2012/11/30

金5概論

 こんばんは、2回生のたあ坊です。

 今回、僕は宿場の役割についての概論を行いました。

 
 江戸時代、幕府は従来の戦国大名による分国的な交通整備から、江戸を中心とした交通網として五街道を設置することで、中央に権力を集中させ、支配体制を維持しようとしました。そして、街道ごとに宿泊施設や荷物輸送をかねた宿場が置かれました。今回は具体的にそれらがどのような役割を担い、また宿場ではどのような生活形態があったのかを東海道の神奈川を題材にして調べてみました。

 近世初期の慶長から元和年間(1615~1624)にかけて宿駅は交通運輸の駅伝業務を扱うために交通路上に設置されました。主な役割としては、旅人や旅人の荷物を宿から宿へと輸送したり、公の旅行者のための宿泊施設を提供し、公家・諸大名・幕閣の役人・公用の武士の旅宿の利便に供することがありました。各街道の宿駅には公儀の輸送に必要な人足や馬が常時準備され、幕府はそれぞれの宿駅に公儀役としての伝馬制を布き、その代償として屋敷の地代を免除しました。また、宿駅に常置されている人馬をすべて使い切ってしまうと緊急の場合に困難を生じることになることから宿にいくらか人馬を温存しておく囲人馬という工夫もなされていました。

 宿場での生活形態を東海道の小田原宿を例にして説明すると、宿内では役負担の増大によって町人の中で宿運営に関わる家持層が極端に減少し、空き家が目立つようになっていきました。宿全体にかかる負担としては用水水門の普請番、水道普請、生垣植え替え、芝刈りなどの清掃などの負担がかかり、それ以外でも宿内の各町ごとにかかる負担もあり、財政的にも厳しい状態にありました。小田原宿本町の財政対策としては、家屋敷の間口一間を単位として月掛金を徴収し、藩に高利で貸し付け、その利子を年賦で返済したり、油・薪・ろうそくなどの日用品を大量に廉価で仕入れて販売し、利益の一部を返済にまわすというやり方が取られていました。宿運営は一般的に町人によってなされ、このうち町人の中でも役負担に携わる家持層が宿運営に関わり、借家人である店借や借地に家を建てて住む地借は参加できませんでした。
 人馬継立は、無賃・御定賃銭・相対賃銭に分けられました。無賃は将軍が発行した朱印状、京都所司代・大阪町奉行・勘定奉行などが発行した御証文を持参した通行人に対しては無料で継ぎ立て業務が行われ、御定賃銭は幕府公定の賃銭であり、以後この元賃銭を基準として、各宿は人馬賃銭の増額を求めました。相対賃銭は旅人や荷主と馬子や人足の双方で話し合いをし、問屋を介入せず、賃銭を決める方法でした。この人馬賃銭の値上げ要求をした宿方困窮の理由は無賃人馬の役負担の増大、宿方の失火による町屋火災、飢饉などがありました。賃銭値上げ後も宿財政の繰り入れ金、馬飼料代などへの支出で効果は薄いものでした。

 その他、宿場の防火対策として、宿役人から出された火の元要人の触れなどの史料を用いて宿役人の火災に対する責務の重要性を説明しました。

 以上が発表内容でした。反省は、あまり発表を聞いて下さった方の質問に的確に答えることができなかったので少し申し訳ない気がしました。もう少し当時の時代背景なども頭に入れておけばよかったような気がしました。

 


 
 
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2012/11/28

金3概論

こんばんは。更新遅れすぎてすみません。2回生のセイヤです。
今回、私は、マルティン・ルターの宗教改革をテーマに概論を行いました。

マルティン・ルターの宗教改革の経過や結果をルターの見解や行動とともにみていきました。

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2012/11/24

火2概論

こんにちは、1回生のGENTZです。
また更新が遅くなりすいません。

今回の概論は『レコンキスタによる国家の興亡』です。
本当はレコンキスタすべてをやるつもりだったのですが、今回はイスラーム勢力によるイベリア半島の征服から後ウマイヤ朝までの、イスラーム勢力とキリスト教国の国家の興亡についてみていきました。


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2012/11/19

新役員が発表されました。

こんばんは、とがっちです。

先日、11月18日をもって史学研究部は各幹部役員、委員の代替わりとなりました!

