2013/06/29

木曜日1限概論

こんにちは。
1回生の朱夏です。今学期は二回概論をやらせていただきました。

今回、僕は清について調べました。
2011年に修学旅行で訪れた神戸で開かれていた「地上の天宮 北京・故宮博物院展」に行ってそこでの豪奢な展示物を見て以来、高校の授業で清をまだ学んでいなかった私は衝撃を受け、この王朝に魅入られました。その中から今回は、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の清が一番栄えた時代を扱わせていただきました。彼らの人物像とは、その治世とはいかなるものだったのでしょうか。

内容は追記をご覧ください
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2013/06/24

土3概論

はじめまして。1回生の惣流です。

今回の概論では、日本の「近代ダム成立の過程」について調べました。
近代ダムが明治に登場してからは、日本全国に多くのダムが造られました。ダム成立をインフラ・産業・国土総合開発の3つに分類し、代表的な例を挙げ、その過程を追います。

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2013/06/23

月3概論

こんばんは、二回生のマーぼーです
更新が遅くなってしまい申し訳ありません

今回私は岸信介と安保改定と題しまして、安保改定に向けての過程とそこでの岸の役割について調べてみました。(1回生のちーちゃんと若干内容がかぶっちゃいました(´・艸・`;)笑)

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2013/06/23

水3概論

 こんにちは、3回生のたあ坊です。更新が少し遅れてしまいすみません。

大坂は「天下の台所」として全国の経済や物流を取り仕切る場として発展してきましたが、その大坂がどのような過程で商業を発展させていったのかについて関心を持ち、今回は、「大坂の商業の発達」について調べてみました。


 まず大坂は安土桃山時代、職人の町が太閤豊臣秀吉によって発展し、経済の基盤が確立していきました。また秀吉は堺や京都から商人や職人を呼び集めたことからも商業が発展していきました。また、船着場で都市基盤の基礎が築かれ、商業や文化の中心地となりました。

 江戸時代には、大坂は幕府の政策により西国支配の拠点として整備され、工業、商業を生業とする町人が集住する
市街地が広がっていきました。また、大坂は畿内農村や京都、奈良などの諸都市が存在する内陸部とは淀川、大和川水系で結ばれていました。

 大坂三大市場としては、天満青物市場、堂島米市場、雑喉場魚市場があり、大坂三郷(江戸時代の大坂の中心地で町人が暮らした北組、南組、天満組)の商人や職人の日常的な活動としての生産や生活を支えました。

 また、平野、堺、伏見、兵庫などから有力な商人も大坂に呼び集められ鴻池や住友などの豪商や財閥が成長し、経済の活力を生む原動力となりました。
 また、堺の商人も応仁の乱後、近畿諸国との交易以外にも日明貿易に乗りだし、堺は貿易の一大基地となり、当時珍しかった砂糖を利用した煎餅や饅頭が手に入ったことから茶の湯が発達するなど文化面でも発展することによって大坂の経済の繁栄を助けました。

 大坂は淀川の河口にあって瀬戸内海に面するなど、優れた地理的条件を備えていることから物流が活発となり、船場によって都市の発展が支えられたほか、堺の商人達による海外交易などによって、自らの文化を向上させたことで、富を生み出し、経済を発達させていったのではないかと感じました。
 また、大阪の三大市場や豪商達もそれぞれが確固とした経営方針を持って商売を行ったことも大坂を近世において物流の拠点としたのではないかと考えます。


 最後に、発表の反省として聞いて下さった方達の質問になかなか明確に答えることができませんでした。なぜこういうことになったのかというのを自分でも疑問に思って調べてみることも必要な気がしました。概論の質問の中で、堂島の米市場が廃止された理由は何かというのが挙げられましたが、戦争の影響などで米穀が配給制となり、日本米穀株式会社に吸収されてしまったことに影響があるようです。

