2011/12/18

秋学期 概論 (木4)!

こんばんわ。1回生のとがっちと言います。よろしくです^^
今日は、12月8日に行われたボクの概論発表について報告をしようと思います。
更新が大変遅くなってしまいましたことを、どうかお許しくださいませ。

ではでは、概論の内容を簡単にまとめてご紹介いたします。
今回ボクは「浦島太郎」をテーマにいくつかのことを調べました。

まずはストーリーの変容について。
現在、私たちが知っている「浦島太郎」のストーリーは、原型ともいえる「丹後国風土記」に掲載されているものと、いくつかの相違点が見られました。以下の内容が、もっとも初期の「浦島」のストーリーです。



「水之江の浦島子という人物が釣りをしていると、亀を釣り上げる。この亀が美女に変身して、浦島子を蓬莱山(常世の国)へ招待する。三年を楽しく過ごして帰郷してみると、数百年が経過していた。浦島子は、蓬莱山での生活や、妻であった女神を想い、嘆き悲しんで歌を詠んだ。」



この中で現在との相違点として挙げられるのは、

・亀を「助ける」のではなく「釣り上げる」
・蓬莱山→不老不死の理想郷→憧れ
・嘆き悲しんで歌を詠むという結末
といった点です。

その後、室町期に発表された「御伽草子」ではほぼ現在の形になり、明治四十三年の「国定教科書」に掲載されたことで、一般に広く知れ渡るようになったとのことです。

ちなみに、ストーリーの変容に関して、時代背景や当時の思想等が関係していたかどうかなどは特に言及されていませんでした。


さらに、「浦島」にまつわる伝説や建築物などが日本各地に存在することもわかったのでそちらもいくつか紹介します。

○真楽寺(愛知県 武豊町)
 元亀元年8月に創立された寺。本堂左下に小さな石があり、浦島太郎が助けた亀の墓だと言われています。


○ウサン嶽(沖縄県 島尻郡 南風原町)
 沖縄の浦島太郎は「穏作根子」という名前です。
「おさねし」と読みが書かれているが,地元の人は「うさんし-」と呼んでいます。中に、穏作根子の墓がある。


この他にもさまざまな「浦島」スポットが日本中に存在していて非常に興味深かったです。

今回の概論は、非常に切羽詰まった状態で仕上げてしまったため、かなり内容の薄いものになってしまったことが自分の中での反省点です。もっと時間をかけてよく文献を読み、十分調べたうえで発表することを今後の課題にしたいと思います。

ここまで見て下さった方、ありがとうございました^^
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2011/12/02

概論 金2 

おはばんちは、ここのブログの出現率№1、二回生のセッシーでございますm(_ _)m
金曜のトリを飾る概論、今回私は伏見稲荷大社に関して
チョイとばかし調べてまいりました。


和銅四年創建と伝えられ、稲荷山そのものをご神体として崇める
山岳信仰や近辺の古墳を崇拝する信仰が原点であったものが変化し、
渡来系の秦氏の氏神信仰が合わさって、やがては現代へとつながる
ウカノミタマのミコト、サルタヒコノミコト、オオミヤメノミコトの三柱を
主な祭神とする稲荷信仰が形成されていきました。
今でもその名残は、境内のあちこちに見られる大小約一万基の「お塚」(土を山状に盛ったもの。
現在は石で社が建てられている。)に見ることができます。

稲荷と関係の深いキツネですが、上に書いたウカノミタマノミコトの
別名がミケツカミといい、そこからキツネの古語であるケツが想起され、
三狐神(ミケツカミ)と字があてられ、やがては狐が稲荷の御使いであると
みなされるようになっていったという説が有力です。
かつては稲荷山にはたくさんの狐が棲んでおり、あたり一帯の作物を荒らすネズミを
捕食していたことが下地であったのではないかと推測されています。

神仏習合についても、この社は空海の建立した教王護国寺(東寺)と深い関わりがあります。
空海の仏法興隆へ稲荷神が尽力した話、東寺五重塔建設に関する稲荷神の祟りの
話など、さまざまな伝承、逸話が伝わっておりますが、双方民衆に信仰されていた
ため、比較的ほかの神社仏閣よりも結びつきやすかったのではないか、と
推測できます。



トピックが絞り切れておらず、整合性のない内容になってしまったこと、
うまくまとめきれず、レジュメの記述だけでは分かりにくくなってしまったこと、
そもそものお題が歴史学と民俗学の境であいまいな資料が多く、確実なことが
多くはなかったことそれをそのまま述べてしまったこと。
反省点は山ほどあります(^_^;)
今後発表する際には簡単な原稿を作成し、残しておくと後々に活用できるという
ありがたいご指摘も受けました。
今後も精進していきたいと思います。


現地へ赴いて調べてくる、という手法は私の性にも合っているので、
今後もそういった調査方法をとる機会があればぜひやっていきたいなぁ、と
考えております。



最後になりましたが、切ってくださった部員の皆、そしてこのブログを
閲覧いただいている皆様、つたない内容ですがご覧いただきありがとうございます
今回はこのあたりで。

2011/12/02

概論(水3)

お久しぶりです。1回生のモモです:)

今回の概論では『「非人」の社会的立場の変遷』について発表させていただきました。

現在、部落の発生の一要因であると考えられている「非人」について、どういった経緯で卑賤視される存在となったのか、その後の展開とともに調べました。

・「非人」の成立
・「非人」のケガレ観の変化
・近世における「非人」の社会的存在
・近代社会と部落
・戦後の部落に対する意識

の5つに分け、主には、古代~中世前期にはまだ卑賤視されていなかったと考えられる「非人」の社会における変化をいくつかポイントを絞って挙げてまとめました。

このブログでは「癩者」についてのみまとめておこうと思います。

中世後期において癩者は穢れた存在とされていたのですが、古代律令体制下では律令で、様々な優遇策がとられていたことがわかっています。つまり、この頃少なくとも公には差別や卑賤視の対象とはされていません。
では、どうして中世後期以降卑賤視されていたのでしょうか。
これは「病の穢」観の中世的な展開が関係しているようです。
古代、ほとんど受容されていなかった法華経が10~11世紀の中世社会に浸透していきます。そして、法華経や持経者を軽んじた者が蒙る「罪報」として「無眼」や「白癩病」などが描かれていることから、それが中世後期卑賤視された癩者の姿に照応し、卑賤視されるに至ったのだと考えられます。

病をケガレとみる観念自体は古代以来存在していましたが、律令解体期である10~11世紀において肥大化したようです。そのため、中世社会においては大乗を貶したことの「罪報」としての「諸の悪き重病」が穢れたものと見なされるようになり、またそれとともに「病」自身のケガレ観を二重に負った存在として厳しい疎外の対象となったと考えられます。

このように「非人」の社会におけるケガレ観の変化について発表しました。

概論班の方や時間が合い、聞いてくださった方々、ありがとうございました!:)
「非人」というあまり取り上げないテーマに対しても様々な質問をしてくださいました。
質問に対しては、とても十分とは言い難い回答しかできず、申し訳ありませんでした。

反省点は、現在も研究途中であり、論もかなり分かれる分野の選択は時間がかなり限られる概論という形式には不適切だったことや、どの論に依拠すれば良いか分からないということや、後の部落についての問題へと発展させたことで内容に一貫性が無く、主題がぶれてしまったことです。次回はこれら点にも気を付けたいと思います。

あと、この緊張しすぎる性格もどうにかしたいです。笑

では、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました(*^^*)
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