2011/11/21

概論 月3

はじめまして、史学研1回のうだ天です。

最近は一段と寒くなりまして、みなさま風邪などはひいていないでしょうか。私は「バカは風邪ひかない」なんて言葉を信じて風邪予防を怠った結果、見事に鼻水が滝のごとく/(^O^)\←バカ
おうちに帰ったら手洗いうがいです。ガラガラ。これ基本です。

さてさて本日、11月21日(月)3限に
「桃太郎」の変容
というテーマで概論発表をさせていただきました。
ITセンターでレジュメを印刷したのち、部室に向かう途中で銀杏を踏んだことで、部室を銀杏の香りで満たしてしまったことをこの場をおかりしてお詫び申し上げません。
だって落ちてる銀杏が悪い、わたし悪くないっ!(`•ω•´)←

(「」がついている桃太郎は物語としてのもの、ついていないものは登場人物としてのものです)

「桃太郎」というお話、ご存知ですか?
「桃太郎」という昔ばなしは地域差があるとしても、桃が原因となり生まれた桃太郎が鬼退治に行くという本筋は変わらないでしょう。

その「桃太郎」というお話、室町~戦国時代に成立したのですが、特に明治期以降は人々の思想を反映し、変化してきました。

教育勅語の影響を受けたものでは、皇室主義の桃太郎が、
大正デモクラシーの影響を受けたものでは、児童中心主義の下に子供らしい桃太郎が、
プロレタリア児童文学としての「桃太郎」は社会主義思想を反映し、
第二次対戦中では軍国主義の桃太郎が登場し、鬼が島を空撃します。

周りを取り囲む人物や動物が親しみの深いものであったり、鬼を征討する理由に、近代における悪を懲らしめるこじつけを当てはめやすかったため、「桃太郎」は人々の思想を反映してきたと考えられます。

また今日の「桃太郎」も例外ではなく現代の民主主義思想を映し出しているもので、それはイヌやサル、キジを"主従関係"ではなく"仲間"としてみている点、鬼退治の理由が村の人が被害を受けているからというあくまで消極的な理由かつ正当防衛である点などからうかがうことができます。

21世紀が始まって、早くも10年が経とうとしていますが、私たちに子供や孫ができたときに語り継ぐ「桃太郎」が真っ当な作品であるために、桃太郎が非行にはしることがないよう、願うばかりです(´ω`)
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2011/11/20

概論(木4)

はじめまして、1回生の344です。
先日木曜4限に前漢の三傑である蕭何の功績について概論発表を行わせて頂きました。今回この人物を扱った理由としましては、楚漢戦争後の論功行賞の席などで功臣の内でもとりわけ高い評価を得ている所以を『史記』『漢書』の記述から改めて確認したいと感じていたためです。簡単にではありますが、以下に概要を述べさせて頂きます。

蕭何は高祖劉邦の故郷でもある沛の人です。県の主吏(司法官)の属官をしていましたが、その立場を利用し、当時庶民であった劉邦をしばしば法律上の事で護ってやっていました。劉邦が亭長となった際もこれを補佐、沛公となった時には客として迎えられ丞として諸事を監督。そして漢王となって以降も丞相(のち相國)として劉邦を支え続けました。

戦時には、自ら戦地に赴くことこそ無かったものの、関中を固守して、劉邦が敗れて遁走した際には詔令が無くとも新たに軍を前線に送り込み、糧食が窮すると転漕してこれを給しました。民に犠牲を強いるこうした状況の中でも人心を良く掴み、漢に親しませました。後の位次を決定する席でもこれらの事が前線で功を上げる事以上に評価されています。また韓信の大将軍登用を強く勧めたのも蕭何でした。咸陽入城の際の秦の律令図書(地図など統治上枢要な物)の収集や、示威を含めた壮麗な未央宮の建設の主導、優れた法律の整備など400年継続した漢朝の基礎の形成に深く携わっている点も評価の対象と言えます。

また、功臣である諸侯の粛清の際、民の信頼篤い蕭何に疑いの目が向けられると、わざと私欲を覗かせる悪政を演じて民に不満を上奏させることでこれを回避し、劉邦からの信頼を益々強めるに至りました。

今回の概論を通じ、個人的には、その優れた内政能力や才を見抜く鑑識眼を用いて高祖劉邦を決起以前から皇帝となって以降も支え続けたという功績が高評価の所以であると同時に、諸々の功績が劉邦からの信頼あってのものであること、兵員・食糧の円滑な補給が人心の掌握無くして成立しなかったであろうこと等を鑑みても、その根底には蕭何自身の人格が優れていたことがあっただろうと感じました。

