2012/12/19

史学研大会

最近寒さが増して参りましたがいかがお過ごしでしょうか。
今回は、12月15・16日に行われた史学研大会について書かせていただきます。

史学研大会は普段行っている概論活動を部員全員で行うものです。
今回、発表をする人数が多かったこともあり、二日間に分けて行いました。

15日土曜日
1.レコンキスタによる国家の興亡
2.八甲田山雪中行軍遭難事件
3.戦後の日本における連合軍の占領
4.秦の文字の統一について
5.大宝年間における遣唐使の特徴とその役割
6.近代オリンピックと政治

16日日曜日
1.普墺戦争
2.行基と民衆
3.江戸時代の帯刀状況について
4.セルビア王国
5.幕末の京都
6.オプリーチニナ

以上の順番で発表が行われました。
どの発表もよく構成されていて分かりやすかったですし、発表に対する質問も盛んに出ていました。
とても素晴らしい発表であったと思います。
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2012/12/14

水4概論

こんにちは。風邪なのか、少し喉を痛めているとがっちです。

今回の概論では、主に奈良時代に活躍した僧侶である行基について発表しました。
それでは続きをどうぞ↓

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2012/12/12

水4概論

こんにちは一回生のマーぼーです更新が大幅に遅くなってしまって申し訳ありません。

さて、私は今回「戦後の日本における連合国の占領」と題して、第二次世界大戦後の連合国、おもに連合国総司令部(以下GHQ)による日本の占領について調べました。この時期の占領により日本は大きな転換を余儀なくされることとなりましたが、その改革によって日本がどのように変わっていったのか、そしてそこには連合国、特に実質的に支配をしていたアメリカのどのような思惑があったのかとともに調べてみました。

ソ連の対日宣戦や広島・長崎に対する原爆投下らが決定打となって、8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、9月15日に米艦ミズーリ号上で連合国との間に降伏文書が調印されて敗戦国となった。
降伏文書に先立ちアメリカ主導で組織された連合軍がイギリス連邦による協力を受けて、日本への進駐を開始した。占領の際に最高機関として極東委員会をワシントンに設置し、その傘下としてGHQが置かれた。また、その目付役的な機関として、東京に対日理事会が設置された。GHQは全面的な業務を行い、ワシントンからの命令や統合参謀本部の指令を実施するに当たって、かなりの裁量権を持っていた。

政策について見ていくと、GHQはまず検閲を実行した。この検閲はマスコミだけに止まらず個人の手紙や電信電話にまで及んだ。そして占領の第一目標である日本の武装解除にも取り掛かった。東京裁判、公職追放、軍需産業の禁止などの非軍事化政策が矢継ぎ早に実施し、共産党員など政治犯を釈放する人権指令を出した。その後は民主化、自由化を進めるために幣原喜重郎内閣に経済の民主化や教育の自由化などをはじめとした五大改革指令を命じた。そして、GHQは大日本帝国憲法ではポツダム宣言の内容の中心となっている日本の民主化・軍国主義の破棄・人権の尊重に合致しないとして憲法の改正を要求した。当初は日本政府に改正案を提出させたがこの試案は「保守的」と判断し受け入れなかった。そこでGHQは最後の手段であるGHQ自身による憲法草案を行った。

その後アメリカ政府は主に二つの理由から占領政策を転換することとなる。ひとつは占領が長引くことによって占領費用を戦勝国が負担、特にアメリカの納税者が負担するという行為が長く続くことへの配慮。そしてもうひとつは冷戦の激化である。アメリカの外交官ジョージ・ケナンは日本経済の復興をはかって、共産主義勢力への抵抗力を持つ、社会的・経済的性質を備える必要があると主張した。その主張は様々な協議を経てアメリカの国家安全保障会議の文書「対日政策に関する勧告」として結実し、これはアメリカが日本の経済と安全保障について長期にわたってかかわることを、戦後初めて正式に決定した。また、トルーマンからGHQを飛び越えて采配を振るう承認をえたドッジは自ら作成した予算原案を提出しその実施を求め、その均衡予算の実施に際し、日本は1ドル360円の単一為替レートを与えられて国際経済への復帰が認められた。1950年朝鮮戦争が勃発すると言論機関のレッドパージを勧告した。これは弾圧の対象を右派から左派へと移ったことを意味している。そして1951年9月8日にサンフランシスコ講和会議で調印、翌1952年4月28日に発効した対日平和条約、日米安全保障条約により連合軍による日本占領は終わりを迎えた。

