2013/12/19

史学研大会


今年も12月14、15日に史学研究部史学研大会がありました。
史学研大会は部員全員が集まって概論を発表するというものです。

発表は2日間おこなわれ、内容は以下のようになっています。


14日 土曜日
1.日本人の地震の捉え方と教訓が生死を分けた南海トラフ地震
2.ベルリン封鎖と「空の架け橋」
3.ナチスの音楽政策
4.ラーメンの歴史
5.いいくにつくろう鎌倉幕府はいいくにつくる気あったのか
6.井原西鶴について
7.北一輝の思想的研究
8.藤原宇合

15日 日曜日
1.戦後における日独の憲法比較
2.島原半島―キリシタンの地
3.ファミリーコンピュータの登場
4.日本統治下台湾におけるマラリア対策
5.John McDouall Stuart
6.アメリカ海軍―ミッドウェー海戦へ


発表は皆それぞれの得意な分野の内容で、非常に興味深いものでした。
また、鋭い質問が多くなされていたので有意義な充実した発表であった思います。
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2013/12/01

水曜3限概論

こんばんは、1回生のK.von Kebubach改めKasperです。

まず、この概論が大変遅く、雑誌掲載よりも遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。
ご覧になってくださった方は、雑誌の方も、どうぞよろしくお願いします。

それでは、今回私が発表させていただいた概論について書かせていただきます。
今回私は、「ドイツの戦後」をテーマに発表させていただきました。

「ドイツの戦後」といっても、その解釈はあまりにも多いと思われますので、今回は特に終戦直前の連合国軍によるドイツ占領計画から、東西分裂後の東ドイツによる「ベルリンの壁」構築までとしました。

それでは、多少大まかながら、出来るだけわかりやすく発表した内容を説明したいと思います。

まず、連合国による占領計画の大前提として、ドイツの「制裁」および「弱体化」が置かれました。
その具体的な主軸は、非ナチ化、民主化、非軍事化、工場解体で、一例としてはアメリカの「モーゲンソープラン」があり、農業国化して、二度とドイツが脅威とならないことに焦点を置いていました。

戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランスとソ連の分割統治下に置かれましたが、東西の緊張が進むにことによって、アメリカ、イギリス、フランスの西側と、ソ連の東側に大きな政策の溝が生まれ、西側の「ドイツ連邦共和国」と、東側の「ドイツ民主共和国」に、分かれて独立することとなりました。

二つに分かれたドイツは、かつての「敗戦国」から、両東西陣営の「重要な一員」となるような発展を遂げます。

西ドイツ(ドイツ連邦共和国)は、CDU(キリスト教民主同盟)の、アデナウアーが政治をリードして、西側からの援助を受けつつ奇跡的な復興を遂げていきました。

一方東ドイツ(ドイツ民主共和国)は、SED(ドイツ社会主義統一党)の、ウルブリヒトを中心に、西ドイツほどの急速さではありませんが、徐々に復興を遂げました。
しかし、1959年の集団化政策を嫌った農民、手工業者、労働者を中心に西側への人口流出が増加すると、1961年、「ベルリンの壁」を構築しました。これにより、西ドイツとの確執は深まりました。

以上、ざっくりと説明してきましたが、この東西ドイツの確執からいかにして再び統一ドイツが生まれたのかについてはこれからの課題としたいと思います。

これを読んで少しでも興味、疑問を抱いた人はぜひ私に声をかけてくだされば、もっと深い話が出来れば、とてもうれしく思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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