前代の幹部役員、委員の皆様、本当にお疲れ様でした。

さて、これで私の学祭委員としての役目は無事にすべて終了しました。

これから新役員一同、史学研がより良い部活になっていくよう頑張りますので何卒よろしくお願いいたしします。
2012/11/19

金5概論

 こんにちは、一回生のてんてんです。土日をはさんでしまいましたが、前回の金曜5限分の概論発表の内容を書きたいと思います。

 今回、私は日本の近現代における天守・城郭史の変遷について調べてきました。

 日本には数多くの天守があり、多くが地元の観光スポットとして賑わっています。しかし、その中で築城当時から現存している天守は12カ所しかなく、それ以外の多くの城は最近にかけて観光目的で再建されたものです(※夏合宿で行った浜松城の天守も戦後になって再建されました)。

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2012/11/14

火2概論

こんにちは、一回生のゆんです。

今回の私の概論は「近世におけるたたら製鉄」です。
幕末から明治初期にかけて西洋式の製鉄方法が導入されるまで、日本では独自の製鉄方法であるたたら製鉄によって鉄や鋼が生産されていました。このたたら製鉄は近世の時代に最盛期を迎え地域の一大産業として発展していきます。そこで今回は鉄生産の中心地となった中国地方、特に山陰を中心に、たたら製鉄の発展と衰退を通してたたら製鉄が周辺地域に対してどのような影響を与えていたのかについて調べてきました。

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2012/11/13

月4概論

こんにちは(^^) 1回生のmt.fatです。(以前fatmountainと名乗りましたが、長いのでmt.fatにします)
最近寒くなってまいりましたが、皆さんお体の調子はいかがでしょうか?

さて11月12日の月曜4限に概論発表をさせて頂きましたので、その内容を簡単に書きたいと思います。
今回私は女性の洋服の普及について調べ、洋服がなぜ普及したのかをその過程を通して見ていきました。

明治当初は珍しい洋服でしたが、鹿鳴館で催し物が開催されるようになると上流階級の女性の間で洋装が行われ始めました。しかし鹿鳴館が閉鎖されると、洋服不便説が唱えられたり、日清・日露戦争での勝利に自信がついたこともあって、一時洋装をしていた女性も和服に戻りました。
次に話が飛躍しますが、働く女性の服装に関してです。教員の洋装をはじめとして徐々に女性職業でも洋服を着用していましたが、洋装に踏み切れない人が多かったようです。そんな中あるデパートで火災が発生、死傷者が多数出ました。その原因の一つが女性の和服による避難の困難でした。これを受けて洋服の着用が推奨され始めました
最後に戦時中と戦後の話になります。都市では近代化が進んできた日本ですが、関東大震災をきっかけに「アッパッパ」という簡易ワンピースが流行しました。日本が戦争に突入すると、女性はもんぺを着用するようになり、洋服の機能性に慣れていくことになりました。戦後の日本では洋裁学校が多数設立されたり、ファッション雑誌の刊行、パリ発のファッションの流入、既製服化が進むなど急速に洋服が広まっていきました。

上流階級から始まった一時的な洋装も、働く女性の洋装も、一般に広まったとは言い難いかとは思いますが、アッパッパの流行、そして国の非常時を通して洋服の形態に慣れたことが戦後に洋服が普及した理由ではないかと思いました。

今回の反省としては自分の怠けスキルが発動したために内容に不備があったことがあげられるかと思います。
また、洋服のことをやっているのに図がないのはいかがなものか、洋服の普及を見る点で学校の制服は外せないのでは、といった内容やレジュメに関するご指摘やご意見を頂いたので、気落ちする反面今後に活かすことができると、有難かったです。これからも不出来な発表があるかとは思いますが、回数を経て良いものができるようにしていきたく思います。最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございました。


2012/11/12

金5概論

こんにちは、二回生のカーチャです。

前回までは、ロシア史を中心に発表してきましたが、今回はロシアから離れて中世ヨーロッパにおけるペストの流行について取り上げました。何が疫病の流行をもたらし、どういった社会的、精神的に変化が起きたのか。こうした点に注目しながらアプローチしました。

まず、ペストとは一体どんな感染症なのか。ペストは急性細菌感染症で日本では伝染病予防法で一類感染症に指定されています。原発地は諸説ありますが、中央アジアのバルハシ湖周辺が有力とされ、クマネズミを媒介したペスト菌を保有したノミに咬まれて感染します。ペストは二種類に分類され、リンパ腺を中心にできる腫物が特徴である腺ペストと、患者の咳やくしゃみから感染し、血痰と喀血を伴う肺ペストがあります。主に流行するのは腺ペストで、黒ずんだ腫物によって死をもたらすことから「黒死病」とも呼ばれます。