当初アメリカ政府は日本が世界の脅威にならないようにと武装解除をさせ、日本を支配下に置いていったが、冷戦が激化しアジア支配の支柱にしようと考えていた中国に社会主義共和国、中華人民共和国が誕生し、戦略の変更を余儀なくされたが、そこで中国に代わって日本をアジア支配の支柱にしようとしたことは日本にも大きな利益もあったのではないでしょうか。

以上が発表内容となります。今回の反省としましては調べ不足もあり発表も上手くいかず、質問にも適切な答えを返すことができませんでした。今回の反省を次回の発表に活かせたらと思います。最後まで読んでくれた皆さんありがとうございました。

2012/12/10

12月7日金3概論発表!

きまさです。

先日中学生の時にお世話になった塾の先生にお会いし、おぼれているところです。

さて、今回の概論は古代・考古学を離れ江戸時代に生きた「上杉治憲」という人物について調べました。この人物は米沢第9代藩主で、明和・安永の改革時におおいに活躍しました。自身も倹約に努めました。これを支えたのは竹俣当綱(たけのまたまさつな)と莅戸善政(のぞきよしまさ)でした。藩主の地位を退いた後も後続藩主らに要請され引き続き藩政をみていくことになります。

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2012/12/09

月曜4限

 こんにちは。 聴講生の ラ王です。
 60歳をこえたおじんがお邪魔しています。

12月3日の概論で「阪急電鉄株式会社の変遷」と題して発表させてもらいましたので、それの報告をさせてもらいます。

 関大生にとって阪急電鉄は一番なじみのある電鉄会社ですが、淡路駅に1号線ホームがないことなど、意外と知られていないことが多いものです。そこで阪急電鉄の移り変わりを、社章や社名の変遷を通じて発表しました。

 阪急電鉄は

① 箕面有馬電気軌道株式会社

② 阪神急行電鉄株式会社

③ 京阪神急行電鉄株式会社

④ 阪急電鉄株式会社

 と移り変わっていくのですが、阪急電鉄にとっての最大の出来事が、③の京阪電鉄との合併・分離です。この合併については、「陸上交通事業調整法」に基づいた鉄道省の勧告に従ったものです。この合併の勧告を行ったのが鉄道省管理局長佐藤栄作氏(のちの内閣総理大臣)で、合併話を受け入れたのが阪急社長佐藤博夫氏(京阪神急行電鉄社長に就任)、京阪専務佐藤一男氏(同副社長に就任)で、三佐藤による合併といわれました。
 戦後、大企業の分離・解体が進む中で、京阪神急行電鉄も京阪の分離が行われました。この時に新京阪線(現在の京都線)は阪急側に残されました。言葉は悪いですが、「濡れてで粟」で阪急は京都線を手に入れたのです。
 そもそも新京阪線は、淀川東岸で営業を開始した京阪電鉄が、自社線の防衛のために淀川西岸に新線を計画したところから始まります。十三-千里山間で営業を始めていた北大阪電気鉄道を買収し、天神橋(六丁目)を起点とする新線を建設しました。
 戦後の新生京阪電鉄にとって、新京阪線が「京都線」として京阪急行電鉄の側に残ることは新京阪鉄道以来営々と開拓してきた事業エリアを失うのみならず、大阪-京都間輸送において競合路線となることは不本意なものであったといえると思います。
 これを調べていく中で、十三-新大阪-淡路を結ぶ新線の話もあり、新幹線建設時に立体交差部分の橋脚の間隔が将来阪急が通れるように拡げられて作られており、阪急新大阪駅の用地の一部が確保されていることを知り驚きました。
 身近な存在の歴史を調べてみるのは非常に楽しいものでした。今後は地域史を調べてみるのもいいかなと考えています。
2012/12/04

