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2014/11/27

木曜2限概論発表

ヲコトです。更新が遅くなりましたが、今回は「頼山陽と『日本外史』」で発表しました。

はじめに
 頼山陽を調べようと思ったのは『日本外史』がベストセラーであったと知り、そして、今ではそこまで有名でないことに疑問を持ったからである。それと郷土にゆかりの人物だということもある。
 この概論では最初に山陽の伝記を述べる。次に『日本外史』を少し詳しく紹介し、いくつか他の著作を紹介する。最後に現在では無名である原因を述べる。
 
伝記
 頼山陽(1780~1832)、名は襄[のぼる]、字は子成で山陽は号。通称は久太郎[きゅうたろう]。安芸の人。1780年12月27日、頼春水(1746~1816)の長男として大坂で生まれた。これは春水が当時大坂で私塾を開いていたからである。
 翌年、春水は広島藩の藩儒に召し出された。藩学の再建に取り掛かり、それが済むと、江戸の藩邸と広島藩を行き来し、藩の世継ぎの補導に当たった。その間、寛政異学の禁に先んじて、藩学を朱子学に統一した。また、松平定信に学問を朱子学に統一することを勧めている。1785年から5年間藩の一大事業として、国史の編纂をしていたが、中止を命じられた。
 1782年山陽は3歳の時、母の静子とともに広島に赴き、9歳で藩の学問所に入学した。18歳の時江戸に赴任する叔父の杏坪に連れられて江戸へ行ったが、翌年、杏坪が広島に帰国するのに伴って、帰郷した。
 山陽は、健康に優れず、8歳の頃から、癇癖症のような症状を持っていた。帰郷後、1799年、山陽20歳の時、藩医の御園道英[みそのどうえい]の娘淳子と結婚をした。しかし、その後、遊蕩生活が始まり、翌年の9月5日春水の代わりに親戚の葬儀に向かう際、突然脱藩をした。杏坪が事態の収拾に努め、ひと月足らずで、京都の医師の福井新九郎のもとに潜伏していることが判明した。11月3日に杏坪に連れ帰られた。山陽の脱藩は突発的な異常行動とされ、重罪は免れた。
 春水は謹慎の意を表すため、藩に山陽の廃嫡、山陽のいとこに当たる景譲[かげのり]を養子にしたいことを伝え、認められた。さらに淳子を離縁した。離縁4日後淳子は1801年2月20日に聿庵を生んだ。聿庵は春水が引き取った。
 山陽は1803年12月まで幽閉された。その後春水は山陽に家塾の代講をさせたが、脱藩と幽閉生活は周知のことであり、狂人視されがちであった。山陽はまた遊蕩に耽るようになった。
 1809年に春水の親友菅茶山が山陽を備後神辺の廉塾という家塾の講師として、招いた。茶山としては、ゆくゆくは、山陽を婿養子にするつもりであった。しかし、山陽は、三都で活動したいと考えていたので、神辺での生活から1年程度で、藩の重職に就いていた、築山捧盈に三都に居住できるように頼んでいた。また、茶山にも自分の志望を伝えていた。茶山は反対したが、山陽の気持ちは変わらず、やむなく認めた。
 1811年32歳の時、「大坂へ行き、篠崎小竹の紹介により、入京し、蘭医の小石元瑞を頼り、真塾という家塾を営んだ。1814年元瑞の養女梨影を娶った。
 1826年47歳の時、『日本外史』が完成。翌年『日本外史』を松平定信に献上し、題辞を貰った。
 1832年53歳9月23日没する。