 最後まで読んで下さってありがとうございました。
2013/06/22

土三概論

初めまして。

新一回生のジョーです。
更新が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。

さて、私の今回の発表では、近代日本史の転向における思想的研究を発表しました。
今回の概論では転向の問題点とは何だったのか。そして何故転向は起きたのかを出来事の流れ、様々な人物の動きに触れつつ、転向の意味を『権力によって強制されたために起こる思想の変化』と定義して検討したいと思います。
因みにこの定義では権力を国家権力を指し、強制をマスメディアなどの間接的なものも含むものとします。


まずは昭和八年までの転向の状況を見ていきたいと思います。
昭和八年に日本共産党最高幹部の佐野学・鍋山貞親が連名で転向声明を出しました。
これは、コミンテルンの指導を受けて社会主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動を行うという内容でありました。この声明は世間や獄中にいた運動家に大きな衝撃を与え、大量転向のきっかけとなったのです。
また、大量転向を出すこととなった一因として、昭和六年の満州事変、及び昭和七年の満州建国が上げられます。この事変により国内のそれまでの不況が改善され、労働者の賃金は上がり、生活の改善の兆候が表れたのです。これにより「貧困」が思想の根底にある社会主義者達は、社会主義から帝国主義に自分達から転向していったのです。
彼らは政府や特別高等警察により強制的に自分達から転向していったということになります。

続いて昭和十五年までの転向の状況を見ていきたいと思います。
佐野、鍋山の転向声明以後、一ヶ月以内に獄中の既決囚員の35.8%、未決拘留員の30%が転向を表明しました。さらに昭和十年の末にはほぼ九割が転向したことからその勢いがわかります。


次に転向した人物から思想変化の理由について見ていきたいと思います。

最初に農本主義的大衆思想家の典型例として小林杜人を上げたいと思います。彼は満州事変より二年前には既に転向をしていたのですが、彼の転向は満州事変に因るものではなく、その思想軸には精神的にも物質的にも迷惑をかけている家族への心配とそれでも自分を思ってくれる家族への愛でした。彼はその後、日本はソ連の様にはなれないとして、浄土真宗に転向しました。

次に佐野学・鍋山貞親について見ていきたいと思います。
昭和八年当時、日本共産党の最高幹部であった佐野、鍋山が連名で転向の声明を発表しました。前述の通り彼らの転向後、獄中では大量の転向が起き、一般社会では党を外部から支援していた団体が解体しといき、戦争への抵抗勢力を突き崩す結果となりました。
彼らに転向の意志が生じたのは無期懲役の判決が下されて間もない昭和七年の末頃であったといいます。それ以来二人は刑務所の暖かい取り計らいの下、意見交換を行い、転向の構想をまとめ上げたのです。
彼らの転向は弾圧に対しての単なる屈服ではなく、新たな積極的原理に基づくプロレタリア革命運動に組換えたのです。英米との戦争を日本の革命と結びつけて、アジアの解放戦争にしようとしたのです。確かに、極論ではありますが反資本主義も帝国主義も反自由主義という意味で似通った部分があります。

転向の問題点について以上のことを踏まえて考えると、転向自体に問題があった訳ではなく、転向が起きるまでの状況に問題があったと思います。そこには英米との戦争に向かう最中に個々の主張の弾圧により、国民的自意識の芽生え、家庭関係、拘禁に因る後悔などの理由で転向していった社会主義者がいました。


以上が私の概論内容でした。
今回の概論では私の転向の対象を近代の日本のみとしたため、世界史における転向に対する私の無知と調べ不足が露呈しました。これは私の課題とし、今後の概論の参考とさせていただきたいと思います。
今回は文章をスマートフォンで打ち直したので一部省略及び誤字脱字があるかもしれませんが、お許しください。
拙い文章でしたがここまで読んでいただきありがとうございました。


2013/06/21

木1概論

どうも、3回生のエムスターです。
最近暑いですね~。しかしまだ7月にもなってないのでこれからもっと暑くなるかもしれないですね。
皆さん体調には気を付けてください。

