2012/06/27

水4概論

初めまして、1回生のFatmountainと申します。

今回私は「韓国の食―肉食文化と香辛料」という題で発表致しました。 

朝鮮半島の肉食は既に存在しており、馬や牛は重要な財産でありました。
仏教の伝来・普及に伴い、その後植民地時代になるまで殺生が禁止され、肉食は禁止されました。がしかし
禁止令を破るものがおり、破っては禁止令、を繰り返すうちに牛肉食は定着していきました。

次は香辛料、トウガラシのお話。
トウガラシは朝鮮半島に古来よりあったものではなく、日本から朝鮮半島へと伝来しました。トウガラシの使用も伝来してきてから100年以上たった頃にようやくトウガラシを使った漬物が見られました。トウガラシを使ったもので有名なコチュジャンは19世紀になって全国に知れ渡り、キムチには18世紀後半になってようやくトウガラシ入りのものが誕生しました。因みにキムチというのは漬物の総称であり、トウガラシの入っていないキムチでしたらそれ以前からありました。今では韓国の料理には欠かせない存在になりました。

というように昨今の韓国ブームにのって食文化について調べましたが、今回の反省といたしましては、私自身朝鮮史の知識が皆無で深入りした内容にならずまとまりのないものになってしまいました。また先輩方のご質問にもほとんど解答をすることができず、もう少し下準備をする必要があると痛感いたしました。次回はこれらを踏まえて、いいものにできるよう努めて参りたいと思います。

読みにくい内容でしたが、読んで頂いてありがとうございます。

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2012/06/27

月4概論

1回生のきまさでございます。

今回自分は「継体天皇と古墳」について調べて参りました。継体天皇は、父は近江の彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は越前の振媛(ふるひめ)だとされております。雄略の専制政治の反動からヤマト政権内が混乱している最中、これまで大和の勢力に押さえつけられていた淀川流域を中心とする勢力によって河内国・樟葉で即位をいたします。しかし、ヤマト政権旧勢力と継体を擁立した勢力との対立から大和入りを果たすのは20年後となります。
さて、継体陵問題として太田茶臼山古墳と今城塚古墳を比較列挙し、どちらが真の継体陵かを考察いたしました。自分の考察結果と致しましては、継体天皇の崩御年や古墳からの出土物、新池遺跡の調査結果や同時代の墳丘規模の比較から、今城塚古墳が真の継体陵であると考えました。
今回の概論の反省と致しまして、『日本書紀』の記述を前提として調べており、この記述に対する批評を怠っておりました。そのため、医療技術の乏しかったであろう古墳時代において81歳も長生きしているという大きな問題を見逃しておりました。今後このようなことのないよう努めさせていただきます。大変申し訳ございませんでした。

2012/06/26

金5限概論

申し訳ないです。M永です。

今回私は来年成人式を控えている身として、また社会学部の班活動で大人の定義をアンケートなどで調べ、自分でも大人の定義が気になり調べてきました。
今回は通過儀礼の定義を調べ、成人式の、特に武士や貴族の歴史メインで調べてから、時代を下り今度は民衆をメインにおいて調べました。
結論としては班活動だけでなく、自分でも調べても結論は出ませんでしたが、時代が下るにつれて大人の定義は曖昧になり、「大人になる」というコトは各自によるということがわかりました。
今後はレジュメの文体を箇条書きにし、またネットなどに頼らず、参考文献の並びにも気を付けます。
・・・失礼しました
2012/06/24

第2回京都散策

こんばんは、3回生の清洲です。
今回は本日行われた第2回京都散策について報告したいと思います。

散策場所は、京都市伏見区で
寺田屋→伏見松林院陵→長建寺→御香宮神社→柏原陵→伏見桃山陵→伏見桃山東陵→乃木神社
の順で散策しました。

そこで個人的に印象に残った場所を2箇所程紹介させていただきます。

ブログ1

写真は御香宮神社の拝殿です。
拝殿は寛永2年(1625)に紀州の徳川頼宣が寄進したもので、現在の拝殿は平成9年に修復したものです。桃山時代から江戸時代に多い極彩色の色がとても鮮やかで彫刻も縁起の良い題が大半でした。