ヨーロッパで最初にペストが流行したのは、六世紀であり、特にユスティニアヌス帝の時代のビザンチン帝国では猛威を振るい、八世紀まで流行と休息を繰り返してきました。しかし、それはペスト流行の序章に過ぎません。


14世紀になると、その前兆とされる異変が相次いで起き、それはヨーロッパに先立って東方の中国で最初に起こります。1320年に中国の穀物地帯である揚子江流域や淮河周辺で少雨による大干ばつや飢饉をもたらし、さらにトビバッタの大群が大量発生して農作物に打撃を与えました。一方ヨーロッパでは、14世紀に入ると寒冷期に突入し、冷夏や多雨が相次いだ事で凶作に見舞われ、ヨーロッパ全土にわたって飢饉が起きます。さらに、キプロス島で大地震、台風、津波が発生し、イタリア全土にも大地震に襲われ、自然環境は悪化します。
また、中世の人々は非常に不衛生な環境の中で生活し、都市人口の増加によって慢性的な食料不足に陥り、栄養状態も劣悪でした。


こうした劣悪な生活環境や気候の変化、飢饉による免疫力の低下やアジアでの食料不足や発達した遠隔交易によって大量のクマネズミが西方へ流入し、それがペストの流行に拍車をかけ、助長したのです。


では、ペストはどのように拡大していったのでしょうか。1338年に、原発地とされる中央アジアのカジキスタンで疫病が流行し、それから、シルクロードを通って中国に到達します。西方へはアラル海に到達後にドン川に沿ってクリミア半島の都市カッファ(ジェノヴァの植民地)に上陸し、タタール人の間で流行します。1347年にはジェノヴァ船籍のガレー船がカッファを出港し、10月ジェノヴァに到着するが寄港を断われ、向かったフランスのマルセイユで寄港を許可されます。こうしてペストは地中海地域からさらに北上して拡大していきます。

ペストはヨーロッパに多大な被害をもたらし、身分を選ぶことなく膨大な犠牲者を生み、百年戦争も休戦を迫られた上、宗教界や俗界におけるモラルの低下や農村の廃村が相次ぎました。都市では、猛威を振るったペストから逃れようと逃亡した者が投げたした所有物は放浪者等に占領され、さらにキリスト教の教義や宗教儀式もペストの脅威を前に無力である事を知った人々は教会に不信感を覚え、教会の権威損失は決定的となりました。

ですが、人々はペストの脅威にたいしてなす術がなかった訳ではなく、こうした悲惨な現状から打破すべく、次々と対策を生み出しました。主にペスト患者用病院の建設や遺体の郊外への遺棄、船の入港拒否等の隔離措置が取られていました。また、井戸に大量の毒を混入したという噂によってユダヤ人が迫害されたり、ペストの弊害は神が与えた人間の悪業に対する罰とし、その罪から救済を求めようとする狂信者の中で鞭打ち運動や巡礼が流行しました。


次にペストが流行した要因、社会的•精神的影響について見ていきます。要因としては、異常気象や天候の変化による自然環境の悪化や飢饉による免疫力の低下と劣悪な生活環境や排水システムの未整備、モンゴル軍の西進や十字軍、遠隔交易による交易ルートの拡大による人の移動の活発化、東方の飢饉によるクマネズミの流入が挙げられます。
また、ペストは社会構造に大きな変化をもたらしました。まず、土地の支配を行っていた領主の死亡による農奴制の崩壊と富裕な独立農民が台頭し、かつての荘園制や封建制度が揺らぎ、人口が減少した都市では物価の低落と人手不足に陥り、農村でも賃金の高騰の影響で農民が都市に流入し、人口が減少します。

一方、精神的、文化的な面も例外ではありません。ペストによる親戚や知り合い等の死亡によって「死」が身近にある事を自覚するようになった事で「メメント•モリ(死を忘れるな)」思想が普及し、大学では教官や学問の担い手がペストで死亡したことによって学問と共に衰退傾向に陥りました。それに対し教会には、ペストで亡くならない内に救済を得ようとする者が増加したことで寄付が集まるようになり、聖堂の新築や改装、絵画の購入等の芸術活動が活発化します。
ペストの流行は、ヨーロッパ社会にあらゆる変化をもたらし、後の宗教改革やルネサンスにも大きな影響を与えました。

