--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2014/11/29

水曜3限概論発表

はじめまして、1回生の喜撰の明灯です。よろしくお願いします。
今回私は「一柳氏と黒田如水」というタイトルで発表しました。

私は2014年の大河ドラマの主人公、黒田如水について調べていました。その中で、「彼が隠居として福岡にいた頃、一柳松千代(ひとつやなぎ・まつちよ)という少年を引き取って育てていた」という話を聞きました。調べてみると、この松千代少年は如水の妹の子、すなわち甥っ子でした。身内とはいえ、よその子を引き取るとはいったいどんな事情があったのでしょうか?今回は松千代を中心に、彼の実家:一柳家について見ていきます。

1.一柳氏とは?
・一柳氏は、伊予国(いよのくに・現:愛媛県)の守護大名・河野(こうの)氏の一族といわれている。
・初代の宣高(のぶたか)は室町後期の人。河野氏の弱体化により伊予を去り、美濃国(みののくに)厚見郡西野村(現:岐阜県岐阜市)に移った。守護大名土岐(とき)氏に仕え、一柳姓を与えられたといわれている。
・なお、愛知県名古屋市西区に一柳橋(いちやなぎばし)という地名があるが、関係はないと思われる。
・宣高の子の直高(なおたか・1528-80)も、父の跡を継いで西野村を領有していた。彼は百姓でありながら土岐氏に仕え、盗賊追捕(ついぶ)などの功をあげている。

2.一柳直末と黒田氏
・一柳直末(なおすえ・1546-90)は直高の長男で、黒田官兵衛(1546-1604)と同い年である。通称は市助(いちすけ)。1568(永禄11)年、羽柴秀吉に召し抱えられた。後に黄母衣(きほろ)衆に選ばれる。
・1580(天正8)年、彼は播磨平定の戦功で、播磨国揖西(いっさい)郡(現:兵庫県たつの市)2500石を与えられた。このうち90石を、弟の直盛(なおもり・1564-1636)に与えている。また、彼は秀吉の仲立ちで黒田職隆(もとたか)の3女(1562?-1617?・官兵衛の妹)と結婚している。2人の間には1男2女が生まれた。この男子が松千代である。
・直末は播磨平定のころ、秀吉の姫路城の平面プランの一部を勝手に変えたという逸話がある。激怒した秀吉に真っ向から反論し、命がけの問答となったが、結局直末の案が採用され、その部分は「市助曲輪(ぐるわ)」と名付けられた。ただし現存していない。
・天正11年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、直盛とともに目覚ましい活躍をし、秀吉から絶賛されている。天正17年、美濃軽海(かるみ)5万石を与えられた。
・しかし、彼は翌年、秀吉の小田原攻めに従軍し、初戦の伊豆山中城(静岡県)攻めで討ち死にしてしまう。官兵衛がこれを秀吉に報告したところ、秀吉は「城は落(おち)ても直末を討ち死にさせては、この戦(いく)さは秀吉の負けなり。」と嘆いたという。

3.一柳松千代と官兵衛
・一柳松千代(まつちよ・1590-1603)は直末と官兵衛の妹の長男(末子)で、名は松寿(しょうじゅ)ともいわれている。
・直末の死後、弟の直盛は1601(慶長6)年、松千代と自分の長女(1592?-1610)を婚約させ、彼に跡を継がせようとしたが、不満を持った直末派の家臣が反発し、お家騒動になりかけた。このため、直盛は彼らを討ち取り、松千代を幽閉してしまう。
・そこで、事情を知った官兵衛兄妹が松千代を引き取ることを申し出た。官兵衛はすでに出家しており、跡を継いだ長男・長政(ながまさ・1567-1623)が福岡藩主となっていたが、まだ男子はいなかった。また、官兵衛の次男・熊次郎(くまじろう・1582-97)は慶長の役の際に溺死したため、当時の黒田家には長政の跡を継ぐべき男子がいなかった。
・この申し出が認められて、松千代は官兵衛に引き取られ、福岡に移った。官兵衛は彼を大変かわいがった。新しく作る持ち物すべてに彼の名を書き、自分の死後に譲るつもりでいたという。
・しかし、松千代は官兵衛より先にこの世を去る。松千代は家来の少年・市蔵(いちぞう)との組打ちの際、脇差で右腕を切る大けがをし、この傷がもとで亡くなった。わずか14歳。市蔵は責を負って切腹した。官兵衛が亡くなる前の年のことであった。その後、一柳氏と黒田氏は不通(ふつう・絶交状態)となる。なお、松千代の墓は福岡県福岡市博多区の聖福寺(しょうふくじ)にある。