ブログ2


写真は乃木神社内にある建物で日露戦争の時に第三軍司令部が置かれていたものです。
日露戦争の際、乃木希典率いる第三軍が満州にいる時に司令部を置いた民家で戦後に村野山人が買い取って神社の境内に移築されました。

気温・湿度共に高い日でしたが充分に散策をすることができ、見識を広げることができました。
2012/06/24

月3 概論発表

 はじめまして。一回生のてんてんです。 
 更新が遅れてしまい申し訳ありません。

 今年はロンドンオリンピックの開催が予定され、オリンピック・イヤーということもあり、現代史になってしまいますが、僕は「近代オリンピックにおける政治介入」について調べてきました。

 オリンピック憲章には人種や宗教、政治、性別といった理由でオリンピック大会で差別されたりしてはいけないことが明記されていますが、実際には今までに幾度となくオリンピックは政治介入を受けてきました。

 はじめて明確に政治利用がなされたオリンピックは1936年にドイツで開催された、ベルリンオリンピックです。
 当時、ベルリンではナチスドイツによるヒトラー政権が成立していました。ヒトラーは当初、ベルリンでのオリンピック開催に否定的でしたが、幹部らの助言により、開催を決断します。
 ドイツではすでに反ユダヤ人政策が公然と実施されていましたが、ナチスは一時的にドイツの選手団にユダヤ人を加えるなどして国際世論を刺激しないようにして政治利用したオリンピックを成功へと導きます。
 こうした経緯からナチス主導によるベルリンオリンピックに反発して別大会としてスペインで「人民オリンピック」の開催が予定されていましたが、スペイン国内で内戦が勃発したため、中止されています。

 その後、1968年に開催されたメキシコシティオリンピック、1972年に開催されたミュンヘンオリンピックでは新興諸国であったアフリカ諸国が大きく権限を行使し、当時、人種隔離政策を行っていた南アフリカのメキシコシティオリンピック、ローデシア(現:ジンバブエ)のミュンヘンオリンピックへの参加阻止に成功します。
 さらにその後開催されたモントリオールオリンピックでアフリカ諸国は人種隔離政策を行っていた南アフリカとラグビー競技で交流していたニュージーランドの不参加を求めますが、国際オリンピック委員会はラグビーがオリンピック競技でないことを理由にこれを拒否します。その結果、遂にアフリカ諸国22カ国はオリンピックをボイコットします。これによりその後のオリンピックでもボイコット戦術が拡大していきます。

 1980年、東側諸国としてははじめてのオリンピック開催となるモスクワオリンピックが控えていましたが、1979年にソ連が突如アフガニスタンに侵攻したことによりアメリカが抗議し、モスクワオリンピックのボイコットを示唆します。
 アメリカがここまで強硬姿勢に出たのはその当時、アメリカでは大統領選を控えており、再選を狙っていた当時のカーター大統領がそれ以前に発生した、イランにおける人質事件での失策を補う外交実績を生みだそうとした事情がありました。
 その間、アメリカは国際オリンピック委員会に対し、ギリシャでの恒久開催やモントリオールでの代替大会の開催など対案を提案したりしますが結局受け入れられず、アメリカは国内総会でオリンピックのボイコットを決定します。
 これに同調する形で、西ドイツや日本などの西側諸国がボイコットしますが、一方で、イギリスやオーストラリアなどの国は国旗・国歌を使用しなかったり、開会式に参加しないなど特別な体制ではありますが、政府からの不参加要請に屈さず、参加しています。
 結果として、一部の西側諸国の不参加により、ソ連が国家の威信をかけて開催したモスクワオリンピックは盛り上がりに欠けるものとなってしまいます。

 その4年後である次大会のロサンゼルスオリンピックでは、モントリオールオリンピックでの莫大な赤字などから初の民間による組織委員会での運営となりました。
 一方、そのようなロサンゼルスオリンピックでは、アメリカ側の対応に不満を持ったソ連が「アメリカ政府がロサンゼルスオリンピックを政治利用している」という理由から不参加を表明し、それに追随する形で東ドイツなど他の東側諸国14カ国がロサンゼルスオリンピックをボイコットします。
 ソ連はアメリカ側の対応不信を理由にオリンピックをボイコットしますが、その中にはモスクワオリンピックをボイコットされたことに対する報復感情もあったのではないかと考えました。

