2012/07/15

木5 概論

はじめまして一回生のマーぼーです
更新が遅くなってしまい申し訳ありません

今回私は私の地元に縁のある戦国時代の武将明智光秀を題材に『明智光秀と丹波』と題して光秀が丹波を平定するまでの過程を調べてみました


戦国期においての丹波の情勢としては、京都では細川晴元政権、さらには三好長慶政権が相次いで成立したため、丹波に対する中央の圧力も次第に強まっていった。天文23年(1554)には長慶の家臣の松永長頼が丹波守護代を続ける内藤氏を継いで、八木城に入城する。しかし永禄8年(1565)8月氷上群黒井(兵庫県丹波市)の荻野直正が長頼を敗死させたのを契機に荻野・波多野・須知氏らの国人衆が反三好党を形成し、その勢力を一掃した。丹波衆は、足利将軍家と友好関係にあるものが多かったため、信長上洛当初は、良好な関係であった。

信長による義昭追放と室町幕府の滅亡を契機に丹波の武士たちの動向にも変化が起こった。まず荻野直正が信長から離反し、また天正3年(1575)には内藤・宇津氏も離反しついに信長は光秀に丹波・丹後両国の平定を命じ、その計画を着手させた。
光秀は丹波攻略を進め、ついには丹波最大の難敵・黒井城の萩野直正を滅ぼせば丹波平定した同然という状況であった。光秀は八上城の波多野氏ら丹波の国人衆に命じ、黒井城を包囲します。天正4(1576)年1月、黒井城を包囲して二ヶ月あまり経過した15日、突如、萩野氏と並ぶ丹波の有力国人である波多野秀治が離反。光秀の陣を突き光秀らは総退却を余儀なくされた。この戦いの後光秀は連戦続きで体調を崩し、京都で治療することになり、丹波進攻は天正5(1575)年10月まで一時中断されることになります。

信貴山城の松永久秀討伐を終えた光秀は、丹波攻めを再開することになった。10月下旬、光秀は細川藤孝と共に丹波へ出陣し、29日には籾井城(兵庫県篠山市)を攻めた。籾井城をすぐに攻略し、さらに明智軍は守護代内藤氏の籠もる丹波亀山城(京都府亀岡市)に迫った。明智軍は、丹波亀山城も短期間で攻略し、光秀は12月には本拠・坂本に帰国した。天正6年(1576)波多野秀治の八上城を攻めるが、頑強に抵抗したため包囲作戦に変更する。1年後、光秀は城内の和平派を取り込みついに、6月1日に開城させることに成功させた。天正7年(1577)8月に最後まで抵抗した黒井城を攻略。足かけ4年という長い年月を要しついに丹波を平定した。

今回の反省としましては調べ不足のため深い内容まであまり踏み込むことができず、また質問にも答えることがなかなか出来ませんでした。またレジュメの書き方等でいろいろと指摘もいただきました。次回の概論ではこれらを踏まえて、今回よりも良い発表ができるように頑張りたいです。拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
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2012/07/13

火2概論

はじめましてです。1回生のみーちゃんと申します。
更新が遅れまして申し訳ありません。

初めてブログというものを書かせて頂きました。
何分不慣れなものですが、よろしくお願いします。

今回、私は“新撰組誕生”というテーマで概論を発表させて頂きました。
幕末、京都の治安維持のために奔走した“新撰組”はどのようにして形成されかのかを主に調べました。

新撰組の母体となったのは“浪士組”という組織です。
浪士組は、京都の暗殺事件を起こす浪士たちを、同じく浪士でもって取りまとめるために幕府がつくりました。
後に新撰組を形成する近藤勇や土方歳三らも浪士組に参加しました。
この案を提案したのは、清川八郎という過激な尊王攘夷思想者でした。
ここで押さえておきたいのは、幕府は開国をしてしまっている以上むやみやたらと攘夷を公に宣言できないところです。
幕府が意欲的に攘夷を決行しないのに気づいていた清川は、浪士組を幕府の看板で組織し、攘夷を行うことを目的としていました。当時は生麦事件の後であったので、これを機に事件のあった横浜の港で攘夷を実行するため、江戸へ東帰しようと考えていました。