講評の際に指摘を頂いたレジュメへの漢文の引用方法や時代背景の解説の不十分さなどの反省点は次回以降反映していきたいと思います。冗長かつ独善的な発表になってしまったと後悔しきりですが、真摯に聴いて頂き、質問も行って頂いた概論班の皆さんには頭が下がる思いです。

長くなってしまいすみません、拙文を最後までお読み頂き有難うございました!
2011/11/18

水曜の概論

   こんにちは、一回生のたあ坊です。
先日の16日の概論で僕は、「五人組」について発表しました。
 このテーマを選んだ理由は、自分は五人組については、「江戸時代に農民支配のため、農民を連帯責任と相互監視下においたもの」という用語の意味程度しか知らなかったので、今回の発表では、五人組の起源から五人組は、近世社会においてどのように機能していたのか、近代に入って存続したのかについて参考となる史料を引用しながら調べてみました。
 

 五人組の起源については、これまで、定説として豊臣秀吉が伏見城下の治安対策のために出した「御掟」が有力な史料であると考えられてきました。それは、組編成に際して、五または十の画一的で分かりやすい数字が使われ、これが村、町の人民支配の基礎となったとされてきました。しかし、本来は城下の治安維持のためであって全国の人民支配を念頭に置いていなかったことから、組編成については参考となったと考えて良いが、制度についての五人組の起源を求めることには、検討の余地があるとされてきています。五人組の組編成については、戦国時代の足軽等雑兵の編成などの軍事組織にも系譜があるのではないかと考えられています。一方、制度としての五人組の起源については、前田利家が越前国の百姓に年貢米を催促している文書に組編成、連帯責任制がみられることからこの史料がふさわしいのではないかとの見方もあります。

 この他にも、江戸時代に本格的に五人組が成立するまでの間、五人組に先行した十人組について、五人組の全国的成立、五人組の編成、村の生活の中で五人組が果たした役割、明治時代の五人組についても調べてきました。
 いただいた講評については、詳しく調べている、よくまとまっているというものでした。質問もたくさんいただきました。
 僕は、自分の発表を振り返ってみて、原稿を間違えて縦向きにして作っていたので、発表中も恥ずかしかったです。それから、緊張から言葉に詰まってしまったりして時間も長くなってしまったと思います。このような発表の機会を利用して、発表慣れをしていきたいと思います。また後日、原稿については横向きの形式に修正して持って行きます。最後まで読んで下さってありがとうございました。
 
 
2011/11/15

概論  月3  

こんにちわ、2回のがっきーです

本日概論のテーマとして取り上げた内容は「少年十字軍」についてです。

聖地エルサレム奪回、キリスト教会統一など様々な目的で始まった十字軍遠征。しかし正規の軍隊としての十字軍ではなく、聖地エルサレムに強い憧れを抱く一般民衆によって組織された「民衆十字軍」が存在していました。

その中でも神の啓示を受けた少年を筆頭にフランス発足した「少年十字軍」は、12歳前後の少年少女が数千から数万という大人数で聖地へ向かいます。

しかし、道中で飢餓、略奪、疫病によって次々と脱落、何とか港町マルセイユについたのは一部でした。そこでモーセのエピソードで知られるように、海が割れ、聖地への道が開く奇跡が起きるまで待ちますが、海が割れることはありませんでした。

そんな中、聖地まで無償で送ろうと言う商人が現れ、一行はそのまま船に乗り18年間行方不明に・・・・・


18年後無事帰国した一味の一人の証言によると全員そのままアレクサンドリアへ連れて行かれ、そのまま全員奴隷として売られたそうです。

また、ドイツで発足した少年十字軍も港町ジェノヴァで海が割れる奇跡を待ちますが、割れません。その後一行は教皇に援助を請いますが、許しを得られず、そこで空中分解してしまいます。そして彼らも現地の悪徳商人にさらわれ、売られるという悲劇的結末を迎えます。