 冷戦の終結などにより、ボイコットなど露骨な形での政治介入が行われる可能性はずいぶん減ったと思いますが、今回この経緯を調べてみて僕はこのような抗議活動は今後も十分起こりうるものだと感じました。

 今回の概論についての課題ですが、少し長めの発表となってしまい、時間をオーバーしてしまったので次回からはもう少し内容を削る必要があると感じました。また、原稿を作らずに発表したため緊張してあせってしまい、脚注を作っておきながらあまり触れずに発表してしまったり、順序立てた発表があまり出来なかったりしてしまったのでこれも次回への課題だと感じました。

 長文でしたが最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
2012/06/24

木5 概論

おはようございます。2回のとがっちです。


今回は鎌倉時代の僧侶である、親鸞について調べてきました。特に、彼の生涯についてクローズアップしましたので大まかに見ていきましょう。

親鸞は、承安3年(1173)に、日野有範の長男として誕生しました。ちなみに、この日野家は藤原氏の家系に繋がっていたそうですが、親鸞の一族はその中でも特に下級貴族だったといわれています。

親鸞の幼少時代は、平氏の全盛と没落、木曾義仲や源義経の登場と没落など、歴史の激動期でした。
そんな中、彼は9歳の時に出家をします。京都の青蓮院で、後の天台座主である慈円によって得度(出家)の儀式が行われました。

出家後、彼は比叡山延暦寺にて不断念仏の修行を開始しますが、先ほども述べたように一族のランクがあまり高くなかったため、先に修行をしていた二人の叔父が僧侶としての出世に苦労していたのを知り、自身の出世もあまり見込みがないと思い、自力での修行に限界を感じ、下山します。

その後、建仁元年(1201)、京都の六角堂にて百日間の修行を開始します。九十五日目の明け方に夢告を聞き、この夢告の意味を教えてくれる師を探し求めて法然のもとを訪れます。そして彼のもとで百日間聴聞をします。

その後、元久元年から二年にかけて、法然たちの教団は、南都北嶺の僧侶たちから弾圧を受けます。後鳥羽上皇は始め、法然たちをかばう姿勢でいましたが、法然の教団のある僧侶が、後鳥羽の妻を許可なく勝手に出家させる事件が起こり、それに怒った後鳥羽がついに彼らを処刑します。出家させた主犯の僧は死罪に、法然と、親鸞ら中心的な僧は流罪とされました。
このとき、親鸞は越後の国にながされてしまいました。その後、親鸞は東国で布教活動を続け、62~3歳の時に帰京したと言われていますが、帰京の理由については、確信のある記述や書物が存在せず、諸説あると言われています。

そして、弘長2年(1262)、押小路(おしこうじ)南、「善法院」にて入滅します。享年は90歳でした。


今回は親鸞の生涯を大まかに説明しましたが、内容が少し淡白になってしまったことは否めず、今回の反省点としたいところです。今後は、親鸞の教えが記された書物である『歎異抄』についても、機会があれば個人的に研究をしてみようかと思います。

以上。
2012/06/24

水4概論

こんばんは。2回生のセイヤです。名前負けする日々です。

さて、今回私は、16世紀に宗教改革を行ったカルヴァンについて概論発表をさせて頂きました。
カルヴァンという人物がなぜ宗教改革を起こし、それがどのようなものであったかに興味があったからです。
カルヴァンは、教育熱心な家庭に育ち、教会の支援制度(教職禄)によってパリの大学へ行き、その後オルレアン大学へ行くことになります。この間にカルヴァンの聖書に対する考えが変化し、自分の周辺事情(ルターの宗教改革など)に気付きます。そして、父の死、突然の回心を経て、学問の道を捨て宗教の道へと進むことになったのです。

その後、カルヴァンは、友人のニコラ=コップという人物のパリ大学学長就任演説の内容の草稿を行い、その内容の過激さゆえに、カトリックにより命を狙われ逃亡という名の旅に出たのです。その旅の途中で、プロテスタントの人々に教えを解いたり、1535年に『キリスト教綱要』をラテン語、フランス語での出版によって、彼の名は、ヨーロッパ中に広がります。その後、たまたま立ち寄ったジュネーブで本格的な改革を行いました。
カルヴァンは、①規律と長老制、②讃美歌の作成、③信仰教育の重視、④結婚法の四つの教会規則を軸に改革を進めます。しかし、ジュネーブの市会との意見のすれ違いによって、追放となってしまいます。しかし、その数年後にジュネーブ市民からの熱い要請により、帰還を果たし、本来あるべき教会(民衆のためであり、純化されたもの)を作り出し、教会の模範を作り出しました。

