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2014/12/12

金曜3限概論

こんにちは、2回生のるっくです。私は今回、幕末薩摩で起こったお由羅騒動について調べました。

はじめに
 
お由羅騒動とは島津家最大の後継者争いである。しかし、ただの後継者争いではなく、薩摩の藩政を大きく揺るがして、幕府をも巻き込む大事件であった。また、この騒動をきっかけに幕末の薩摩を先導することとなる、大久保利通や西郷隆盛らが政界に台頭するようになる。ここでは、お由羅騒動が起きた原因と経緯、そして、薩摩藩政や幕政に与えた影響についてみていく。



御家騒動とは
 
御家騒動の内容は大きく以下の3つに分類される。お由羅騒動は①と③に当たる。
①家臣間の抗争(ex. 銀札騒動)
②主君・家臣間の抗争(ex. 黒田騒動)
③家督相続(ex. 二の丸騒動)


薩摩の財政難と財政改革
 
島津重豪の開化政策により、薩摩は500万両もの負債を抱えていた。そこで、財政改革を任ぜられた側用人の調所広郷が黒砂糖の専売や250年賦償還を行った結果、薩摩の財政は約150万両の黒字にまで回復した。しかし、弘化元年頃になると薩摩の主な収入源であった琉球に西欧諸国の船が往来し通商を要求するようになったが、これに対して、藩主の斉興や調所広郷は良い解決策が浮かばず苦心していた。また、調所広郷の強引な財政改革に反感を持つものが現れ、薩摩の重臣は調所派と反調所派に分裂していった。
斉興の子、斉彬と久光
斉興には、正室の子である斉彬と、側室(お由羅)の子である久光の2人の子がいた。斉彬は、曾祖父である重豪に可愛がられていたこともあり、重豪の影響を強く受けて開化政策に興味を持っていた。また蘭学を学んでいた斉彬は大変聡明であったので江戸でとても評判となり次期藩主として期待されていたが、蘭学に馴染みのない薩摩藩士からは敬遠されていた。一方、久光は薩摩育ちで好奇なものを好まず犬追物や相撲を好んだこともあり、保守派の藩士から支持されていた。


お由羅騒動
調所広郷の財政改革により薩摩が財政難を免れると、斉興の後継者問題が浮上した。薩摩の重臣たちは、調所派・反調所派だけでなく、新たに斉彬派・久光派の派閥に分裂した。藩主の斉興と調所広郷は、重豪の影響を受けている斉彬が後継者となれば、重豪のときと同じように財政難に陥るのではないかと危惧し、お由羅の方と手を組んで久光を後継者にしようと画策した。斉興と調所広郷という後ろ盾を得た久光派は圧倒的優勢であったが、斉彬派の謀略により調所広郷の密輸が幕府に露見し、調所広郷は責任を負わされ自害に追い込まれた。調所広郷が亡くなったことにより調所広郷を巡る派閥は事実上消滅するが、斉彬の子女が次々に早死しているのは、調所広郷の協力者であった島津将曹らの置毒によるものだという噂が立つようになった。その後、斉彬派の町奉行兼物頭 近藤隆左衛門らが島津将曹やお由羅の方の暗殺を計画するが、計画は藩庁に漏えい。暗殺の首謀者である近藤らは死罪となり、その他にも斉彬派である約40名に死罪や配流などの処罰が下される大事件となった。



阿部正弘と斉彬
 
斉興と調所広郷が久光側に付いたことで不利な立場になった斉彬は、予てから関わりがあった老中 阿部正弘に薩摩の内情を伝え、協力を求めた。斉彬を高く評価していた阿部正弘は、斉彬の友人である宇和島藩主の伊達宗城らと協力して調所広郷を自害に追い込み、斉興を隠居させることに成功した。嘉永4年2月に斉彬が薩摩藩主の座につき、お由羅騒動は終焉を迎える。藩主となった斉彬は外国と通商を行い、西洋の文明を理解して技術を習得することで日本は豊かな強い国になると考えていたので、集成館の造設などに力を入れた藩政改革を行った。また、公武合体の立場をとった斉彬は、孝明天皇の援助を行う一方で、養女の篤姫を13代将軍の家定に嫁がせて将軍家との繋がりを強めていた。安政5年には、薩摩の精鋭3000人を率いて上京し、御所を護衛するための大規模な軍事演習を城下で行った。しかし、その同年7月に斉彬は突然病を発し、50歳という若さで亡くなった。


久光による藩政
 
斉彬の死後、久光の子で斉彬の養子となっていた忠義が藩主の座についたが、忠義は当時19歳であったため久光が国父として後見人となり、藩政を代行することとなった。久光は斉彬と同じく公武合体の立場をとり、斉彬の藩政路線を引き継ぐことを表明したので、斉彬が登用した大久保利通や西郷隆盛ら下級武士(誠忠組)の支持を得ることに成功した。文久2年、坂下門外の変以降、権威を失墜させていた幕府に代わり政局の主導権を握るために兵を率いて上洛し、朝廷から幕政改革を命じる勅諚を得た。しかし、久光の上洛時に薩摩の有馬新七ら過激尊王攘夷派が倒幕挙兵を計画していた。公武合体を前提とした幕政介入を目論んでいた久光は、尊攘派の説得のために奈良原喜八郎らを送ったが、説得に失敗したため激しい乱闘が起こった。この寺田屋事件の結果、薩摩藩内の尊攘派は一掃され、藩論は公武合体で一致した。その後、薩摩は公武合体派の中心勢力となっていく。


おわりに
 
お由羅騒動は単なる後継者争いや、正室と側室による権力争いではなく、背景には貧窮する薩摩の財政事情があった。斉彬派の中には反調所派の者が多く存在していたことから、お由羅騒動は藩内の権力闘争の末に起きたものと考えることができるだろう。お由羅騒動を境に薩摩の藩政や権力者は一変し、その後、幕末の日本を明治維新に導く中心勢力になっていった。薩摩が雄藩になるのに欠かせない重要な出来事であったといえる。また、この御家騒動に関しては、幕府が介入したというより斉彬が幕府を利用したといったほうが正しいのではないだろうか。お由羅騒動には不安定で複雑な政治情勢が表れているといえるだろう。今回は島津家から見たお由羅騒動について調べたが、お由羅騒動をきっかけに政界へ台頭する大久保利通や西郷隆盛ら下級武士からみたお由羅騒動についても調べてみたいと思った。

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