さて、今回の私の概論は「洋務運動」です。
概論で中国史を取り上げるのは1回生の頃にやった「侯景の乱」以来のことでした。

洋務運動は中国の清朝で行われた近代化政策です。
今回の概論では、清で洋務運動が行われるようになるまでの過程と、その内容や結末について述べた後に、洋務運動の成果や限界について考察して清が洋務運動を通してどのように近代化に対応しようとしたのかについて調べました。

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2013/06/19

金5概論

はじめまして、1回生のちーちゃんです。
更新が遅れてしまい申し訳ありません。

今回は「岸信介の東南アジア外交とOECFの設立」について調べました。
岸信介というと「安保改定の岸」というイメージが強いですが、岸の行った東南アジア外交は大きな成果があったと考えます。また、その影響で設立されたOECF(海外経済協力基金)の設立経緯やその経済的意義について調べました。

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2013/06/18

☆6/16京都散策☆

こんばんは。三回生のよっちです。
今年度にブログを投稿するのは初めてで「どういうノリで書けばいいんだ」と少し戸惑っております。
最後に書いたのが去年の秋学期なので久しぶりすぎてですね。

さて、先日の6月16日に、京都散策に行ってきました!
30度+日差しジリジリの中、皆さんお疲れ様でした。
一回生がたくさん来てくれて嬉しかったです。

☆ルート
京阪出町柳駅集合→下鴨神社→昼食→京都府立植物園・陶板名画の庭→大田神社→上賀茂神社
(神社まみれなのは仕様です。嘘です。私の趣味です)

出町柳駅に集合後、「糺(ただす)の森」を通って下鴨神社へ。
shimogamo.jpg

下鴨神社は、上賀茂神社と同じく京都に古くから鎮座する神社です。
葵祭(賀茂祭)を行うことでも有名ですね。
上賀茂神社と毎年交代で、斎王代禊の儀が行われます。

祭神は賀茂建角身命で、神武天皇の「神武東征」において道を先導した八咫烏だとされています。
境内のショップでは八咫烏の可愛いグッズが買えます。(ストラップ持ってます)
ちなみに上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命のおじいさんにあたります。

森にて蚊の餌食になりつつ、昼食を済ませてから京都府立植物園へ。

syokubutu1.jpg
・・・なんかヤバイやつがいた。
一体何の像なんだろう・・。相撲・・?

ちなみに、こいつの前で集合写真を撮ったので部室でご確認ください。

syokubutu2.jpg
植物園には温室やバラ園、あじさい園があります。
写真はバラ園の「紫野」というバラです。高貴な感じがしますね。
他にも京都の地名がついたバラや物々しい名前のバラがたくさんありました。
散りかけているので見たい方はお急ぎくださいまし。
あじさいも綺麗でした。

次は鴨川沿いをひたすら北上し大田神社へ向かいました。
途中川を泳ぐ蛇を見かけたり川に入ってザバザバ泳ぐ犬を見たりしました。

oota.jpg

大田神社は杜若の名所です(残念ながらとっくに散っていました)。
藤原俊成も歌に残していますし、ここ周辺の町は「菖蒲園町」という名前なので、有名だったんでしょうね。
写真は本殿側から見た参道です。
ここでも蚊の餌食になりました。蚊やばすぎ。

最後は上賀茂神社です。

kamigamo1.jpg

写真中央の建物が細殿、その前にあるのが有名な立砂です。(△←これ)
少し左には厄除けの茅の輪がありました。みんなでぐるぐる回りました。
茅の輪の由来は「蘇民将来」のお話に基づくそうです。

shimogamo3.jpg
立砂は神様の降りる依り代で、神山という上賀茂神社の後ろにある山を模しているそうです。
△の頂点には目印の松の葉が刺してあります。(目を凝らして御覧ください)

kamigamo2.jpg
風情がありますね。住みたいです。

特別参拝をしたので、神職の方に由緒やらのありがたいお話を聞くことができました。
矢持って帰ってきただけで子供できるってものすごいですね。
こういった神話もなかなか興味深く、面白かったです。

以上になります。
皆さん、暑い中お疲れ様でした!楽しんで頂けたでしょうか?
今度はもっと涼しいときに行きたいですね(切実)