結論として、カルヴァンは、周りの人々の支援により宗教改革を行い、その改革は、教会を純化され、民衆のためのものにしたという点からもわかるように、彼の改革は、もっとも宗教改革らしい宗教改革といえます。そして、模範となる教会を生み出したという点で後世に多大な影響を与えたといえます。

今回の反省点は、急なテーマの変更により内容が浅くなり、質問に十分に答えられなかったという点です。次回の概論では、より深く充実した内容の発表を行いたいと思います。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
2012/06/22

火2限概論

おはようございます。3回生の清洲です。
私は今回「安倍晴明の実像と虚像」という主題で概論を行いました。


晴明の実像に関しましては『禅林応制詩』『御堂関白記』『権記』『小右記』『中右記』等の文献に記録のある陰陽師としての仕事記録を、虚像は『臥雲日件録』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『古事談』等の伝承や説話を中心として考察しました。

詳細は省かせていただきますが、実際の晴明は泰山府君祭などの朝廷の仕事以外にも藤原道長・藤原行成・藤原実資等当時の有力貴族達の個人的な依頼を引き受けたりしており、陰陽道という一般人から見ますとある種特殊な法を使用して朝廷に仕えて最終的には従四位下・播磨守に就任。延喜21年(921)~寛弘2年(1005)に亘る85年の生涯を全うしたようです。
大神氏とも関連が深く役小角も属していたとされ長い歴史を誇る陰陽の大家賀茂保憲・光栄父子をはじめとする賀茂氏に匹敵する陰陽道の一派(土御門家)を一代で作り上げた実力は陰陽師としての力量・有力貴族との交流を含む政治力共に当代きっての人物であったといえます。
実際に当時から「時之得人」(『続本朝往生伝』)や「功ツモリテ名誉カクレナカリケル」(『月刈藻集』)といった評価を受けており、それほどとびぬけた才覚の持ち主でった故に神格化され、式神をあやつる陰陽師・安倍晴明の像が生まれたのでしょう。
説話や伝承にあらわれる晴明の像はほとんどが作られた像であるとはいえ、晴明の力が口伝により話がどんどん誇張されていったということを考えますと一概に虚像と片付けることができる問題ではないように思われます。


今回の反省点としましては、文献と考察を重んじすぎたが故に内容が深くなり高校で習うと思われる基礎知識の説明一切を省いてしまったことと修験道や医術など陰陽道とは深い関係のある事柄に関して説明が欠如していたことです。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
2012/06/22

月曜4限

カラオケの誕生  ~声でつながる社会~ 

・今回はカラオケの誕生・歴史について調べてきました。
 私はカラオケが大好きで、週に一回は必ず行くのですが、カラオケの語源って何だろう?と、いつの日からか考え始めていました。概論の一要素として調べてみると、「空オーケストラテープ」が短縮され「カラオケ」となったことを知りました。
 他にもカラオケの発明者(井上大祐)のことや、カラオケボックスの歴史、通信カラオケについても発表しました。またカラオケが社会に与える影響も大きく、コミュニケーション不足の解消や、老人ホームに導入し、おじいちゃん、おばあちゃんに元気を与えるなど、カラオケの活用法は様々です。  
・歌を歌うことはいつの年代でも人気があり、カラオケは誰もが楽しめるものです。これからもネットワーク化が進むに伴って、カラオケも進化して行くでしょう。
2012/06/19

月3概論

こんばんは、二回生のたあ坊です。
更新が遅れてしまって申し訳ありません。

 今回、僕は「江戸庶民の暮らし」について、当時の江戸における飲料水や食料の供給、庶民の食生活について調べて発表しました。
 
 江戸を居住の地と定めた家康は、入城に先立ち、まず最初に飲料水確保のための施策を実施します。以後、市中の人口増加に伴って、新規の上水開削や分水工事を実施します。そして、最終的に「神田」「玉川」の2大上水が「江戸水道」と呼ばれ、飲料水の供給を担いました。
 