これに異を唱えたのは芹沢鴨・近藤勇でした。将軍自ら攘夷を行うことを信じて疑わない彼らは「上京の本来の目的は将軍指揮による攘夷。その将軍が上洛もしていない」のに東帰するのはおかしいと言ったので、そこで彼らは浪士組から分裂しました。
分裂した芹沢・近藤グループは、会津藩主で京都守護職の松平容保にその身分保証を求め、会津藩の配下となりました。
この時、壬生村八木源之丞の宿所の地名をとって「壬生浪士」と称し、活動を開始します。

長州藩を京都から排除する“八月十八日の政変”の功により、壬生浪士は朝廷から「新撰組」の隊名を与えられます。

長州藩を退け京都の情勢が落ち着いた頃、芹沢グループの乱行は新撰組としても体面上放置できなくなってきました。会津藩は近藤に自浄作用を求めたので、芹沢グループは粛清されました。
そうして、近藤勇・土方歳三らの“新撰組”が始まります。

今回の反省点は、新撰組という組織をただ漠然と調べていたのでテーマをしっかりと定める必要性を痛感しました。このブログを書くに至って、やり方がよく分からず、三度ほど始めから書きなおしました。学習します。概論に句読点等を多用してしまったために読みづらく拙い文章になってしまいました。もう少し、日本語力を高めてスラスラと物事を説明できるよう、精進します!!

最後に
私の都合で概論が遅れまして、急遽班長代理として足を運んで下さったT先輩。
ブログのやり方等を丁寧に教えて下さったK先輩。
班が違っても忙しい中概論を聞きにきて下さったHくん。
そして何よりここまで読んで頂いた皆様。
本当にありがとうございました。
2012/07/09

水4概論


おはようございます、2回生の344です。
更新が遅くなってしまって面目次第もございません……。
寝ぼけ眼をゴシゴシしながらの更新です( -ω-)zzz


私の今回の概論テーマは「逐客令とその前後期における秦の政治の変化」です。やたら長たらしい題目になってしまいましたが、中国の戦国時代の秦王政(後の始皇帝)の治世に発布された「逐客令」の概容を踏まえつつ、その前後期に起こった呂不韋と李斯の官僚のトップの交替について、両者の思想面での差異が秦の政治方針にどのような変化をもたらしたか、ということの考察を稚拙ながら試みたものです。

以下、発表の内容を簡単にではありますがまとめさせて頂きます。
呂不韋は、彼が食客らに命じて著述させ編じた『呂氏春秋』から見るに、特定の諸家思想への傾倒は見られず、敢えて言うならば道家に近しい思想を持っていたと思われる人物であったのに対し、法家思想の大成者・韓非の同門であった李斯は自身も強力な法家思想の信奉者でした。

もともと孝公の代の商鞅の変法にみられるように法家思想を取り入れることで強国となった秦ですが、呂不韋が宰相である段階では、彼が『呂氏春秋』において諸家の思想をあるがままに述べさせていることからも分かるように、その政治理念は法家主義を明確に示すまでには至っていませんでした。そもそも、君主の制定した法を最高権威として統治を実行する法家の思想は、儒家や道家の思想とは相容れないものです。

統一後のイメージからも厳格な法治国家としての印象が強い政の代の秦ですが、実際にそうした性格が強まってゆくのは、呂不韋の失脚の原因である「嫪毐の乱」の始末によって政が親政を開始し、「逐客令」を契機として法家の李斯が出現してからのことでした。


今回の反省点としましては、文献の読み込み不足とまたもやレジュメが分かり難いものとなってしまった(用語に注釈がない等)ことがあります。いずれも次回は必ず改善したいです。

まとまりのない文章でしたが、最後まで読んで頂き有難うございました!

2012/07/02

月4 概論

こんにちは。
今日は朝からジャパネットタカタのCMが見られてうきうきのうだてんです。たぶん、想像以上にうっきうきしてます。

ジャパネットタカタのCMくらいのトーク力とプレゼン能力を目指し続けて早4年。私ももう2回生です。

はてさて…概論しましたよー!
テーマは「戦後の覚せい剤ブームと覚せい剤取締法」です(^ω^)☆

のりピーがキメてたことで有名な覚せい剤ですが、実は始まりは日本なんです。

初めは主に軍や軍需工場で使われるのですが、終戦後倉庫に備蓄されていた覚せい剤が民間に大量放出されて大流行します。大日本製薬会社のヒロポンが特に有名でした。

たとえば坂口安吾や織田作之助。
彼らはヒロポン中毒"ポン中"なんて呼ばれてたそうで。
芸能の世界だけでなく、一般にも広まりました、
私の祖父もよく覚せい剤を買いに行かされていたパシリだったそうです。