金3概論

こんにちは、三回生の清洲です。

私は今回、「八甲田山雪中行軍遭難事件」について事件後における政府の対応を主として概論を行いました。


明治35年(1902)、明治28年(1895)のロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉によって日清戦争で得た領土の一つである遼東半島を返還することとなったことを受けてロシアとの戦争が現実のものとなってきました。そこで日本はロシアを仮想敵国とした実質的戦略や戦術の研究を始め、八甲田山雪中行軍もその一環として行われた。八甲田山雪中行軍の目的は厳寒吹雪の山中における研究・調査、対露戦において陸奥湾封鎖もしくはロシア軍の青森上陸がなされた場合の物資輸送ルートの確保などでした。
なお雪中行軍は第8師団の歩兵第5聯隊と歩兵第31聯隊の2部隊で行われたが、今回は遭難をした歩兵第5聯隊のみを扱うこととします。
明治35年(1902)1月23日、第5聯隊は神成文吉大尉を主任中隊長として第一小隊~第四小隊(175名)+特別小隊(23名)特別移動大隊本部の山口鋠少佐以下10名の総勢210名で八甲田山雪中行軍に挑みました。しかし、雪中行軍は結果的に失敗に終わり、210名の内11名のみが生存することを得ました。遭難の原因としましては、
㈠記録的な吹雪と気温
㈡そりによる行李輸送の失敗
㈢認識の甘さ
が主な理由として挙げられます。


事件の与えた影響としましては、
①勅令41号・42号に基づいての遭難してなくなった将兵を戦死者と同等に処遇するための法改正
②東国における更なる徴兵忌避
③陸軍による民衆感情の調査
④吊魂祭の実施
⑤美談の流布
⑥記念碑の設置
が主な影響として挙げられ、①・③・④・⑥は当時の陸軍大臣であった児玉源太郎の「歩兵第5聯隊遭難ニ関スル取調委員」に対する11ヶ条に及ぶ訓示に基づいて行われており、陸軍がどれほど世論に気をはらって事件の収拾をはかろうとしたかがうかがえます。

③の民衆感情の調査には児玉源太郎の命を受けた田村沖之甫少佐等があたり、陸軍に対する不信感の払拭のために陸軍自身による遺族や地域社会の人々が抱いた感情の調査を行いました。
陸軍は訓示や③などの結果に基づいて政策を行いました。結果的には②にある通り東国において徴兵忌避が更に進行し、海軍の志望者は増加したものの陸軍下士官の志望者は極度に減少してしまうこととなりましたが、それも数年間のみで児玉源太郎を筆頭とする陸軍の政策が功を弄することとなりました。


今回は語句の説明を省いたため、いささか難解なものとなったことは否めませんでした。
今後の課題といたしましては弘前を発した歩兵第31聯隊の福島泰蔵大尉率いる38名の雪中行軍隊の帰還後とも関連付けて考察を行えたらと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
なお何か質問等がございましたらコメント欄にお願い致します。
2012/12/02

水4概論

こんにちは、2回生の344です。更新が遅れて申し訳ありません……。
12月に入り本格的に寒くなってきましたが皆様どうぞご自愛下さい。

今回の私の概論テーマは「秦代の文字の統一について」です。

前221年に秦が中国を統一し、度量衡や車軌とともに文字の統一を行ったということは世界史の教科書や概説書に必ずと言ってよいほど表記されている事項です。その実情はどのようなものであったのか、出土資料も参考にしつつ考察を試みました。

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