 近世以前、江戸では飲料を含む生活用水を供給するために、河川や溜め池以外に地表を大きく削り、穴の一部をさらに深く掘り下げた「じょうご型」という構造の井戸が各地に造られました。しかし、この当時の井戸は土地の状況によって、どこでも堀りさえすれば飲み水が得られるとは限りませんでした。当時の井戸は浅堀りのために、埋め立てによって広がった土地では、井戸水は塩味がするなどして飲用には不適でした。
 後に掘り抜き井戸の技術(底に竹を打ち込み、深い地下水をくみ上げる方式)が開発されたことで、従来より良質の飲料水が得られ、経費も安く各地で盛んにこの井戸が掘られるようになりました。
 その他にも「水屋」といい、良質の井戸に恵まれない地域に飲料水を売り歩く行商人がいました。天秤棒の両端につけた縦長の水桶2つを「1荷」と呼び、1荷はおよそ100~200文で取引されていました。

 また、江戸に集まる食料の流通の方法として、次の3つがありました。
1,幕府や大名が、年貢として徴収したものの一部を売却するために「札差」や「御用商人」の手を経て江戸に運び込まれるもの

2,各地の物産が集散し、活発な商活動が行われている京・大坂から、流通業者によって船で江戸に運び込まれたもの
3,江戸及び江戸周辺の産物を生産者が直接売り出し、陸路や河川を利用して運んでくるもの

江戸に輸送された食品の特徴として、遠隔地から運ばれてきた食品には乾物、漬け物、発酵といった加工食品が多く、江戸近辺の産物は、生鮮食品が中心となっていました。

 また、この他に、江戸庶民の食生活を支えた職人達や正月の食べ物について史料などを用いて紹介しました。

 最後に、今回の発表を振り返ってみて、発表の時間は質問の時間を含めて30分くらいだったので良かったと思いました。用語の説明などは辞典なども使って調べてみるともっと詳しく説明することができるというアドバイスをもらったので次から試してみようと思いました。
 それから、反省として、僕は、レジュメの印刷に手こずって時間に遅れてしまい、班員の人に迷惑をかけてしまいました。これからはもっと余裕を持って作って、発表の前に自分の発表時間がどれくらいになるのか前もって把握しておくべきだと思いました。
 長文になりましたが、最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
2012/06/14

水4概論

深夜にこんばんは。二回生のよっちです。
昔は埴輪系女子を名乗っていましたが、最近は埴輪よりも神社に興味があるので神社系女子とでも名乗ったほうがいいかもしれません。
でも長くて面倒なのでよっちでいきます。

さて、昨日の4限目に概論発表をさせて頂きました。
テーマは「牛頭天王とスサノオの習合」です。

牛頭天王は外来の神であり、疫病神で、祇園御霊会(現在の祇園祭の元となった行事)では重要な神でした。
一方スサノオは『古事記』『日本書紀』に登場する日本古来の神です。
ニ神は「神仏習合」の影響で同一とみなされるようになります。なぜこの二神が習合していったのか、牛頭天王とスサノオについて共通点を探し、考察しました。

二神が習合する前提の状況として、「神仏習合」と「本地垂迹思想」があります。以下、長ったらしいですがお付き合いください。
仏教が伝来する前、日本には神祇信仰が存在していました。神祇信仰とは、おもに自然神を祀り、雨乞いや豊作祈願などといった現世利益的な願いを叶えるものでした。
仏教と大きく違うのは、1,宗教施設を持たないこと、2,経典を持たず、教義がないこと、この2点です。
そこで、当時の人々は仏教を神祇信仰と同じようなもの、つまり現世利益的な願いを叶えるものとして受容しました。神と仏に大した違いはない、という意識です。
平安時代になると、「神仏習合」という現象が各地で起こります。
神仏習合とは、簡単にいえば神と仏が一緒にされる現象で、神社の境内にお寺を建てたり、神にお経をあげたりといったことが行われるようになります。鎌倉時代になると「本地垂迹説」(神は仏の仮の姿で、仏が本来の姿であるという考え方)が登場し、本地仏(例えば、アマテラスの本地仏は大日如来であるとか、熊野権現の本地仏は阿弥陀如来であるといったふうに)の設定がなされるようになりました。
いよいよ神と仏は一緒くたにされるようになっていきます。

