今川義元が仲介する事で停戦)
・弘治三年 第三次川中島合戦(上杉vs武田)
・永禄二年 上杉謙信上洛
・永禄三年 小田原城攻め(上杉vs北条、上杉方は永禄四年四月までの約一年間関東に滞在)
・永禄四年 閏三月 上杉謙信は関東管領に就任し、上杉姓に改名
・ 同年 九月 第四次川中島合戦(上杉vs武田)
・永禄五年 関東出兵(上杉vs北条)
・永禄七年 第五次川中島合戦(上杉vs武田)

◆西の三つ巴 <織田・松平・今川>
・享禄五年(=天文元年) 今川氏豊(義元の弟)の那古野城を織田信秀が謀略により奪取。
・天文十六年 松平広忠が今川義元に降る事を表明。
嫡男の竹千代(後の家康)を人質に送る事を決めるが、手違いで竹千代は織田方に送られる。
・天文十七年 第二次小豆坂の戦い(織田vs今川、今川方の勝利)
・天文十八年 松平広忠死去
・ 同年   安祥城の戦い(織田vs今川、今川方の勝利、竹千代が今川に引き渡される)
・天文二十年 織田信秀死去
・永禄三年  桶狭間の戦い【勢力図③】 (織田vs今川、今川方の敗北、今川義元死去)
・永禄四年 四月 松平元康(以後徳川家康と表記)が今川から独立
         尾三(織田-松平)同盟成立
◇人のやり取り
・徳姫(織田信長の娘)が徳川信康(家康嫡男)の正室に

◆今川氏真の動向
・弘治三年前後 この頃から家督を継いでいたのではないかと思われる。
・永禄三年六月~ 桶狭間の戦いの敗戦・義元の死への動揺を抑えるべくかなりの数の安堵
状を送っている。
・永禄三~四年 上杉謙信による小田原城攻めにおいて、北条氏康の要請により援軍を派遣
・永禄四年 三月二十四日 小田原城援軍に氏真自身が出馬する意向を北条方に知らせる 

4、甲相駿の同盟危機 
 武田・北条は共通の敵上杉氏への対抗の為度々連携し、途中桶狭間の戦いで今川義元が倒れるという事態がありつつも、決して揺らぐ事のなかった三国同盟は、締結から十年余り経ち、もはや解消はないであろうと思われた。しかしそれは、織田信長の何気ない働きかけによって、おそらく信長本人も意図していなかったであろうが、崩壊を始めるのである。

◆織田信長の介入
・永禄八年 九月 信長方からの使者派遣により信玄-信長間に同盟締結の動き
      十一月 交渉成立
◇人のやり取り
・遠山夫人(織田信長養女)が武田勝頼の正室に
・(永禄十年末)松姫(武田信玄の娘)が信忠(織田信長嫡男)の室に(?)
 <信長の意図> 美濃攻め・上洛の為、背後である東側の武田との同盟を画策
 ※永禄八年 五月 足利義輝暗殺
 <武田信玄の意図> 東側の上野攻めの為、背後である西側の織田との同盟を画策
 <武田義信・今川氏真の不安> 信玄の、義信-氏真ラインから勝頼-信長ラインへの乗り換えでは

◆武田義信の悲劇
・永禄七年 第五次川中島合戦後から信玄・義信親子の関係に亀裂が生じ始める
・永禄八年 五月 信玄が嶺松院(義信正室・氏真妹)の病気回復を願う祈祷を大々的に実施
実施場所…駿河(今川領)国境付近の富士山麓勝山
信玄自ら細かい指示を出している
信玄が「駿河へ聞こえるだろうから手抜かりなく準備せよ」と述べている
・ 同年 六月 義信が一族や長老格家臣を従えて美和神社に金品を奉納
・ 同年 十月 義信側近の飯富虎昌らを処刑
同年十月二十三日、信玄から家臣の小幡民部助宛の書状より
「飯富兵部少輔の仕業として、信玄と義信の間を不仲にせんとする陰謀が露見したので、直ちに死刑に処した。父子の間にはもともと何の問題もない。安心せよ。」
・永禄九年 閏八月二十三日 三名の家臣に信玄への忠誠を誓った文書を提出させている
「知行を与える条件で言い寄ってくる人がいても、信玄様に反逆を企てたりは致しません。御気色悪しき人とは入魂に致しません」
御気色悪しき人とは、信玄の不興を買っている人物という事
当時信玄の不興を買い、更に家臣に知行を与えられるのは義信一人
・武田義信、信玄の命令で甲府東光寺に幽閉される
永禄十年 十月十九日 義信(30歳)、信玄の命令により自害

