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2014/12/03

月曜4限概論

2回生の惣流です。今回はチェリャビンスク-40について調べてきました。

チェリャビンスク―40(チェリャビンスク―65、現生産合同マヤーク)は、現在のロシア、旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)のチェリャビンスク州オゼルスク市 の別名であるこの都市には、ソ連最初のプルトニウム生産工場、マヤーク核技術施設 が隣接しており、存在すること自体が国家機密として隠されていた秘密都市である。ソ連時には主としてプルトニウムを抽出していたが、その運転の過程で大量の放射性物質が放たれた。しかしながら、秘密都市の性質上このことが明るみに出るのは、汚染の発生から20年以上も後のことになる。ここでは、チェリャビンスク―40という秘密都市と核施設を通して、ソ連の核開発の実態を少しでも理解いただければ幸いである。ここでは、チェリャビンスク―40という秘密都市と核施設を通して、ソ連での核に対する重要性を明らかにしたい。

2.秘密都市―チェリャビンスク
概要 ソ連は、米国に対抗するため1940年代初期から核兵器開発を行い、核関連施設を原子力関係者や囚人を総動員し、破格の早さでこれらを建設していった。これらは初め10の秘密都市として知られ、後に44都市へと増加した。チェリャビンスク―40は初期に建造された10の秘密都市のひとつであり、同時にマヤーク核技術施設が既存の化学工場を基にして建設された。主な業務はプルトニウムの抽出、核廃棄物の再処理である。「秘密都市」は所在地を秘密にするため地図への記載が禁止され、関係者又は住民以外の接触は厳しく制限された。当然のことであるが、住民は外出時に細かな住所を話してはならず、どのような仕事についているのかも隠さなければならなかった。そのような徹底的な情報管理の下、核関連施設が運営されていた。
歴史 1910年にチェリャビンスク州北部のキシュテムで銅工場が稼動した。オゼルスク市はかつてのキシュテムの一部にあたる。キシュテムの銅工場はロシア革命後の1917年12月27日に革命政権によって国有化された。1945年11月14日のソ連邦人民委員会議により、キシュテムにプルトニウム製造拠点(817号コンビナート、マヤーク核技術施設)を建造する方針が決定された。後に副首相になるザヴェニャーギンがキシュテム地区から選出されており、その彼が建造地を選定したからである。1946年初頭から、囚人、軍事建設部隊、兵士などが施設建設のため現地入りし建設作業をおこなった。建設労働者のための住宅建造が9月に決定され、これがチェリャビンスク―40の始まりとなる。建設の優先順位は高位に位置していたようで、追加の労働者(主に囚人)を求めれば、速やかに聞き入れられた。恐らく、チェリャビンスクにドイツ軍捕虜の収容所があったためである。(3万2千からさらに半年以内に1万人、)当時、施設建設のスピードを上げるために、建設現場では囚人あたりにノルマが決められていた。このノルマを達成すると1日の労働で2日分の刑期を努めたことにする計算が適用された。その結果、迅速な施設建設が達成されたが、反面ソ連政府の無理のある建設計画も結びつき、事故や汚染の多発施設が建設されることとなった。チェリャビンスク―40内のクルチャトフ研究所 で1946年12月25日にソ連初の実験炉F1が初臨界を達成した。さらに、原爆開発を目的としていたソ連は、ソ連初のプルトニウム生産炉の1号炉を1948年6月から稼動させた。ここで、生成されたプルトニウムは1949年8月29日にソ連で初めておこなわれた核実験(RDS-1)に使用された。プルトニウム生成炉は1952年までに2、3、4、5号炉が運転を開始した。また、1948年12月からは放射化学工場 も稼動していた。放射性化学工場は、当時技術が未熟だったため高レベル液体廃棄物をテチャ川に投棄しており、放射性廃棄物貯蔵施設も十分な広さがなかったためこれもやむなく汚染物質をテチャ川に放流 した。その結果、テチャ川を中心として下流地域が広く汚染された。ソ連は、アメリカに対抗するために一刻も早く原爆の完成を待ち望んでおり、結果として未熟な技術・十分な検討なしの施設設計のまま核事業を進めることになった。

3.ウラル核惨事
 ウラル核惨事は1957年から今日までに発生した、マヤーク核技術施設の事故及び排出された放射性物質に起因する事故の総称である。ここでは特に重大な事故を2つほど挙げたい。
3-1.キシュテム事故
 原子力開発草創期のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていないか、もしくは影響を低く見積もっていた。さらに、技術的な問題も結びつき、放射性廃棄物は付近のテチャ川やカラチャイ湖に放流されていた。付近の住民に健康被害が生じるようになると、液体の高レベル放射性廃棄物は濃縮タンクに貯蔵する方法に改められた。1957年9月29日に濃縮タンクの1つが爆発し 、放射性物質 が20,000㎢が撒き散らされ、約3万4千人が被爆した。史上3番目に重大な原子力事故であり、その事実は1976年にソ連の亡命科学者であるジョレス・A・メドベージェフが科学誌(ニュー・サイエンティスト)に掲載した論文で初めて明るみに出る。ソ連が事実を認めたのは1989年であり、地域住民に事実が知らされるのはさらに後の1992年前後である。
3-2.汚染物質の嵐
 上に記したカラチャイ湖 は、1951年9月から中間貯蔵場として使用されるようになり、大量の放射線廃棄物が湖水という蓋の中で保管されていた。1967年の乾季のとき、湖水水位が異常に低下し4月10日から5月15日までの間に、放射線で汚染された沈殿物などが強風によって3,000㎢の範囲に撒き散らされた。