次に牛頭天王とスサノオについて、詳しい書物からそれぞれ話を用いて共通項を見出しました。
それは、1,非常に強い力を持っていること、2,二神とも疫病神とされていること の2点です。
1の力というのは、宿を貸してくれなかった者の一族を殲滅する(牛頭天王)・泣き声で自然災害を引き起こし、神聖な場所で狼藉をはたらく(スサノオ)といったような、いわゆる「悪」の面だけでなく、疫病から人々を守る(牛頭天王)・怪物の八岐大蛇を退治し、生贄の娘を救う(スサノオ)というように、「善」の面も持ち合わせていることが特徴的です。

以上の共通点から、牛頭天王の垂迹(神の姿)が、他の日本の神ではなくスサノオとされた理由がわかりました。

実際に牛頭天王とスサノオが習合した、とする最古の記事が、『備後国風土記』(逸文)にあります。
しかし、この逸文は風土記の時代(奈良時代)に書かれたのではなく、鎌倉時代に創作されたという説が有力です。
なぜ、このような記事が創作されたのか。それは、当時の世相が関係しています。
この『備後国風土記』を引用した『釈日本紀』という書物は、1274年~1301年頃に成立したとされています。この時期、日本は二度に渡り元軍から攻撃を受けていました。いわゆる元寇、蒙古襲来です。
このような国家的な危機は、神風によって回避されました。そこで、「日本は神が擁護する国だ」という「神国思想」が高まります。
そこで、外来の神や地域で祀っていた神は、皇統神と結び付けられていきます。
牛頭天王も例外ではなく、皇祖神アマテラスの弟神であるスサノオと習合していったのです。

結論としては、確かに牛頭天王とスサノオとの間には共通点もあった。しかしそれだけではなく、当時の世相(蒙古襲来、神国思想)が大きく影響していた、ということになりました。

最後に、今回の概論は私自身の不摂生が原因で一週間開始が遅れてしまったことをお詫び申し上げます。

今回の反省としては、非常にとっつきづらいテーマを選んだことで、内容が複雑になってしまったこと。
更に、一般民衆の認知の程度について調査が甘く、質問に答えられなかったことです。
次回以降は、広い視野で物事をとらえて考察・発表していきたいと思います。

以上、長々と書きましたが、ここまで読んで下さってありがとうございました。
2012/06/11

月4概論

はじめまして、一回生の師匠です。
本日、概論発表をさせて頂きましたのでその内容について説明したいと思います。

今回、僕は「松下幸之助」について調べました。
松下幸之助は和歌山県和佐村に生まれました。幼少期に父の米相場の失敗により、大阪に働きに行くことを余儀なくされました。大阪では、火鉢店に奉公したのち、自転車店に奉公しました。ここでの仕事は体力的にきつく、雇用者と一緒に暮らすこと強いられました。しかし、ここでの教育は結果として自己成長の糧になったと考えられます。
その後、1910年に大阪電燈に入社しました。7年間働いたのちに独自にソケットを開発し、それを機に独立を決意します。この期間の間、妻むめのとも結婚しています。そして、1918年に松下電気器具製造所を設立します。設立当初は妻とその弟の3人しか従業員がいませんでした。商品としては「アッタッチメント」「二燈用差し込みプラグ」があります。しばらくして、自転車ランプの発明が大ヒットとなりました。
経営が波に乗るにつれて幸之助は「松下電器の遵法すべき精神」を制定しました。これを掲げた目的は社員全員に会社の指針を理解させ、結束を強めようとしたと考えられます。
戦後に入り、松下電器はGHQに財閥指定され、様々な制限を受けたうえ、職務を追われます。幸之助は、50回以上大阪~東京を往復し抗議します。結果として勝利はしましたが4年間かかりました。
勝利した後、幸之助は日本を復興するために様々な政策を打ち出します。たとえば、5ヶ年計画(五年間で売り上げを四倍にする計画)や週5日制などです。このような政策を打ち出した後、幸之助は社長を辞任し、会長、相談役をへて、80歳に亡くなりました。

今回の発表の反省点は、時間がなかったせいかレジメが未完成であり、参考文献も少ないこと、内容が浅く表面的なことしか書いていないことです。今後、この点に気をつけてもっと余裕をもって取り組みたいと思います。