以上が少年十字軍にまつわるエピソードですが、他にも200年間に及ぶ十字軍遠征には様々なエピソードがあります。もっともっと研究していきたいと思います。

2011/11/14

金3概論

はじめまして、一回生のロシアっ子カーチャです。

11月11日に「タタールのくびき」というモンゴルのロシア支配における歴史的意義について概論発表をしました。

またロシアかっ、と思う方もいるかもしれませんが、少しだけ簡単に概要だけ説明したいと思うので、しばらくお付き合いお願いします。

13世紀半ばに西方大遠征の主将に任命されたチンギス・ハーンの孫バトゥはロシア(ルーシ)に侵入し、ロシア各地方を襲撃、侵略した後にヴォルガ流域付近にキプチャク・ハン国を樹立します。そのキプチャク・ハンのロシア支配は15世紀後半までの約240年間にわたって続き、その屈辱から「タタールのくびき」という名称が誕生しました。

ところが、モンゴル側の支配も比較的緩く、ロシア側に税の徴収をするだけで満足し、ロシア正教会に対してもサライ(キプチャク・ハンの都)に主教座を創設するぐらいの寛容な態度を示していました。ロシアの各公国の君主も、ハンからヤルルィク(勅許、特許権)を得れば統治は許可されていたのです。

そして、ロシア側はモンゴルの支配に服従する方法を選択し、支配体制や社会制度を採用して巧みに利用し、後の専制的支配体制を基盤としたモスクワ大公国、ロシア帝国(ロマノフ朝)の礎を形成していくことになります。 したがってロシアはこのモンゴル支配を屈辱から強みに変えて自国を大国へと導いたのです。

モンゴルの襲撃はロシアに多大な被害を与えました。しかし、こうした点で「タタールのくびき」はロシア史において重要な時期にあたり、私的にはモンゴルのロシア支配の時期を「タタールのくびき」とは言い難いと考えています。

質問の際は、二国の国の視点で説明する際はその年号を作成した方が良い、または資料が英字表記の時は分かりやすく片仮名で表示した方が良い、関連付けが困難な内容はなるべく記載しない、といった指摘を頂きました。

長文になりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございます。次回の概論も楽しみにしています。


2011/11/13

概論(水3)

はじめまして!戦国時代が大好きなツジモンという者です。

11月9日に「石田三成」についての概論発表をしました。
更新が遅れたことお詫び申し上げます。

石田三成というと関ヶ原の戦いで西軍を率いて、徳川家康率いる東軍と刃を交え敗北した人物として有名ですが、視点を変えると関ヶ原の戦いは三成のような内政面を得意とする文治派と福島正則や加藤清正といった戦場で槍を振るうことを得意とする武断派との対立の結果と見ることもできます。

正則や清正ら武断派が東軍に属し、西軍の小早川秀秋の寝返ったことが西軍側の決定的な敗因となりました。三成は寝返りの可能性のある武将たちの奥方を人質に取るなどしたため、人物としては冷徹なイメージを抱かれることがありますが、実際は領民にも慕われた人物でした。
また、豊臣秀吉との馴れ初め、家臣の島 清興(左近)や親友である大谷吉継との逸話に目を向けると彼が他者への優しさを持った温かい人物であったと評価することもできます。今回の概論では三成と彼を取り巻く人物との親交や敵対に焦点を当て調べました。

秀吉に見込まれ登用されたきっかけとなったのは、鷹狩に来ていた秀吉にお茶を出す際、お茶を3回に分け秀吉が舌をやけどしないように配慮したためでした。(三献の茶)

島左近を登用する際は三成自身の領地の半分を譲渡し、渡辺新乃丞を登用する際は領地のすべてを譲渡し三成自身は新乃丞の宅に居候しました。

三成とそりが合わない武断派と三成の間を保っていたのは大谷吉継であり、茶席で困り果てた吉継をためらわず助けたのが三成でした。

概論における反省点としては各人物について詳しく調べきれなかった点と、三成の具体的な功績を数値などで紹介できなかった点です。

今回の概論では「人には得て不得手があること」と「他者への理解、配慮が大切であること」を考えさせられました。
私も他者への思いやりを欠かさぬように精進したいと思います。
ご覧いただきありがとうございました。
2011/11/11

先日の概論(木4)

初めまして。一回生の埴輪系女子です。

先日10日の4限目は私の発表の日でした。
春と秋、二回しかない概論ですが、春が終わったと思えばもう秋のぶんも終わってしまいました。
時の流れは早いものですね・・。

さて、簡単ですが、概論の内容と感想とを紹介したいと思います。

発表のタイトルはずばり「月読命とその信仰」。
月読命(ツクヨミノミコト)というのは日本神話に出てくる神様で、伊勢神宮に祀られている天照大神(アマテラスオオミカミ)とはいわば姉弟のような神様です。
月読命は全国各地の神社に祀られていますが、今回は京都市西京区にある月読神社について調べました。