まだまだ京都にはたくさん神社(もちろんお寺も史跡も)があるので、何度行っても足りないくらいですね。
それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました!
kamo.jpg
2013/06/14

金曜一限概論

こんにちは。

新一回生の朱夏です。これ自体は6月7日の概論で、アップが遅れてしまい、研究部の方にはご迷惑をおかけしましたこと、この場を借りてお詫び申し上げます。すみませんでした。


さて、私は初めての概論はオスマン帝国第9代スルタン、セリム1世についてです。
高校の頃に世界史で習って以来、彼についてもっと詳しく知りたいと思っていました。また、一年遅れではありますが2012年は彼の即位500年にあたります、そのため、畏敬と祝副の気持ちを込めて今回の概論で調べさせていただきました。

内容は追記をご覧ください。

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2013/06/14

木曜一限概論(2013/6/13)

こんばんは。新1回生の百井です。

初めての概論は奈良時代の政治家である藤原仲麻呂について調べ、発表を行いました。



↓大まかな概論の内容


藤原仲麻呂は子供時代に算術を習っていて、仲麻呂の学才が貴族のあいだで話題となっていました。貴族となるまでは大学少允などの職についていました。

仲麻呂は29歳のときに従五位下に昇叙し、貴族となりました。これは兄の豊成が21歳で貴族となったことに比べると、かなり遅れた出世でした。しかし藤原広嗣の乱をきっかけに光明皇后や聖武天皇の信頼を得ていき、34歳で従五位上となった仲麻呂がわずか11年で従二位まで9段階昇進したました。兄の豊成は従五位下から従二位になるまで16年以上かかっていたことを考慮すると異例の昇進と言えるでしょう。また、44歳の時に紫微中台を設置して、長官である紫微令を大納言と兼任して、大納言でありながら、左大臣の橘諸兄に対抗できる権力を得ました。

このようにして権力を得た仲麻呂に対し反対派勢力が現れますその代表例が橘奈良麻呂であり、仲麻呂に対しクーデターの計画をします。(橘奈良麻呂の変)しかし、仲麻呂にこの計画を密告をするものが現れ、この計画は失敗に終わりクーデターに関わった人物は拷問を受けたり、各国に配流されました。また、仲麻呂は息子の乙縄がクーデターが関わったを理由に、右大臣であった兄の豊成を大宰府に左遷しました。豊成を左遷させたことにより仲麻呂は名実ともに国のトップとなりました。

国の最高権力者となった仲麻呂は租庸調の減免、雑徭の軽減などの税負担を軽減した政策などの民を思いやった政策を打ち出していきました。 このような政策の代表例に問民苦使があります。問民苦使は八道に官僚を遣わして、民の苦しみを問い、それを救う為におこなわれた政策です。例としては、治水工事を行ったり、老丁の年齢の引き下げなどがあります。

光明皇太后の死をきっかけに仲麻呂政権に陰りが見せはじめていきます。光明皇太后をはじめ、藤原袁比良、石川年足など仲麻呂を支えてきた人物が次々となくなっていきました。また、仲麻呂は新貨幣政策に失敗し、民心の離反を招きました。 そして孝謙上皇との対立が深まり、仲麻呂は武力を持って対応(藤原仲麻呂の乱) しかし軍略で引けをとり、仲麻呂は琵琶湖上で石村石楯に殺害され、58年間の生涯に幕を閉じました。

大体こんな感じの内容です。

構成はこのような感じで発表しました。

1.人物
2.異例の昇進
3.橘奈良麻呂の変
4.淳仁天皇の時代の政策
5.仲麻呂の失脚




今回の概論は初めての概論であったため、緊張して、あらかじめ予想できていた質問に対しても返答するのに時間んをかけてしまいました。またもいい加減な内容の返答をしてしまったことが何回かあったような気がします。次回の発表の時はこのような反省を踏まえて、発表を行っていきたいと思います。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

2013/06/10

木曜一限概論(2013/06/6)