つたない文章でありましたが最後まで読んで頂きありがとうございました。
2012/06/08

金5概論

はじめまして、一回生のゆんです。
今回は、本日行われた僕の概論発表についてまとめたいと思います。

今回、僕は「フリントロック(火打石)式マスケット」についての発表をしました。
まず、マスケットについて簡単に説明しますと、ピストルより大きく、弾丸を銃の先から装填する肩撃ち銃のことです。
フリントロック式マスケットは約200年の長きにわたって戦場の主役であり続けますが、決してすぐれた兵器というわけではありませんでした。それまで使われていた型のマスケットに比べフリントロック式は安全で安価でしたが、命中率の低さという重大な欠点を抱えます。
この欠点を解決するために、オランダ軍指揮官ナッサウ伯が敵に向かって一斉に弾を放つ斉射戦術を発明し、スウェーデン王グスタフ・アドルフがこれを発展させました。
その後、密集隊形が取れるようになったこと、銃剣の誕生で槍兵が必要なくなったことで戦列歩兵というものが誕生します。これは密集した状態のまま敵に向かって行進し、敵の白目が見える位置まで来たところで立ち止まり敵陣に向かって斉射。後は自分が撃たれるか突撃命令が下るまでひたすら撃ち続けるという戦法です。この方法で命中率の問題は解決しますが、戦場での死傷者の増加という結果を招いてしまいました。

今回の発表では、全体的に準備不足で、資料の読み込みが浅く内容が薄くなってしまいレジュメもわかりにくものになってしまいました。次回はこのようなことが無いよう、気を付けたいと思います。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
2012/06/06

月4概論

こんにちは。2回生のモモです。
更新が遅れてしまい、本当に申し訳ありません。

今回私は「吉備真備による漢籍将来」について調べました。
吉備真備は霊亀二年(716)に入唐留学生に選ばれ、翌年遣唐使につけて玄昉と共に入唐します。
『旧唐書』の記録から、留学の間に真備は鴻臚寺を教場として『礼記』『漢書』などの学習を行い、また、これ以外にも天文・暦法・音楽・兵法など、多岐に渡って学習していたと考えられます。
この学習を元に、唐から持ち帰った漢籍がいくつかあるとされています。
『続日本紀』によると、『唐礼』『大衍暦経』『大衍暦立成』『楽書要録』の4冊が持ち帰られたとされており、それぞれ、『永徽礼』『僧一行大衍暦』『大衍暦立成』則天武后撰の音楽書のことであると考えられます。
『続日本紀』には、この記述の前から帰朝の記事は多数存在しますが、漢籍将来の記事は無いため、この出来事はよほど顕著なことであったのでしょう。
また、これ以外にも『日本国見在書目録』には『東観漢記』も含まれていたという記述もあります。
これらの漢籍は、後世にどのような影響を与えたのでしょうか。
3つの点に絞ってみます。

・暦
 天平宝字元年(757)に暦算生の必講の書に『大衍暦』が定められました。
 また、同七年、儀鳳暦を廃して大衍暦が採用されることになります。
・大学寮
 「五経・三史・明法・算術・音韻・籀篆」の六道全てに真備の知識が取り入れられ、大学で六道の学問を真備自身が教授しました。
 三史は従来の大学教科の中には見られないものであり、文章科の教科書となったようです。
・礼楽思想
 国家が理想の礼と楽を行えば、民衆に秩序と調和が生まれ政治が安定するという思想で、楽思想に基づく天皇の権威の象徴として、儀式の荘厳の手段としての唐楽演奏をより充実したものにしました。

吉備真備は漢籍の将来を主な目的とする遣唐使につく留学生として入唐し、『唐礼』をはじzめとする多くの漢籍を手に入れました。これらの典籍は先述のとおり、後世に高いレベルで影響を与えることとなりました。

ざっくりとですが、このような発表です。
今回の発表に関しての質問は、
・『神皇正統記』を典拠に14c前半に真備将来の典籍が重要視されていると言うが、学者レベルでの話ではないのか
・訓詁学は儒教的な意味を持って使っているのか
・真備は唐代の音楽芸能の最盛期であった玄宗の時代に重なると言うが、開元の時代ではないのか。そうであれば、音楽に力を入れているということはありえるのか。
などです。ありがとうございました。
今回の反省点は、時間をかけて調べられなかったために内容が薄いこと、限られた視点でしか考えることができていないため、出来事を多角的に捉えられていないことです。
これらの点に気を付けて、今後、より深く調べてみたいと思います。