何故、京都という地に月読命が祀られるようになったのでしょうか。また、一体何の神として祀られているのでしょうか。
…といった疑問を調べ、考察しました。

すると、この月読命は元々は長崎県の壱岐(島です)に祀られていたということがわかり、神社の鎮座の由来も大変古く、5世紀後半だということもわかりました。
『日本書紀』によれば、月読命の神託を受けた阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という人物が、朝廷にこのことを奏上し、押見宿禰(おしみのすくね、のちの壱岐氏の祖先)という人物が創建したのが始まりだそうです。
その時奉ったのは「歌荒樔田(うたあらすだ)」という地で、宇太(当時あった地名)にある田、という意味です。現在月読神社があるのは別の場所で、移設されたのは9世紀のことです。

月読命はその名から、天文の神という印象がとても強いかと思いますが、実際には様々な信仰の側面を持った神でした。
まず①に月を読む=月齢を数える、暦を読むということから暦と、それに関わる農業の神。
②に月読神社を創建した壱岐氏が卜占を伝えた一族であることから、卜占の神。
③に壱岐に祀られていたこと、月が航海する上で方角を知るのに重要であることから航海の神。
そして④に天文の神です。

このように予想外なことがたくさんわかり、調べていて非常に楽しかったです。
趣味に走ったから、というのもありますが・・。

発表では人物の名などに読み仮名が欲しいという声があがりました。ごもっともです。
次回からは見やすく、わかりやすいレジュメを心がけたいと思います。
また発表のテーマのことばかり調べていたので、他の関連する事柄についての質問に納得してもらえる答えを提供することができなかったのも、反省点の一つです。
史学研大会、来年春の概論では、この二点を改善していきたいと思います。


ここまで長々と読んでくださってありがとうございました。
これからの発表を楽しみにしています(*^^)
2011/11/06

学園祭

はじめまして。
史学研究部2回生の清洲と申します。


先日行われました関西大学学園祭,
我々史学研究部も焼き鳥の店を11月3,4日に出店いたしました。


3日・4日ともに晴天に恵まれ、また3日は休日ということもありまして沢山の方々にいらしていただき、
4日は平日にも関わらず前日とあまり変わらない程沢山の方々がおいでくださりました。


どうしても予想外の出来事というものは起こってしまうものなのか途中でコンロが2つ壊れる、
ガスがきれるなどの全く予想だにしなかったハプニングもありましたが、
史学研の皆さんの活躍で何とか乗り切ることができ、
それらも含めて内容の濃いとても充実した学園祭になったと思います。


わざわざ時間をさいて当日いらしてくださったОBの方々・史学研の皆さま・そして御来店してくださった方々、
本当にありがとうございました。
2011/11/02

学祭のお知らせ

早いものでもう11月です。
最近めっきり寒くなってきましたね(^ ^;)
そろそろストーブが活躍する季節ですが、某店主のところは今年の冬、
ちゃんと動くのでしょうか?燃料の供給源がアレだからなぁ…
というわけでこんばんは。

さっそく本題に
明日11月3日と11月4日、私たち史学研は模擬店で焼き鳥をやります!
場所は凛風館(千里山キャンパスで一番でかい食堂)の横、階段側から数えて5,6番目のブースで、
目印は兜カブったやたらイカツイひよこの看板です(名前募集中)。
そこそこおいしい(たぶん)のでぜひゼヒ、ご来店ください!お待ちしておりますm(_ _)m


それともう一つ
このブログを見ていただいている近畿圏の大学の方で、歴史に関するクラブ活動、
もしくはサークル活動をしている団体さん、よろしければこのブログにコメントください。
龍谷さんや立命館さん、花園さんの団体とで開いている「関歴蓮」絶賛加盟団体募集中です!


11月は学祭、改選、学博と、われらが史学研におけるイベントが目白押しです。
その都度ちまちまと更新していけたらいいなぁ、このブログ。
イベントなくても部員の徒然日記とか書いてもいいし。
一ヶ月たったからそういったのもアリかもねん。
そうそう、学祭に関してアイデアを出してくれた人、看板作りとかの作業をしてくれた人、
本当にありがとう。頑張って成功させましょう!

というわけで今回はこの辺で。
幽雅に遊惰に日々を過ごしたい、セッシーがお送りしました。
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