◆武田信玄の疑心
・永禄九年 信玄の文書の書き方が変化
・永禄十年 八月七日 信玄は信濃国小県郡生島足島神社に起請文を納めた
召集されたのは国境国衆を除くほぼ全軍
起請文は家臣237人から提出させた
信玄に忠節を尽くし、二心のない事を誓約させた
・ 同年  八月 甲斐・駿河国境にて「近ごろ、上りの荷物が非常に多い」という状況が見られる
・ 同年  八月十六日 勝頼が家臣に、駿河で陣触(動員の命令)が出ていないかの調査を命じる
・ 同年  十一月 今川氏真が信玄に、義信未亡人の妹(嶺松院)の引き取りを要求
信玄はその引換に今川氏真の起請文提出を要求
・ 同年  十一月十九日 嶺松院が駿河に帰る
・永禄十一年 二月 武田信玄が徳川家康との同盟の仲介を信長に依頼、受諾
今川領国を挟撃する事、今川氏滅亡後は駿河を武田が、遠江を徳川が領有する密約
・ 同年   武田による今川家臣の調略(武田が今川領に侵攻した折には寝返るとの約束を取り付ける事)をはじめる
 ※駿河に追放されていた父・信虎の功績が大きかったとされている

◆上杉謙信の参入
・永禄十一年 四月 今川氏真は謙信との同盟交渉を行う (※永禄十年説あり)
今川方の交渉担当は重臣三浦氏満・朝比奈康朝
下記の内容の密約を成立させる
①両氏は武田信玄の動向に注意し、互いに裏切る行為をしない
②謙信は今川氏真の要請があり次第信濃に出兵する
③武田信玄の裏切りはそう遠くない時期であろうから、両氏は連絡を密にする
④謙信の元に武田信玄から計略の書状が届いたら、ただちに今川氏真に知らせる
今川氏真は交渉過程において、謙信とは父義元の代より友好的な関係にあると強調している
以後、三国同盟内部の情報が今川氏から上杉氏に漏洩する

◆今川氏真の塩留め
・一種の経済制裁                             
・武田領はそのすべてが内陸であり、それまで塩の輸入をほぼ同盟関係の今川・北条に頼っていた
・氏真は北条氏康の協力を取り付け、両領国から武田領への塩の輸出を禁止した
・時期…永禄十一年前半~永禄十二年一月 (※永禄十年説あり)
・氏真の事前準備
永禄九年 四月三日 
駿河富士大宮(富士浅間本宮を中心とした門前町)の六斎市を楽市にするよう命令
永禄九年~十一年 各地に徳政令を命令【参考①】
※塩・武具等を扱う一部の商人のみ、これらを免除 ⇒商人との連携を密に
・永禄十一年 五月 武田信玄は氏真に、義元への弔い合戦として共同で三河へ進行する事、その作戦成功時の領土分割を提案したが、氏真はこれを拒否
・ 同年  六月二十五日 氏真は相模の秦野城主、大藤式部少輔による塩荷の密輸業者討ち取りに感状を出す