ここまで読んでくださって、ありがとうございますした!
2012/06/05

月3概論

こんにちは、二回生のカーチャです。
更新が遅れましたことを、お詫び申し上げます。

昨日、本日二回目の概論発表をさせて頂きましたので、その内容について概要を説明したいと思います。

今回のテーマは「ロシア正教会の改革と大分裂」で、17世紀半ばのロシア教会における儀式改革の問題について考察しました。ロシア教会では、17世紀から総主教職の地位や教会の影響力の拡張が増してきました。その発端が1613年のミハイル・ロマノフの即位と同時に、彼の父で総主教フィラレートが息子の共同統治者といて君臨したことから始まります。彼は総主教ですが教会内の問題よりも国家統治に関心が強く、死に至るまでは事実上ロシアの支配者でありました。これにより総主教の地位は向上し、世俗の支配者と同等の権威を手にしたのです。

また、当時のロシア教会ではあらゆる問題を抱えていました。一つは異教的な信仰や慣習、在俗司祭の無知や教会内での長時間の儀式といった二重信仰がロシアで定着し、これらはいずれも本家のギリシア正教の形式とはかけ離れたものになります。 こうした問題を聖職者は決して無視するわけにはいかず、モスクワが「第三のローマ」すなわちビザンチン帝国の後継ぎとして、ギリシア正教の信仰に忠実になってそのモデルを見せるべきだという意見は一致していたのです。

1652年に総主教に任命されたノヴゴロドの府主教ニーコンはこの問題に対する改革に着手しました。以下が改革の内容になります。

1.十字を切る際の指の数を二本から三本に変更
2.ハレルヤを二回でなく三回唱える
3.跪拝を廃止
4.長時間の儀式の禁止
5.ギリシア語典礼書を模範に改訂された教会スラヴ語典礼書の導入

しかし、古いロシアの儀式を維持する者はニーコンの改革に当然反対し、ニーコンは反対派の制圧と迫害を徹底しました。ニーコンはさらに俗権に対する教権の優位を主張し、傲慢なニーコンに対する不満が高まった皇帝アレクセイは1658年にニーコンを総主教の地位から追放します。

ロシア教会を本家のギリシア正教の慣習に帰依する意図で実施されたニーコンの改革でしたが、皮肉にもこの改革は後にロシア教会を旧信徒派(改革派)と古儀式派に分裂させる結果を招いてしまったのです。

けれども、ロシア教会はギリシア正教の信仰を振り返り、国家に関して教会側が関与をしない、といった点を再確認する機会を与えたこの改革の業績は否めず、これによりツァーリの権威がより一層高めるきっかけにもなったのではと思います。

今回の概論では、時間の都合上教会改革と「第三のローマ」という概念を絡めて説明出来なかったのと、キリスト教の基礎的な知識が不十分な状態で発表したことが今回の反省点 となります。


長文になりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございます。
2012/06/01

概論(金5)

どうも、エムスターです。

ついに史学研の主要活動である概論発表が始まりました!
今年初めての概論の一番手となる発表者は私でしたので、内容をまとめたいと思います。

今回の私の概論のテーマは「普仏戦争」です。
普仏戦争とは、当時国力をつけていたプロイセンと、列強国の一つであるフランスとの戦争です。
戦争はプロイセン優位に進み、フランスは皇帝であるナポレオン3世が捕虜になるまでに追い込まれます。この戦争の間、第2帝政が倒れたりドイツ帝国が成立したりするなど、さまざまな出来事がありましたが、普仏戦争はドイツの勝利となり、フランスはアルザス=ロレーヌを失います。
この戦争から始まる因縁は第一次世界大戦の遠因となり、第一次世界大戦にてフランスはアルザス=ロレーヌをドイツから奪い返すことになります。

今回の発表では日本史の方々もいらっしゃったので、その方々にはよくわからない発表内容だったかもしれません。次回の発表では、誰にでもわかりやすい発表にしたいですね。

概論発表も始まったばかりです。史学研の方々のこれからの発表を楽しみにしています!
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