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2015/01/04

木曜2限 概論発表

あけましておめでとうございます!
2回生のマサちゃんです。

秋学期の概論では「防人と東国」について調べました。

万葉集にこんな歌があります。

 韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてそ 来ぬや 母なしにして
 (巻20-4401 国造小県郡の他田舎人大島)
 <韓衣の 裾に取りすがって 泣く子どもを 残して来たんだよ 母親もいないのに>

古代、国土辺境の地を警備するために兵が置かれました。それが「防人」です。防人は主に東国から集められ、九州北部の沿岸を警備するために派遣されました。東国の人々にとって、家族を置いて九州という遠い地まで出仕することは大変な重荷だったに違いありません。上記の歌は、そんな防人が詠んだものとして万葉集に収められています。

そもそも何故防人は必要とされたのでしょうか。その原因は663年の白村江の戦いにおける敗北に求められます。朝鮮半島における勢力を唐と争ったこの戦いで、日本は敗北し大陸における足場を失いました。迫り来る唐の脅威を恐れた時の天智天皇は、半島に最も近い北九州を警備する命令を下します。

 是歳、対馬島・壱岐島・筑紫国等にと烽とを置く。又筑紫に、大堤を築きて、水を貯へしむ(『日本書紀』天智天皇三年条)

これが、「九州に」防人を置くという最初の記事になります。結果的に唐が侵略にやって来ることは無かったのですが…。

最初に防人の多くは東国出身だと述べましたが、九州北部を警備するのなら、その土地の人間に任せればいいと思いませんか?一体何故、防人は主に東国から集められたのでしょうか。そもそも本当に東国出身者ばかりなのでしょうか。以下、東国と防人に関する史料を元に、考察していきたいと思います。

考察その1◆軍防令

防人制度は、701年の大宝律令にて確立したものと考えられています。しかし大宝律令は現存していないため、防人制度がどのようなものであったかは、養老律令(大宝律令と大差無いとされる。こちらも現存せず)の注釈書『令義解』を元に復元するしかありません。

 衛士の京に向かひ、防人の津に至らむ間には、皆國司をして自ら親しく部領せしめよ。…(略)…津より發たむ日には、專使部領して、大宰府に付けよ。(『令義解』軍防令)

これが法的にまとめられた防人制度の一文になります。ここで注目したいのが、「防人の津に至らむ間」「津より發たむ」の部分。「津」というのは難波を指します。防人は筑紫国へ向かうのに難波を通過するものだったことが分かります。つまり、この条文は防人は難波より東側に住む人々が対象であることを示しています。

考察その2◆万葉集の防人歌
日本最古の和歌集『万葉集』には、東国出身の防人とその家族が詠んだ歌が「防人歌」として収録されています。その数凡そ100首。東歌と同じく東国独自の方言が強く、作者名がはっきりしているのが特徴的。『万葉集』では防人=東国のイメージが強いです。
ただし、万葉集に収録されている防人歌は、難波で大伴家持が各国の部領使に提出させたもの。つまり、難波を通過する東国出身者の歌しか載っていないのは当然。よって、防人が東国から集められた理由はここからは分かりません。防人が東国ばかりから集められた証拠としても不十分と言えます。

考察その3◆「諸国の防人」
そんな万葉集ですが、続日本紀の記事とあわせて興味深い記載があります。
 
 諸国の防人を停む。(『続日本紀』天平二年九月己卯条)

 天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等が歌(『万葉集 巻二十』右注)

上は、続日本紀に見える天平二年(730)の記事です。が、何が理由なのか、諸国とは具体的にどこを指すのか、詳しい内容が読み取れない謎の一文でもあります。この「諸国」がどこを指すのかは諸説あり、「東国諸国」「西国諸国」「全ての国」などが考えられますが、どう解すかで記事の意味が変わってきます。
そのヒントと成り得るのが、万葉集の記載です。注目すべきは、ここでも「諸国」の文字が見えること。万葉集にはこの一文の後に具体的な国名と歌が続くのですが、その国名は全て東国のもの。つまり、万葉集では「諸国の防人」=「東国諸国の防人」なのです。そして、万葉集の「諸国の防人」と続日本紀の「諸国の防人」を同じものとするならば、諸国の防人を停む」=「東国出身の防人を停止する」と理解することができます。
ただし、考察その2で述べたように、歌の採録地が難波であるため東国出身者の歌ばかりが載っているのは当然であって、「諸国」を証明するには不十分であることは指摘しておきます。

考察その4◆勇健な東人

防人に関する史料を調べていくと、東国出身の防人を停止する内容の記載が複数見つかります。二度三度同じ命が出されているのは、命に従わず東国出身の防人が徴用され続けていた実情を示しています。朝廷は蝦夷征討に東人を動員したかった一方、筑紫国では西国より東国出身の防人の方が有能で頼りにしていたようです。東国防人停止に際して、大宰府がその復活を二度訴えたことが史料に残っているのですが、その中で興味深い一文があります。

 …(省略)…勇健に非ずは防守済し難し。望み請はくは、東国の防人を旧に依りて戍に配せむことを。(『続日本紀』天平神護二年四月壬辰条)

東国防人停止により防人は一時西国から徴集することになったのですが、大宰府は「西国人は勇健でないから辺境を守ることが難しい、元のように東国の防人を復活させて欲しい」と朝廷に訴えています。この一文から、逆に考えると一般的に「東人は勇健である」と認識されていたと言うことができます。東人は兵士として優秀な人材が多かったのでしょうか…。


◆まとめ
確証は得られませんでしたが、東国出身者は勇健で兵士として優秀だった故に防人として重宝されたと言えます。また、東国だけでなく西国の防人も存在していたこと、防人歌の採録地が難波であることは防人を考える上で見落としがちな点です。他にも東人が防人として重宝された理由としては、

・役務から簡単に逃れられないように、あえて遠い東国から徴集した
・白村江の戦いで損失した西国の兵力では、防人が賄えなかった
・防人という中央派遣の兵力による、西国の在地有力者に対する牽制
・辺境の地を警備させることで中央への服属を意識させる

などの諸説がありますが、はっきりしたことは分かりません。
当時の人々が東国に対してどのような印象を持っていたのかもあわせて、また調べなおしたいと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました!


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