4、甲相駿の同盟瓦解
◆駿河攻めのはじまり
・永禄十一年 十二月六日 信玄は今川氏真と断交し駿河へ侵攻、家康も呼応して遠江へ侵攻
・信玄は北条氏康に駿河攻めの理由を、「駿河(今川)と越後(上杉)が申し合わせて信玄を滅ぼそう
としたので、駿河に対して戦端を開いた」とし、北条にも今川への断交・侵攻を打診
◆北条氏康の怒り
・今川方は武田方による事前の調略の為内応が相次いだ
 ※各地では今川重臣が籠城を続けている
・永禄十一年 十二月十三日 今川本拠である駿府を武田方が占領
今川氏真・早川殿は懸川城に脱出(その後徳川に包囲され五か月籠城)
早川殿はこの時、乗る輿もなく、裸足で脱出した
氏康が激怒
・ 同年  同日  北条が武田との同盟を破棄し、氏真支援のために出陣
駿河・甲斐国境に陣取り、武田の退路・補給経路を断つ
武田方が退路確保の為北条との戦闘をはじめると、手薄になった駿河では今川方が一揆集と組織して再奮起
武田信玄は今川・北条双方に打撃を与えきれず、事態は長期戦の様相を呈しはじめた
氏康は嫡男氏政の室であった黄梅院(武田信玄長女)を甲斐に送り返す

◆徳川家康の見限り
・永禄十一年 十二月十八日 武田の一家臣団が、徳川が担当しているはずの遠江に侵入、徳川軍と衝突した
家康は武田信玄に強く抗議
信玄はその家臣を撤退させ、釈明。両氏の関係に変化がない事を誓約
・永禄十二年 三月 懸川城を包囲する家康と今川氏真の間で和睦の動き
この時家康は氏真に、北条氏康と共同で武田信玄を討ち、氏真を駿府へ帰還させる事を申し入れている
同年 四月七日、武田信玄は徳川家康に、和睦中止を求め直接交渉
同年 五月六日 今川氏真が徳川の講和に応じて開城
・ 同年 五月二十三日 武田信玄は織田信長に、家康が北条と和与しないよう働きかけるよう依頼

◆上杉謙信の中途半端
・永禄十一年 十二月十九日 北条が上杉に、武田打倒のための和睦を打診
・永禄十二年 二月 武田信玄の要請をうけた織田信長・足利義昭が謙信に、武田との和与を命じる
御内所発給
・ 同年  二月 徳川家康が謙信との接近を図る
・ 同年  五月 武田-上杉和与の形が整う
・ 同年 閏五月 北条-上杉同盟成立、北条三郎(氏康七男)が謙信の養子に
・ 同年  七月 武田-上杉和与が成立
・元亀元年 八月 武田-上杉和与破棄 ・ 徳川-上杉同盟交渉が本格化
・ 同年 十月 徳川-上杉同盟成立(家康は信長が信玄と手を切るよう働きかけると約束)
・元亀二年 四月 武田・北条和睦の噂が流れ、謙信が北条氏康に詰問(事実無根)
・ 同年  十月 北条氏康死去
・ 同年  十二月 氏政は武田-北条同盟を成立させ、北条-上杉同盟を破棄

◆今川氏真のその後
・北条領伊豆の戸倉城に入る
・永禄十二年 五月二十三日 氏真は北条氏直(氏政嫡男、8歳)を養子として迎える。
 氏真が北条氏直に駿河守護の継承を認める=北条氏政に駿河国を譲渡
 氏真は統治補佐役として実権の一部は保つ
・発給文書は懸川城籠城中に27点、戸倉城で42点
・元亀二年 十月 北条氏康死後、氏政によって放逐され、徳川家康のもとに身を寄せる
・天正三年 徳川家康のもとを離れ上京
・徳川家康により、一時期駿河の牧野城を与えられるが、没収され、再び上京
・慶長十二年 徳川家康から武蔵の品川に領地を与えられる (※十七年説あり)
・慶長十八年 二月 早川殿死去
・慶長十九年 二月二十八日 氏真死去(77歳)