マヤーク核技術施設では、比較的大きな事故はこれまで32回発生しており、現在までに事故も含め自然界に放出した放射線量は、チェルノブイリ原発事故の20倍ともいわれている。

4.ソ連の核戦略
 ソ連の戦略構想の中に原爆を持ち込ませたのは、ヒロシマであった。ソ連指導部はこれ以前に原爆の戦術的重要性を理解しており、1943年4月12日に国家防衛委員会が核開発計画の開始を決定していた。しかし、ヒロシマが原爆を戦略構想にまで待ちこんだ。原爆は、外交と切り離せない関係を持つことになるのである。そのため、スターリンは原爆の開発をさらに加速させた。内務人民委員部(NKVD)の内務人民委員であるラヴレーンチイ・ベーリヤが議長であった国家防衛委員会直属の原子爆弾特別委員会は、計画に主導的な働きをはたした。NKVDも多くの任務を担った。原子力開発のために建設労働者などを収容所や刑務所から提供することや、さらに、秘密都市で核開発を行い、科学者などで構成される集団を強大な圧力の下で指導することで、情報が外部へ漏れることを防いだ。委員会は、アメリカのスパイからもたらされた情報を分析し、一刻も早く原爆を入手したいスターリンの意思を汲み、その設計情報を利用できるものであると判断した。その結果、ナガサキで使用されたファットマンとほぼ同じものをソ連は製造した。原子爆弾特別委員会は日常の計画を管理するため、人民委員会議第1総局を設置し、その傘下には科学技術協議会が設置され、副議長にソ連原爆の父といわれる、イゴーリ・クルチャトフ が就任していた。
 1946年スターリンとクルチャトフはベーリヤが同席した上で会談をした。スターリンはクルチャトフに対し、原爆開発に関しては全面的な援助が認められること、原子力計画を「断乎」前進させることが重要であると力説した。また、いくらかの科学者、例えばカピッツァなどの科学者に対する有用性の疑問が投げかけられた。これは、ソ連科学者に対する指導部の不信をまざまざと表している。そして、その上でスターリンは今後科学に大々的な投資を行い、その見返りとして科学者の政治的忠誠を期待するとクルチャトフに伝えてきた。原爆の開発は、スターリンと科学者の歩み寄りの可能性を作り出した。1946年2月9日、スターリンがクルチャトフと会ってからちょうど二週間後に、新5カ年計画が明らかにされた。ソ連の経済政策を戦前の重工業優先にすることや、第二次世界大戦が生み出した先端技術、つまり原子爆弾に優先権を与えていた。
 スターリンの指示によって、戦争で経済を徹底的に破壊された段階から、急な速度で開発が始まった。行政システムはすばやい開発には有効な役割をはたしたが大きな問題も発生させた。原爆開発を急ぐ反面、健康や安全は、完全ではないといえども二の次にされた。チェリャビンスク―40でも作業員の保険基準と規則が策定されたがそれはまったく守られなかった。放射線障害の症例は、1949年の初めにチェリャビンスク―40であらわれた。科学者は放射線の危険を知ってはいたが幾分許容線量大目に見積もっていたし、原爆を製造せよとの絶大な圧力をかけられ、その中で働く科学者はこのプロジェクトの目標を死活の問題と受け止め、あえて高レベルの放射線に身をさらすことを辞さなかった。環境汚染も同様に、原爆製造の過程で見過ごされてきたのである。

終わりに
 チェリャビンスク―40で発生した放射線による環境汚染は、技術と行政の双方の問題から発生したものであった。放射線物質の保存に対する技術が未熟であったこと、原爆開発への圧力が放射線のもたらすリスクから注意をそらしてしまい、さらにスターリン体制の下で被害者が抗議の声をあげることができなかったことも汚染の拡大につながった。そして、フルシチョフの時代へと進み、ソ連は核軍備競争へと突入する。アメリカに対して大幅な遅れをとっていたソ連は、放射化学工場のあるチェリャビンスク―40を稼動させ続けた。指導部の圧力は、結果としてスターリン時代と同様の結末をもたらし、度重なる事故と環境汚染が発生した。そして、冷戦の終わった現在では自分たちが製造した負の遺産を再処理するために老朽化した施設は稼動を続け、更なる汚染を引き起こしている。現状ではチェリャビンスク―40と同様の施設はトムスク―7(シベリア化学コンビナート)であるが設備の問題上再処理は限定的でしかない。ウラルの核惨事は現在も進行中である。

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