こんにちは、いかがお過ごしですか?
新一回のK.Von Kebubachです。たいへん遅れてしまい申し訳ございません。
初めての概論は、中世ドイツの非自由騎士、ミニステリアーレについて調べさせてもらいました。
詳しくは、こちらです。


まず、ミニステリアーレは10世紀初頭「隷農」出身の貴族の財産管理人として雇われました。


しかし、時代を経るにつけ皇帝をはじめとする貴族たちから信用度が増し、土地を与えられるようになり、次第に普通の自由騎士とほとんど変わらなくなっていきました。


12世紀後半に結成されたドイツ騎士修道会(ドイツ騎士団)では中心を担い、後のプロイセン王国へとつながるプロイセン支配を行いました。


低い身分からだんだん出世し、ドイツの歴史の重要な部分を握ったといえるであろうプロイセンのもとを作ったといえるドイツ騎士修道会、そしてその中心を担ったミニステリアーレは間違いなくドイツの歴史の一端を担い、重要な役割を果たしたと僕は思います。


今回の概論は初めてで、まだまだ足りないことばかりでしたが、とてもいい経験が出来、また、調べていてとてもおもしろくて良かったです。


以上、かなり略してしまいましたが、概論の報告でした。もし興味を持ってくださった方、疑問を持った方はぜひ僕に質問なり話しかけるなりしてください。ドイツ語で話しかけてくださる方はなお大歓迎です。喜びます(^^)
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
2013/06/09

土3概論

こんにちは。いつの間にやら3回生になってしまいました、モモです。
対外関係に興味を持ったのはいいのですが、如何せん東アジアに関する知識が無さすぎて難航してます……
だって難しすぎるんだもの(´・ω・`)
……頑張ります。

という訳で今回は「大化改新と対外関係」についての概論を行いました。
内容は追記へ。

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2013/06/09

水曜3限概論発表

こんばんは。2回生になりました。てんてんです。更新が遅れてしまい申し訳ないです。

 今回、現在兵庫県の所属になっている淡路島ですが江戸時代は阿波(徳島)藩の所属になっていました。その帰属が変更される一つのきっかけになったのが出来事が稲田騒動(徳島藩騒擾事件、庚午事変)なのですが今回はそれについて調べてきました。

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2013/06/05

土曜3限

 こんにちは。私も2回生になりました。Many preasuresです。
 今回私は三角縁神獣鏡に着目して、その中国からの伝来と倭国(日本)国内での取り扱われ方について調べました。

 中国で銅鏡が作られるようになるのは周王朝時代とされ、大量生産は中国戦国時代に入ってからでありますが、このときは文様は粗く銅質も粗悪なものでありました。今回取り上げています「三角縁神獣鏡」は後漢式鏡の一種でありますが、中国から三角縁神獣鏡が出土された例はありません。このような事態をどう受け止めるのが適切なのでしょうか。
 次に、倭国内での取り扱われ方であります。古墳の副葬状況を見てみますと、遺体があったとされる水銀朱から推定される頭部の位置が割り出せる訳であります。すると、三角縁神獣鏡が頭部付近に副葬されている古墳は「神原神社古墳(島根県)」以外にほぼありませんでした。ほかは全て棺の外か、あるいは棺の内であっても足もと付近に副葬されている古墳であります。このように、国内での取り扱われ方は一般的に重要な鏡ではなかった可能性があります。
 したがって、三角縁神獣鏡は中国製か国産か、と研究者らは議論をされているようでありますが、考古学的視点に立ってみますと、中国から出土された例はないということ、日本の古墳からの出土状況を鑑みて、三角縁神獣鏡は国産であると考えられます。

 今回の概論発表にあたって作成したレジュメは「見やすい」と大変好評でありました。今後もレジュメに関して見やすさを時間のある限り追求していきたいと思います。
2013/06/03

金5概論発表

こんにちは。2回生のゆんです。
更新が遅くなってしまい申し訳ありません。

今回は、日本でおもにサブカルチャーとして話題になるメイドが、実際にはどのような存在であったのかについて発表をおこないました。

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