(ポン中ってニコ厨みたい。)

どうしてこんなに流行したかっていうと、とにかく安い、そして、覚せい剤の副作用に気づいている専門家が少なく、対策が遅れた、そして敗戦という社会情勢があると考えます。

それから覚せい剤取締法が制定されていくのです。

流行時は法律違反というわけではなかったので、サザエさんのサイドストーリーのような作品で、鱈ちゃんとか若芽ちゃんがキメてるなんて描写もあったりします。

気になった方はググってみてください。

最後に:覚せい剤取締法が制定されてから半世紀以上経った現在でも覚せい剤をはじめ、薬物の威力はとどまることを知りません。それどころか、合法ドラッグの名の下でまだ取締法がない薬物がどんどん誕生するいたちごっこが繰り広げられています。
近頃大阪府内で薬物使用者が自動車で暴走する事件があり、薬物は個人の問題では済まされないものなのです。

合法ドラッグは単なる脱法ドラッグです。

ダメ、ゼッタイ。なんです。


てな感じでした☆

私は太平洋戦争の時期を中心にテーマ設定をしているのですが、戦争体験をした人はどんどんこれから少なくなっていくので、私たちが語り継いでいくためにも、もっと多くの人の話が聞けたらなと思います。

月4の概論はこれで終わりです。
いやーみんながんばった!おつかれさま!
2012/07/01

月3概論

初めまして、1回生のGENTZです。
更新が遅くなってしまいすいませんでした。

今回は、「世界を変えた香辛料」ということで、香辛料を中心として歴史を見ていきました。

西洋では香辛料(スパイス)は、香料、芳香物質、医薬品、染料に近い意味でした。スパイスという語句が今のような意味でヨーロッパ言語に出現したのは12世紀のことに過ぎず、中世以前には、特に芳香物質のことでした。

西ローマ帝国では貴金属などと取引されていた香辛料は、5世紀末の帝国の滅亡以降から11世紀のエルサレム奪還までの約6世紀の間、不足していました。11世紀末から13世紀の十字軍遠征は、イスラム圏の文化に触れたヨーロッパ人に大きな衝撃を与え、それ以降香辛料へのあこがれが増大しました。それからしばらくは東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを中継地として運ばれていましたが、1453年のオスマン・トルコによる帝国の滅亡によって、交易ルートを絶たれ、通過税の高騰を招き、交易量は極端に少なくなりました。

航海術の発達などによって大航海時代を迎えたヨーロッパは、香辛料の産出国と直接交易を行おうとしました。その結果として、喜望峰経由でインドに行くルートや、アメリカ大陸の発見、世界一周などにつながりました。

今回の反省点は、古代ローマから20世紀に至る通史にしてしまったために、情報が多すぎてまとめきれずに多すぎるところと少なすぎるところが出てしまいました。次はもうちょっと絞った内容にしたいです。さらに、先輩方に受けた指摘をしっかりと受け止めて、もっといいものを書けるようにしたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
2012/07/01

木5概論

どうも、3回生のがっきーです。

今回は第四回十字軍に関して調べました。第四回十字軍は教科書等では「ベネチア商人の利益に動かされて、コンスタンティノープル占領、ラテン帝国建設」と記述があり、これは聖地奪回を目指したはずの十字軍は途中でベネチア商人にそそのかされ、仲間のキリスト教国を占領してしまったことを意味し、完全な堕落行為です。尚、ここにおける堕落行為とは、戦いを禁じられているキリスト教徒と戦ったことや、略奪行為を意味します。悪名高く歴史上最も愚かな軍隊の一つとして考えられています。

しかし、実際に調べたところ、通説は最近否定されており、この堕落行為は賃金不足、政争に巻き込まれる等、想定外の出来事が重なって起こったといわれています。誰かが意図的に十字軍を堕落行為に及ばせたわけではないことがわかりました。

十字軍の研究者は世界中にたくさんいるにもかかわらず、年代記などの史料は少ないため、どの研究家の考えも確固たる証拠が少なく、この研究は推測の域を出ないといわれています。今回も第四回十字軍について多くの研究者の意見を調べ上げましたが、混乱したり、説を誤認したり、あまり理解できなかったりで、最後の部分がうまくまとめられなかった点が今回の反省点です。
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