5、まとめ
 武田・北条・今川三氏は、互いの利害の一致により強固な同盟を形成し、それにより大規模な領土拡大に成功した。しかし、国の位置関係から、武田・北条と今川との間で上杉・織田氏に対する認識に大きな誤差が生じ、結果、両氏が三氏に干渉するとたちまちに同盟は瓦解してしまった。塩留めとは、そういった認識の差に苦しんだ氏真が、今川家存続の為に繰り出した最後の切り札であり、それは武田方にかなりの被害を出したものと思われるが、かえって武田氏を追い込み過ぎたが故に、戦国大名今川氏の滅亡を早めてしまったのである。


6、おわりに
 戦国大名今川家は、義元が桶狭間の戦いで信長に敗北したという事が有名になり過ぎているせいで、あまり良い印象を抱かれてはいない。二代目氏真も、愚将として語られる事が多い。しかし、今回今川氏にスポットを置いて調べてみた結果、彼は優れた内政・外交を行っていたと十分言えると思う。
 塩留めは、一般に上杉謙信の美談ばかりがもてはやされ、肝心の本質について全く触れられていない。それがいかに多くの人々が互いに影響し、高度な政治的駆け引きが行われた結果であったのか。実におもしろい課題であるので、是非とも、より多くの人に知っていただきたい。


参考文献
・小和田哲男:編、菅英志:発行 『今川義元のすべて』 1994年 新人物往来社
・久保田昌希 『戦国大名今川氏と領国支配』 2005年 吉川弘文館
・平山優 『武田信玄』 2006年 吉川弘文館
・鴨川達夫 『武田信玄と勝頼 -文書にみる戦国大名の実像』 2007年 岩波書店
・橋場日月 『新説桶狭間合戦 知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』 2008年 学習研究社
・高野澄 『戦国政略結婚史 浅井三姉妹が生きた時代』 2010年 洋泉社
・乃至政彦 『上杉謙信の夢と野望 幻の「室町幕府再興」計画とその全貌』 2011年
  洋泉社
・谷口克広 『信長と家康-清州同盟の実体』 2012年 学研新書
・戦国武将勢力地図 http://www.geocities.jp/seiryokuzu/ 2014年9月27日18:06確認

補、今川氏真の領国支配
・永禄九年 四月三日
駿河富士大宮(富士浅間本宮を中心とした門前町)の六斎市を楽市にするよう命令。
富士氏は代々富士浅間本宮の宮司を務め、同時に国人領主として富士大宮城に在城しつつ地域支配を行い、今川有力武将として今川権力の一端を形成
この永禄九年以前にはこの市に関する文書は見られない
 →この年初めて今川権力を介入させる事に成功したのではないか
原因は、商売を認められなかった非座商人(新興)の座商人に対する敵意・対応から地域一帯の治安が悪化した事
(楽市令の20日前に今川から富士氏に秩序・治安維持を定める五ヶ条の定書が出さ
れている)
富士氏の座組織が解体され、門前町から城下町へと移行していった

・永禄九年
井伊谷一帯に徳政令を命令するが、井伊氏はこれを二年間放置
井伊氏は、商業が盛んな井伊谷の地域支配を行う国人領主
井伊氏は、座商人の特権を肯定せず、新興(井伊谷周辺でのみ限定した商品の取り扱いを独占した)商人との関係が深かったため徳政を実行しなかった
井伊氏の対応に不服を抱いた井伊谷の本百姓が氏真に直訴した事で、永禄十一年、今川は井伊氏に徳政を強要させた
※この時、一部の商人に対してのみ徳政を免除し、その独占を安堵
※今川義元は徳政令を(三河の少数の例を除いては)行っていない
⇒国人領主が領地の問題を自己解決出来ず、上級領主の今川の政治力に頼って解決した事で、
国人領主の支配が否定され、今川権力の介入を肯定する形となった
⇒今川の支配の行き届く領域を増やしつつ、塩や鎧の材料等の必需品だけはごく少数の商人
にその独占を許す事で、彼らとの連携を密にした

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