世界のグローバル化が進み、人の移動が盛んになる今日では、ますます疫病蔓延のリスクは高まり、現代を生きる私たちは中世人以上に「メメント•モリ」がより身近にある事を意識すべきではないでしょうか。

以上が発表内容となります。今回の発表では大きなトラブルもなく、スムーズに進める事がてきたのではないかと思います。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
2012/11/08

火2概論

こんにちは。2回生のモモです。
相変わらず概論の前日は徹夜の私をどうにかしてください。

今回の概論は「大宝年間における遣唐使の特徴とその役割」です。
630年に始まった遣唐使ですが、初期の遣唐使は決して定期的とは言えず、その中でも669年の派遣後は33年もの長期間休止されており、遣唐使全体を見ても特徴的です。この空白期間を経た遣唐使に何か違いがあったのか、702年に派遣された遣唐使に注目し、考察していきたいと思います。

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2012/11/07

学祭が終わりました

こんばんわ。とがっちでございやす。

今日は今月の3日、4日に行われた学祭の模様をお伝えしようと思います。

今回、史学研究部は白玉団子の模擬店を出店しました。

しらたま


11月3日。当日はお天気にも恵まれ、絶好の学祭日和でした。朝8時という非常に早い時間での集合にもかかわらず、部員の皆さんもたくさん集まってくださいました。仕込みや備品の受け渡しなど、事前準備も皆さんが協力してくれたおかげで非常にスムーズに進み、いいスタートを切れたように思いました。

で、気になる白玉の味ですが、チョコレート、抹茶ミルク、黒蜜きな粉の三種類で、個人的に一番心配だった(というより友人に「合わんと思う」と言われていた)抹茶ミルクが意外なほどに大人気!続いて人気が高かったのが黒蜜きな粉。これはまぁ誰もが予想の範囲内でした。そしてその2つに若干置いてけぼりを食らったのがチョコレート・・・。カラーチョコをトッピングして見た目を楽しげにしたみましたがイマイチ注文が来なかったですね^^;(子どもには人気だったようですが)

11月4日。最終日で日曜日ということもあってお客さんは多いだろうと踏んだのですが・・・うーん、人が来ないorz
なにが原因かは分かりませんが、この日は全体的に人が少なかったように思います。後半は少し忙しくなりましたが・・・。それでも、一日目より慣れてきたこともあって、この日はより楽しみながら営業できたと思います。

終わった後のみんなの顔は疲れ果てていましたが、どこか充実感に満ち溢れているように思いました。

この二日間、部員の皆さんには色んな形で助けられました。調理をしてくれた人、会計の人、宣伝をしてくれた人、買い出しに行ってくれた人・・・みんながその一つ一つにとても協力的だったことが僕はすごくうれしかったです。


しんどいこともあったけど、学祭委員やってホントによかったです。協力してくださったみなさん、本当にありがとうございました(^-^)とても楽しく、充実した2日間でした。

まだまだ書きたいことは山ほどありますが、今日はこのあたりで失礼します。さようなら・・・。
2012/11/06

月4概論

こんばんは。二度寝の楽しい季節になって参りましたね。2回生のよっちです。
寒さに弱い私は二度寝常習犯です。

私の今回の概論は「嵯峨朝における斎院の成立について」です。
またまた神社関係の発表ですが、今回は政治的な面を意識して作ったつもりです。

斎王とは、神社の祭祀に奉仕した天皇の皇女たちのことです。
特に京都の賀茂社(下鴨・上賀茂神社)に仕えた斎王を、斎院と呼びました。
斎王は元々、伊勢神宮にしかおかれていませんでしたが、嵯峨天皇の代に賀茂社にもおかれるようになりました。
今回の概論では、その成立理由について考察しました。

それでは、続きからどうぞご覧ください。

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2012/11/01

2012年度 学園祭のお知らせ

とがっちです。

今年度の統一学園祭において、我が史学研は11月3日、4日の二日間にわたって模擬店を出店いたします。

今年は白玉団子を作ることになり、3種類の味を用意しました。
どんな味かは実際に見て、食べてのお楽しみということで(・ω・)

ちなみに店の場所は、図書館から向かって左側(法文坂サイド)の並びです。

たくさんのお客さんに来てもらえることを部員一同楽しみにしております。
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