4.中興の祖・一柳直盛
・直盛は直高の次男で、直末の弟である。1580(天正8)年、直末から90石を与えられる。天正17年には4000石で直末の家老だった。
・直末の死後、直盛は直末と松千代の中継ぎとして、尾張黒田(現:愛知県一宮市)3万石を与えられた。この時に松千代と自分の娘を結婚させることを秀吉に約束している。
・1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、東軍について大活躍したが、姉婿の小川祐忠(すけただ)父子の助命嘆願と引き換えに恩賞を差し出したため、伊勢神戸(かんべ・現:三重県鈴鹿市)5万石と、加増は少なかった。また直盛への恩賞であったため、松千代が継ぐべき3万石もこのとき消えてしまう。
・この件を気にしてか、家康は大坂落城後、直盛を10万石で大阪城代にしようとした。しかし直盛はこれを固辞した。
・1636(寛永13)年にも加増され、伊予西条(現:西条市)6万6千石(うち1万石は播磨加東郡)を拝領し、伊予へ向かったが、途中の大阪で没した。
・彼は次男・直家(なおいえ・1602-42)を溺愛し、遺領を直家に3万石、長男・直重(なおしげ・1599-1645)と3男・直頼(なおより・1605-45)に1万石ずつ分け与え、残り(加増分)は返上すると遺言した。が、幕府はこれを認めなかった。また、この遺言は直重と直家の関係を悪化させ、後に直家を追い詰めることになる。

5.一柳三家の成立
・直盛の死後、彼の領地は3人の息子たちに分け与えられ、3つの大名家が成立した。
・直重は直盛の跡を継ぎ、西条3万石を領した。しかし、跡を継いだ長男の直興(なおおき・1624-1702)は不行跡と領民からの評判の悪さを理由に1665(寛文5)年、改易された。
・直重の次男・直照(なおてる・1626-67)は1638(寛永15)年、兄の直興から伊予宇摩(うま)郡5000石を分知された。子の直増(なおます)は1703(元禄16)年、播磨高木(現:兵庫県三木市)に移って5250石を領し、子孫は明治維新を迎えた。
・直家は伊予川之江(かわのえ・現:四国中央市)2万8600石(播磨加東郡1万石を含む)を領した。しかし直家に子はなく、甥の直照を養子にしたいと頼むが、兄:直重はこれを許さなかった。やむなく妻の実家:小出家から養子:直次(なおつぐ・1623-58)を迎えるが、直次が跡継ぎとして認められないまま直家が亡くなり、一旦改易される。1643(寛永20)年、直次は伊予領没収の上、播磨小野(現:兵庫県小野市)に移され、1万石となったが、存続を許された。直次から10代目の末徳(すえのり・1847-1920)のとき、廃藩置県を迎えた。
・直頼は伊予小松(現:西条市)1万石を領した。9代目の頼明(よりあき)のとき、廃藩置県を迎えた。

6.一柳氏と松千代怨霊信仰
・江戸時代の一柳氏は当主や跡継ぎの若死になど、お家存続の危機にしばしば見舞われ、家中では「松千代君(ぎみ)のたたりではないか」という考えが現れた。この立場から、高木陣屋5千石の旗本・一柳直長(なおなが・直増の長男・1678-1759)は、松千代の霊を祀って鎮魂に努めることを説き、1759(宝暦9)年3月、幕府の医師・岡本玄也(げんや)の仲介で黒田家との交際を修復した。松千代の死から150年以上たってのことだった。同年8月、直長は82歳の天寿を全(まっと)うする。
・直長の主張を忠実に受け止め、4代目小野藩主・一柳末栄(すえゆき)は小野に磐代(いわしろ)神社を建てて、松千代を祀った。

まとめ
 一柳氏は伊予から美濃に移った河野氏の一族で、土岐氏に仕え活躍した。直末は秀吉の黄母衣衆として武功を立てるなど活躍したが、小田原攻めで戦死した。跡継ぎの松千代はまだ幼く、中継ぎの当主であった直盛が関ヶ原の戦功で加増された際、松千代は継ぐべき所領を失った。彼は黒田家に引き取られたが、若くして亡くなる。直盛の晩年、一柳氏は伊予に戻るが、彼自身は伊予の土を踏まずに亡くなった。その後、一柳家は3つの大名家に分かれるが、改易や当主らの若死にが相次いだ。このため、松千代怨霊信仰が生まれ、神社まで建てられた。都合の悪いことは全部松千代のたたりだ、と考えられたわけだが、松千代にとってはいい迷惑であっただろう。

おわりに
今回の発表では一柳氏の史料をもとにまとめたが、松千代のこと、一柳氏と黒田氏の交際修復について、黒田氏側ではどのようにとらえられていたかは調べられていない。他にも調べきれなかったことが多々あるので、機会があればぜひ調べ直したい。

参考文献
・小野市立好古館(編)『播州小野藩一柳家史料 由緒書』兵庫県小野市、1999年
・小和田哲男『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』平凡社新書、2013年

以上で終わります。ここまでお読みいただきありがとうございました。

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。