『日本外史』
 山陽の最も有名な作品で、20代の頃から書き始め、何度も訂正をしながら、47歳の時、完成した。山陽の死後、刊行され、ベストセラーとなった。全22巻。
 武家の歴史を漢文体で、平氏の出自から、徳川家斉が太政大臣になるまでをつづる。
 構成は、歴史を記述する本文と、「外史氏曰く」から始まる論賛からなる。
源氏…前記平氏(1巻)、正記源氏(2・3巻)、後記北条氏(4巻)
新田氏…前記楠氏(5巻)、正記新田氏(6巻)
足利氏…正記足利氏(7~9巻)、後記後北条氏(10巻)、後記武田・上杉氏(11巻)、後記毛利氏(12巻)
徳川氏…前記織田氏(13・14巻)、前記豊臣氏(15~17巻)、正記徳川氏(18~22巻)
・特徴
 南朝正統論…南朝を正統とし、南朝に尽くした楠氏・新田氏を賛美し、足利氏正記とは別に、新田氏正記を立てその中に入れている。
 漢文体…『日本外史』は漢文体で書かれ、それは、当時の漢学尊重の風潮に合っていたためもてはやされた。
・出版
 初めて出版されたのは1836,7年頃で江戸の中西忠蔵によって出版された。木活字のため刷り上がりが悪く、時勢の変化も少なかったため、あまり注目されなかった。
 『日本外史』が爆発的に売れたのは、川越藩(藩主は松平齊典[なりつね])が版元となって1844年に出版したものである。始めは『日本外史』を有益な書物とし、広く藩士に読ませるために出版した。
 後に世間への販売を書店に許可し、それが大いに売れ、川越藩が転封されても出版を継続し、大いに藩の財政を潤した。
 山陽の遺族は京都と広島でそれぞれ出版を計画していた。京都の頼家では1843年には試版が完成し、町奉行所の許可を待っていた。しかし、川越藩に先を越され、両家の調整にも手間取って、提携して、出版に至ったのは、1848年であった。
 明治になって、版権の帰属問題が起き、1875年に分版の約束が成り、松平家から頼家に3万円支払われた。川越藩では、頼家との契約の切れる1899年までに平均して、年に5,6千部売り上げた。
 
著作
『日本政記』
 武家の歴史を書いた『日本外史』に対して、天皇家の歴史を書いた。
 『日本政記』も歴史の記述と論賛からなるが、本文は弟子たちの力を借りている。山陽は、『日本政記』が完成した日に亡くなった。
 神武天皇から後陽成天皇までを扱うが、論賛は時の支配者について、述べる。
『通議』
 山陽の政治論を述べたもの。51歳の時完成。
その他、『新策』、『日本楽府』、『山陽詩鈔』などがある。
 
戦後の頼山陽
 『日本外史』は大権が朝廷から、武家に移っていく過程を記述する。それは元は大権が朝廷にあったということの証明にもなる。
 『日本外史』の記述の中で、南朝を正統とし、それに尽くした、武家を賛美している。また、足利氏の論賛で、源氏は天皇の土地を盗み、足利氏は天皇の土地を奪ったと、書く。このように武家を悪く述べる記述がある。
 これを見ると大権は朝廷にあることが正しく、武家に大権があることは間違っていると解釈することができる。さらに、こじつけのような解釈もされた。
 明治になり、現実に王政復古が行われると、その影響を与えた、山陽は、「勤王思想家」のイメージが固められた。また、『日本外史』は記述が親しみやすく、文章も良かったため、漢文の教科書に採録され、広く行われるに及び、このような山陽のイメージは一般的になった。
 しかし、敗戦後GHQの統治により、漢文の教育が廃止され、山陽の著作は姿を消した。統治終了後も「勤王思想家」のイメージが定着していた、山陽の著作は、敬遠された。

まとめ
 山陽は精神的に安定せず、幽閉後窮地にあった際、手を差し伸べた菅茶山に対して裏切りのような行為を行っていた。
 それでも、京都で、『日本外史』などを完成させ、その死後ベストセラーを収めた。結果としては成功であった。
 しかし、戦後、「勤王思想家」のイメージによって敬遠され今に至ったことが分かった。

おわりに
 テーマを絞れずに中途半端になってしまったが、少しでも山陽に興味を持っていただけたら、幸いである。
 当時としては、女性の弟子をとっていたので、人との交流は面白そうである。
今年に山陽を政治学者として捉える本が出版されたので、近いうちに山陽のイメージが大きく変わるかもしれない。

参考文献
安藤英男  『頼山陽 日本外史』頼山陽選集6
      近藤出版社 1982年
安藤英男  『頼山陽伝』頼山陽選集1
      近藤出版社 1982年
揖斐高   『頼山陽詩選』
      岩波書店 2012年
濱野靖一郎 『頼山陽の思想 日本における政治学の誕生』
      東京大学出版会 2014年
頼惟勤   『頼山陽』日本の名著28
      中央公論社 1984年

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